gift ー「贈与」を考えていくと…
受け取ったものを、たぶんどこかで「do」していて、それはまた未来のどこかで、繋がれていく、継がれていく。
そんな風に、最近の子育て生活のなかで、あるいは仕事において、思ったり、思いだしたりします。
2022年、コロナは終息しないまま、終わろうとしています。
今年の始め、何を思ったっけ?
「コロナを言い訳にしたくない」と動いた部分と「まったく変わっていないな。あかんやん!」と反省する部分と。
ただ、たくさん本は読んでいました。
趣味のひとつは読書だと、自信をもって言える。
知人を通して、西田卓司さんという人の存在を知りました。その人のブログが面白くて読み始めたら、かなり私が読んできた本、あるいは気になっていた本とかぶっていたものだから、嬉しくなって、すぐに連絡を取らせてもらいました。
「私の読書灯」と勝手に決めて“これから読みたい本”の参考にしてきました。実際読んだものでごくごく最近、すごく衝撃的だったのが
『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太)。
え?!
ホントに、いま、学校や若い人たちの間でそんなことが起きてるの?!
とズドーンと衝撃を受けてしまった。
不登校の子どもが増えているのは十分知っていたし、その理由が複雑なのだって理解できる。(現在の“学校システム”で、果たして本当の意味での学びがあるのかどうか、私自身疑問に感じる部分も多いから)不登校は“ただしい反応”だと話す人たちの言葉にも頷けるものがある。
だけど、不登校の本人が「学校には行けない。理由?わからない」と言うケースが多いとは、ここで初めて知った。
背景には何が?
〇不登校の要因
読み進めていくと、その「説明できない」理由が、十分納得し得るんですよ。
スマホの普及、スマホを保持する年齢の低年齢化。
将来の夢は「ユーチューバー」。
ゲームや動画。LINE慣れ。「既読」の不安。「即レス」。
そこにないものは、
自ら考えることであり、待つことであり、容易くないことであり、肌触りの実感であり、自然、だ。最もなのは“想像力”かもしれない。
また別の次元で考えたと、“そこにないもの”があるのではないかと。
誰かに手渡すもの、贈るもの、継がれるもの、です。
ここで別の本を。
『世界は贈与でできている』(近内悠太)。
大人になって「あの頃のあの言葉・行為」が有難いものだったとか、あの時は反発したし、受け止められなかったけど…ってこと、誰にでもありますよね。
私の場合、自分の子ども時代を思い出すことが増えた、とは冒頭に述べました。現在、娘が小学2年生で、私自身の記憶も、小学生時代は色々思いだすことができるから”あの頃は…”と重ねてみてしまうことが多いんです。
「あのとき、お母さんとあそこに行ったな、連れて行ってもらったな」
「あの頃のあれ、楽しかったんだよね。懐かしー!ああいうこと、今も出来たらいいのに」
自然ある場所で自然のなかで遊んでいた自分。
カニとかトンボとかよく捕まえて遊んでいた幼い頃の自分。
(そういう“場所”自体もgiftだったのだと今は思います)
自ずと、娘はそんな姿になり、(手づかみで虫を捕まえる娘に対し、当然ながら私は「ぎゃ~!」とか言わないし、「おー、すごいね」の会話となるわけで…。
自分が親や周囲のひとにしてもらってきたことを、自分の子どもにもいつの間にかしている。
逆のパターンももちろんある。
「あのとき、あれしてほしかったんだよね…」
だから子どもには…。
とか。
(ここあたりの記述は、認知症の人とのコミュニケーションにも非常に深く関連しているのでまた面白い!!)
私たちは、時に(私自身はけっこう頻繁に)「想像力に欠けている状態」になります。←夫と言い争うときとか、イラっとする状態がちょっと続くときとか。
想像力=“他者の靴を履く”ことでもあるのでしょう。
(ブレイデイみかこさんの著書も色々読み応えがありますね。『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』)
身を置いてきた環境によって、自分の“当たり前”は大きく変わる。
(だから人は“みんな違う”)
それはまた、価値観の違い。一方で、その“当たり前”が揺さぶられ、変わることもある。変えることができるし、変わることはマイナスでは決してない。
常に世界は動いているのだから。
動き続ける世界のなかで、自分の思考も状態も、その時々で変化していく。
ただできるだけ、well-beな状態でありたいから、いろんな書物に触れる。いろんな人、環境と出会いたい。しゃべってみたい。
学び続けていきたいと思います。
そのうえでの、do・実践も。
いま読んでいる2冊。これまた非常に面白い!!
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