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兵庫県たつの市の物語:第1話~いねいぶる、宮崎さんのお話

序章 はじまりの、始まり。

NPO法人いねいぶるは兵庫県たつの市にあって、障害のある人への支援活動を中心に、活動範囲はたつの市のなかで広範囲に及びます。代表の宮崎宏興さん(46)は作業療法士。市民団体T-SIP(tatsuno-social inclusion project:たつの市が誰もが誰かを包み込む社会になるプロジェクト)の代表でもあり、さまざまなイベントやプロジェクトを行政や教育機関、民間企業、他の市民団体とともに、企画、運営、実行しています。

たつの市とともに、「地域共生社会」に関する取り組みにも深く関わっているのが宮崎さんです。

 国も盛んに言う地域共生社会という言葉。その言葉のいわんとしていることは理解できる。子どもも障害のある人も、高齢者も「みんな、ともに地域で生きましょう」ってことでしょ。多様性という言葉だって、あちこちにあふれてる。
 私の暮らしているまちにも言えるのだけど、イマイチ実感が沸かないというのがホントのところ。

 ―だけど。
 いねいぶるの活動、T-SIPの活動のことを聞いていると、共生って何なのか、どういうことなのかが実感できて、しっくりくる。
 1月に参加した、いねいぶるの見学ツアー。それはもう驚きばかりなのでした。

 そのときの、私のレポートが↓。

 だからこそ、宮崎さんにもっと話を聞いてみたくなったのです。
 でも、宮崎さんひとりだけではいずれの活動も成り立つわけがなく。
私は、たつの市にはキーマンたる人たちがたくさんいることも感じ取っていました。その“キーマンたる人(たち)”にも出会うため、たつの市を再訪することを決めたのです。

 いまこの文を読んでくださっている方に、私が過ごしたその日の “ライブ感”が伝わればいいなと思いながら筆をすすめることにします。

 第一章 宮崎さんの物語:“-と。から始まる物語”

 2月13日、朝9時半。本竜野駅に到着します。駅の改札を出ると童謡“赤とんぼ”が聞こえてきました。「朝から?赤とんぼ…」にクスッとしてしまいます。


 たつの市はこの唄の作者三木露風の誕生地なのですね。道しるべ、マンホールの蓋、郵便受け…。あちらこちらに“赤とんぼ”のモチーフがあることにも気がつきます。

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 さらにうすくち醤油誕生の地で「マルキン醤油」の本社もあって、手延素麺「揖保乃糸」の主要生産地でもありました。駅を出て少し歩いただけで、このまちの特徴がわかります。

 10時、相談支援センターいねいぶるで宮崎さんとお会いすることになっていました。
   春の陽気になるとの天気予報通り、この日は青空が広がって、朝から空気がポカポカしています。支援センターのそばにある田んぼからは、その前の雨の跡と相まって、土の匂いが漂って。それはもう”春の匂い”。
 支援センターに到着しました。

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 ではまず、宮崎さんの物語を聴くことから、始めます。

原点

―どんな道のりで、たつの市に足を下ろすことになったのでしょうか。

 出身は富山県です。石川県にある情報系の大学に入学しましたが、思っていたのと違いました。親に相談して一年生の秋には退学届けを出しました。そのとき親に言われたのが「次どこかで学びたいなら学費は自分で用意しなさい」ってこと。医療系に興味があったので、整形外科の病院で理学療法士の助手としてアルバイトを始めました。その整形外科には月に一度、義手をつくる仕事で作業療法士が訪問していたのです。それを見ながら作業療法士っていうものに対して“いいなあ”と感じたんです。当時、作業療法士になるには専門学校を出る必要があった。“専門学校なら簡単に受かるだろう”と安易に入学試験を受けたんです。そしたら3つ受けた学校、全部落ちてしまったんですよ。なので、バイトをしながらもう一年勉強しました。

 高校卒業からは二年遅れて、作業療法士への道を歩み始めた。

 岡山県にある専門学校に入学したら、思っていたのとはまた違いました。バイトの経験から、作業療法士とは義肢装具士のようなイメージがあったのですが、解剖学を学ばなければならないし、それは医療的な世界です。ただ、実習やインターンを通して、その人の生活環境とか生き方、ストーリーを考えて取り組んでいく仕事なのだと感じ、作業療法士に対する魅力は増しました。
 1997年、まだリハビリ科のない精神科病院への就職が決まり、リハビリ科の設立準備室に就きました。なのでしばらくは他の部署の医師と活動をともにしていたんです。病院には家族会というものがあって、その人たちの手伝いもしていました。患者や家族から見た医療の世界を知ることができましたし、家族の事情を考えたりするいい機会になったと思います。
 障害のある家族と暮らすには、家族に安心感がないと…。患者さんだけが良くなってもだめなんです。“一緒に暮らしていける”につながらないんですよ。

 今でいう認知症の家族会もあって、そこに気さくなお嫁さんが一人いて…。おばあさん(お義母さん)をデイケアに連れていってから家族会に参加するんです。そのお嫁さんは家族会では明るくよくしゃべる人。でもある日、連絡がないまま家族会の開始時間に来なかったんです。「あれ?」と思っていたら会の終わり際に慌ててやって来ました。「今日はおばあさんを(デイに)預けるのが遅くなってしまって…」と。専業主婦で、おばあさんを在宅介護している。連絡なしに遅れるなんて珍しいことだったので「どうしたんですか」と尋ねました。そしたら「家を出る前にオムツを変えようと。新しいオムツに変えた途端、おばあさんが便をした。その様子を見た瞬間、私は涙がぽろぽろ出てしまって…思いっきり叫んでしまった。これくらいのこと、いつものことなのに…今日は変なんです」って、笑って話してくれたんですけど。

