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仏教ってなんだろう。「市民性」を考える。

「見樹院」を知る



前回、天然住宅(西東京市)さんのお話を綴りました。


「家を買う」ではなく、一緒に「つくる」という方向なら、もっとずっと気持ちよくて、心地いい家ができるのだろうなと感じます。
そして。
建築は、やっぱりとても面白い!!これからも、問い続けていきたいと思います。
 
 さて、天然住宅さんへの取材が決まった際、私は一冊の本を読んでいました。環境活動家・田中優さんと、建築士・相根昭典さんによる『天然住宅から社会を変える30の方法』です。
 本のなかに出てくる「見樹院」というお寺。東京都文京区小石川にあります。宗祖800年遠忌事業で、天然住宅さんとのコラボレーションにより、2010年に建て替えられたといいます。長寿命、化学物質は99%以上排除し、木材は無垢材のみを使用。コーポラティブ方式で運営されている16戸の共同住宅「スクワーバ見樹院」が併設されているとのことでした。

大河内さんを訪ねる

 調べると、見樹院の住職・大河内秀人さんは江戸川区にある寿光院の住職も兼任されており、国際協力NGOの活動にも長年携わるほか、NPO法人「足元から地球温暖化を考える市民ネットえどがわ」、子どもの権利条約の理念を活かした社会をめざし活動を行うという「江戸川子どもおんぶず」などにも主体的に関わっておられるよう。
 寿光院が設置した「松江の家」は“江戸川子どもおんぶず”の活動拠点であり、電力会社からの電力供給を受けず、太陽光パネルだけで電力を賄う“オフグリッドシステム”を採用。さらに高齢者のための住まい「ほっと館」に寿光院の所有地を提供しているといい、1階の「ほっとマンマ」は近所にも開かれた優しいレストラン。屋上は市民発電プロジェクトによる発電所にもなっているといいます。前出の本に大河内さんは文章を綴っておられ、惹かれるものがありました。

力強くて、雰囲気のいい


 大河内さんに連絡をとると、快く訪問を受け入れてくださいました。天然住宅さんの取材を終えたのち、見樹院をめざします。住所を辿りながら歩いていくと、住宅地の間に大きな力強い建物が現れました。雰囲気がいい。

スクワーバ見樹院

私は「あっ」と気づきます。そこは、共同住宅・スクワーバ見樹院の入り口でした。逆側―お寺の入り口へと回ります。

お寺入り口

 私が暮らしている四国・香川といえば、弘法大師・空海誕生の地で、空海に関わりのあるお寺88か所を巡礼する“お遍路”があります。子どもが生まれる前、夫と88か所すべて巡礼しました。

高知 足摺岬に近くにある 第38番札所・金剛福寺(2014年撮影)

  
 お寺に行けばお参りをし、キリスト教に由来するクリスマスやハローウィンも楽しむ私(家族もです)。〇〇宗、〇〇教と様々な宗派があることも知っていますが、そもそも、仏教って何なのでしょうか。まずはここから大河内さんに尋ねます。

仏教って、なんだろう。

大河内秀人さん

 (大河内さん)簡単な言い方をすると、抑圧や差別、支配からの解放というのが仏教のスタートです。インドのカースト制度のアンチテーゼとして生まれたもの。私たちは多様な相互関係のなかで生かされている、生かし合っている。そのなかで、自分がどう生きていくか。他者との関係、責任、可能性を広げていくものであり、それは“悟り”と近いんです。ただ、日本で問題だと感じるのは、支配されているということに慣れてしまっていること。“お上”の言うことに従順だったり、強いものにまかれる的な姿勢だったり。自分の責任ではないという感覚があるのではと思います。自覚できていないんですね。キリスト教やイスラム教信者は、自分の生き方が定まっている人が多いですが、日本人は当たり障りのない在り方、社会的不正義や社会的不条理に立ち向かっていかない傾向があるとも言える。そういうことを宗教者として感じて来たんです。

「なぜ?」と自ら問う姿勢

 大河内さんの思考のバックグラウンドには”社会学”があると言います。なぜ人がそういう行動をとるのかということに関心があって、そのひとつとして、教育にも興味をもっていたと話します。

(大河内さん)
 
教育というのは上から教えるものではなく、気づいていけるもの。社会がまっとうであれば、自然と身についていくものです。本来、人間がもっている“仏性”。煩悩にまみれている現実はあるけれど、命が備えている健全性をいかに育てていくか。または意識化していくかというところ。生きることは、他者との関係性を築いていくこと。命を伝える責任があるんですね。ただ、近現代は資本主義が進められ、そこには様々な犠牲があるにもかかわらず、欲望を正当化してしまっている現実があります。 

一切皆苦 諸行無常 空(くう)

