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ダイアログ・イン・ザ・ダークー純度100%の暗闇で。


 5月下旬、東京・竹芝「対話の森」ミュージアムに私はいました。 ダイアログ・イン・ザ・ダーク(DID)を体験するためです。DIDとは純度100%の暗闇をエンターテイメントとして体験する場です。ある人から「面白い」と聞いて知りました。


怖いよ、怖い

歓喜バージョンは、ベートーベン作曲の歓喜。『第九』をモチーフに構成されていました。


  DIDは一日に数回開催されており、この時期開催されているのは「歓喜」バージョン。所要時間は90分。一回の定員は8名までとのこと。私はこの日、一番最後の回・18時15分開始の回のチケットを購入していました。
18時前、前の回の参加者の人たちが笑顔で会場から出てきました。そこから数分。
 あれ?私以外の参加者は…まさか、いない?
 あ、いたいた!え?でも、スタッフさん?

 アテンドしてくれる視覚障害のある男性が白杖を持って現れました。まずは自分の背丈に合う白杖を選ぶように促されます。この時私は、彼の目を真っすぐ見れなくて、視線をどこに持って行ったらいいか分かりませんでした。
 これでいいかな…
 「いってらっしゃーい!!」
 暗闇空間へのドアが開かれ、足を進めます。まだ真っ暗闇ではなく薄暗い場。ここで、お互いを呼びあうニックネームを決めます。アテンドの男性はしゃしゅーさん、参加者のDIDスタッフの女性は“まりちゃん”。スタッフとはいえ、「歓喜」バージョンはまだ未体験だそう。私は“まっちゃん”。白杖の使い方も教わりました。
 教わりはしたものの…私、不器用だしなぁ…大丈夫かな?
 
 そして一切の光が感じられなくなりました。
 
 あわわわ…。
 
 歩くのも怖いんだけど。でも、進まなきゃな。ん?足元には落ち葉?木がある?
 「私のそばには2本あるかな?」とまりちゃん。まりちゃんは他にも木があるかないか探索しているようだけど、私は動くのが怖くて手を伸ばした先の一本の木から、さらに先に手を伸ばすことができません。
 何か道具をとってくると言うしゃしゅー。私とまりちゃんはいったん落ち葉の上に座ります。座ることも怖い。白杖を横に置きますが、「杖がどっか行ってしまったらどうしよう~」と不安です。

遊ぶ

 しゃしゅーが戻ってきました。ん?タンバリン?か何かを手に持っているようです。いったん立って移動です。三角形の位置になりましょうとしゃしゅー。「まっちゃんは今の位置より少し右へ…」としゃしゅーがアテンドしてくれます。
 しゃしゅーは私にとって「見えている人」。そして持ってきたのはブラインドサッカーで使うボールのようでした。
 「遊びましょう!!」
 キャッチボールをするようですが、ボール、捕れる?不安だよぉ。
 「まっちゃん、いきますよ~」としゃしゅー。
 音が近づいてきました。
 …!!!
 キャッチできた♪めっちゃ嬉しい。
 次は私が投げる番。まりちゃんが手をたたいて「ここ」を知らせてくれます。
 手の音のする方へ。
 まりちゃん、行きますよ~!!
 あ、受け取ってもらえた♪
 
 「もう一回やりましょう!」
 「もう少し距離を置きませんか?」とまりちゃん。よっしゃ!冒険ね。
 みんなが今の位置より少し後ろへ下がります。

「怖い」は消え去り、ただenjoy


 ………とここから先はネタバレになってしまうので、黙っておきますが、3人で電車ごっこをしたり、靴を脱いだり。そうそう、靴を脱いでもう一度履くとき「あ、私の靴、これだ!」。分かるんですよね。違う靴を履いたら、違和感を感じそう。きちんと自分の靴だと分かるんじゃないかな。
 また、わらのとーってもいい匂いに癒されたり。あるいは手触りを楽しんだり…と、いつの間にか私の恐怖心は消え、暗闇を楽しんでいたのです。 
だから、「では、戻りましょうか」とのしゃしゅーの声がかかり、明かりのある元の場所に戻ってきたときは“寂しかった”。
 最後、私はまっすぐしゃしゅーの目を見つめて(目は合わないけども)お礼を言うことができました。

他の感覚が「ひらける」


  視覚が使えないとなると、他の感覚―聴覚や触覚、嗅覚が鋭敏になります。視覚に頼らない感覚が本当に思いのほかに心地よくて。まりちゃんとの言葉の掛け合いも心地よかった。DIDで味わった心地よさは、冷えを知らない、静かな感動のさざ波。もうどうしようもないくらいに辛い気持ちになったら、絶望状態に陥ってしまったなら、DIDの空間へ行ったらいい。そんな気持ちにさせてくれました。
 
 DIDを体験すると、泣く人がいるというのもすっごく理解できます。
ぜひ。本当に、体験してみて欲しいです。今度は定員いっぱいのなかで、DIDをリピートしてみたい。
 

茂木さんの言葉に納得


立て続けに読んだDID関連の3冊の本


 
 DIDの著書『みるということ』で、生物学者の福岡伸一さんが寄稿しています。そこには
 
暗闇で視線が失われることは、欠落ではなく、むしの脳の内部に新しい扉が開かれる契機だ、ということである。
暗闇は私たちに生命の柔軟さ、可変性を体感させる刺激になる。


とあります。また、脳科学者・茂木健一郎さんとDIDによる『まっくらな中での対話』(講談社文庫)に、茂木さんの言葉があって
 
やはり本質というのは、その周りにくっついている邪魔になるものあちを取り除いていかなければ見えてこない、というのはあると思うんです。
僕たちはふだん目で見ることによって、さまざまなことを判断しているわけだけれども、ひょっとしたらその行為によって逆に隠されてしまっているものってたくさんあると思うんです。視覚という宇宙は本当に素晴らしいものだけれども、その覆いを取り払ったときに初めて見えてくる広大な世界というものもあって、僕たちはそれに気づかないで毎日を生きているのではないかと思うんです。

 
と書かれています。「目が見えなくなったら絶望的だよな…」なんて今までは思っていましたが、DIDを体験してこの本を読んで、さらに伊藤亜紗さんによる『目の見せない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)を読むと、視覚に障害のある人の生きる世界の豊かさがうらやましく感じられるほど。
 
癒しというものについて、茂木さん次のように語っています。
 
…でも脳科学の分野から見てみると、「癒し」とは「全体性を回復すること」なんですよ。
我々の脳は、ふだんあまりにも「見る」ということに使われすぎています。実に脳の三分の一が視覚領域ですから、自分が「見る」こと、「見たもの」を情報処理するときに、僕たちの脳は三分の一も費やされてしまっているんですよ。
だからこそ「見る」「見られる」ことから解き放たられることは、大いなる「癒し」になるんです。

 

全体性


 確かに、私たちの現代生活は日々バランスを失って暮らしています。
 明るいもの、はっきりしたもの、効率性、即効性、見やすさ、分かりやすさ。ものごと「ファースト」。
 何かを選択することは、何かを捨てている、失っている、欠いているということ。“全体”で生きるのは無理だろうけど(でも、子どもという存在は偏りは少ないのでしょうね)、“偏りすぎないように”することが必要なのだろうなと思います。
  DIDを体験して2週間が経過しましたが、今も静かな感動の波が続いているのです。


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