  仏教のめざすところは悟り。命の正体、天地のありようを悟ること。生きている意味を自分以外のすべてのひとにプロットしていくこと。諸行無常という言葉があります。絶対的神様は存在しないという立場をとります。空間的にも時間的にも関わり合い、変わっていくもので、それが「空」(くう)でもあるんです。
 お釈迦さまの言う「一切皆苦」。不条理や苦しみがある状態が原点ですが、ここにコミットしていく。寄り添うということでいえば、なぜ苦しみは存在するのか、それを徹底的に考えていくんですね。最終的には誰しもが死を迎えます。死とどう向き合っていくのか。先祖、ルーツ…現世だけではないつながりがありますね。それをつないでいくのが命です。

大切にしている“市民”というもの

 これから生まれてくる人に“権利がない”と感じるんですね。未来のことを、今、私たちがどう何を選ぶか。今の人にしか決められないんですよね。そこに対して、時間的にも空間的にも責任をもつことが市民だと思うんです。
 
 仏教者としての道を歩み進めた時期、大河内さんはインドシナ難民大量流出をきっかけに国際協力・NGO活動に関わるようになりました。母子保健、地域保健のNGOの活動にも参加してきたそうです。
 UNICEF(世界中の子どもたちの命と健康を守る活動をする国連機関)が掲げる指標には、5歳児未満の死亡率というものがあるそうです。子どもの死亡率はその地域の社会的成熟度に関わりがあるといいます。

人権


 (大河内さん)

 経済的に貧しい、所得も低く、医療資源へのアクセスも限られる国、地域で、どう子どもの命を守っていくのか。それは、どう健康的に生きていくかということでもあるのですが、お母さんの人権と直結しています。お母さんが子どもを守ることができるか。たとえば子どもが熱を出したなら、薬があるか、お湯を沸かしてあげられるか、きれいな水を飲ますことができるか。
薬を買うというのも、お金の管理をお母さんができているかに関わっています。一人ひとりが自分で物事を判断できるということとつながっているんですね。実は日本にもあてはまっていて、過去帳を見ると、昔は子どもの戒名がたくさん並んでいるのですが、戦後、それが劇的に減少していく時期があるんです。その頃のお母さんは、中学を卒業している。女性の地位がそれなりに向上したことがその理由ではないかと思います。

仏教の知恵と市民性

自立よりまず自覚

 タイやカンボジアの農村も訪ねました。そこでは換金作物のために“やらされている農業”をしているんです。作物の値段は国際価格によって変動しますし、農薬や農機具も買わなければならない。自分たちでローカルな経済をどうつくるのか、自分たちの文化や自然をどう守るのか。そういうことを考えていくのが市民性。みんなが尊重され、多様な意見も言い合いながら、ひとりひとりがどう社会の担い手になるか。自分が社会のなかで役割を見出せること。自立よりもまず自覚なんですね。 
 自立とは多様な依存先があること。相互依存しないと私たちは生きていけません。だから布施が大切なのです。そして布施とは対等なもの(三輪空寂)。その意味で、仏教のめざすところは「市民社会」です。自分と他者の関係、社会のあらゆるものとのつながりを自覚して、みんなが参画する社会。
 そうしたもののひとつのエビデンスとしての天然住宅です。見樹院は100年の定期借地権を購入して頂いていて、それをお寺の建築費に充てています。コーポラティブ事業なので、みんながみんなでつくっていくもの。より意味のある、頼りになる、楽しみになる拠点になればという思いがあります。
 市民として活動していくことが仏教だともいえるでしょう。

六波羅蜜:布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧

 仏教に沿う生き方は、市民活動にも全くあてはまることなんですね。“六波羅蜜”でいえば、自分だけ、というのではなく周囲のことも思い、考えながら実践していく「布施」「持戒」。それは責任と可能性。誰かと物事を進めていくには「耐」の姿勢(忍辱)、冷静に考える態度…「精進」「禅定」。やがてひとつステージがあがる。それは菩薩道に近いもの。人助け、募金といったことも大切ですけど、対処療法では今起きているあらゆる問題・課題は解決しません。大元を解決していかなければならない。アンフェアなことがあちらこちらで起きていても、メディアは自分たちの政策に沿った報道しかできません。私たちはそうしたことの背景や関わりについて、足元から考える機会がありません。“市民性”というものからかけ離れているんですね。本質的に何が問題なのか、そういったことをきちんと考える人でありたいですよね。
 
お話のあとに

 大河内さんのお話で、仏教にまつわる言葉があって、お話を伺った後、私は自宅で調べながらテキストを編集していました。自分の経験を省みながら「本当、そうだなぁ…」と都度納得しながら。人間は忘れる生き物だし、ときに誤る。でもだからこそ仏教の教えは、よりよく生きていくための指針になるんですね。それはお寺という場があることの希望と可能性でもありました。


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