 その頃僕は新人ですが、患者さんが退院するとき家族に“こうしたほうがいい“などとアドバイスをします。でもそれは、家族をケアしていくことっていうことが大前提にあってこそ。家族と一緒に取り組んでいく方法が何かなければいけないんじゃないかって悶々と考えていました。

家族会のメンバーはお年寄りが多く「もうようせん」と言っていた。そこで会報づくりから一緒に取り組みました。僕がパソコンを使っておおもとを作って、会報の折り込みなどは家族にしてもらって。そのうち家族会の行事にも携わるようになりました。そしていよいよ院内にリハビリ部門が開設し、僕は作業療法士として生活訓練や職業訓練、訪問看護などで活動を始め、家族会の人たちと一緒に何かをする機会が減ってしまった。
  病院にはデイケアというものが併設していることが多いですが、あまり推進しないほうがいいと思っているんです。自宅に退院したって、結局日中は病院で過ごすことになるんですね。病院は閉鎖的な空間になりがちですから日中は他の場所で過ごしたほうがいい。

1999年、病院ではなく、地域で過ごす場所をと、家族会に“作業所”を立ち上げてもらいました。その後、精神障害に関する法改正もあって、2004年に法人化しています。

“病院を退職するつもりはなかった”

 8年間勤めた病院を辞めることになったのですが、法人化しても退職するつもりはなかった。作業所だった時の職員も法人スタッフになっていたのですが、家族会で法人(作業所)を運営していくにはとても難しかったんです。家族会で定例会議のようなものを月一度開いていましたが、内容が法人の話ばかりになっていったんです。法人の活動に携わっていない家族が、家族会に全然来なくなってしまった。家族に介護の責任を負わせたくなくて作業所を立ち上げて法人化もしたのに、結局家族に負担を強いていた。家族が家族を支えるための場所としての家族会なのに、家族会に所属する人数も減ってしまって、会の継続すら難しくなりました。家族会会長の代替わりをするにも人がいない。「どうするんだ?」ってなって。「僕がやります」って。「家族は家族のために活動できるようにします」と。
覚悟を決めました。2004年、法人の代表に就きました。

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  家族会が母体の施設って多いです。それは施設を支える団体としての家族会。今のいねいぶるには事業所部門と家族部門があって、両者が併設している形です。法人の正会員は家族と当事者。事業所の職員に議決権はありません。家族と職員の関係性を考えると、どうしても家族が(職員に)“お世話になっている”ゆえ、職員のほうが強くなってしまいがち。職員のやりたいようにやる法人ではいけない。家族の望む支援ができてこそ望ましい在りかた。だからお互い大事な部分の肝は握っておけるようにしたかった。
 家族は法人スタッフとして雇いません。でも、総会の議決権は家族にある。だから家族は法人の動きをしっかり見守っていなければいけないのです。

 “市民活動としてやっていくのが根っこ”にある。そこは崩したくない。

  僕らができる範囲は限られている。結局、毎日を育んでくれるのは家族だったり、縁がある人たち。そういう人たちがへばらないよう、寄り添ってくれる存在としての僕ら、支援職が必要なんです。いねいぶるといっても、法人とはそもそもカタチがあるものではないんです。自分たちが全部やるのではなくて、地域が望んでいることを形にできるのが法人としての存在。法人である意義って“自分たちが”ではなくて、自分たちとかかわりのある人の望みを叶える土台を作ることにあると思っているんです。

 自分らが持っているものを商品化したり、ニーズを作っていくならば“会社”や“企業”でいい。でもそうじゃない。市民活動としての仕組みを推進したいっていう思いが根底にあります。
 みんなで何かに取り組んでいけるように種まきをする。だからNPOを選んだんです。株式会社、有限会社、一般社団法人など、どの器で活動していくか。すごく慎重に選びました。

―宮崎さんは、“-と”、“一緒に”という姿勢を大切にしていますよね。見学ツアーのとき「僕らが」って、主語のほとんどが”僕ら“でしたから。

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  病院勤務をしているときに、一人でやることの限界を感じていました。自分でこうしたい、ああしたいっていう思いがあっても、協力者がいないとできないわけです。リハビリ部門も最初は僕一人でしたが、同僚が必要な状況も生まれてきて。トータル数十人の部門になって。
病院を辞めていねいぶるを始めるときは「全部自分で」と思ったけれど、何かをするには手伝ってくれる人がどうしても必要。意識の土壌に“自分の描く理想を実現するには誰かと何かができる状況を”というのがあるんです。誰かとやることで“いい思い”ができた経験が多いのもそこに関係しています。
 本当は、こじんまりとしたお店、そう個人的な美容室って憧れるんです。全部、自分で出来るじゃないですか。だけど、好んでやる手法はまったく逆ですね。“みんなとやる方法。“みんなで何かを作る方法”を選んでいる。法人代表として”こういう風にしていきたい“って個人的な思いはあっても、日日のことは周りの人たちがしていることの成り立ちです。成り立ちの結果として“いねいぶる”の形が決まっていく。

―法人名「いねいぶる」の由来が知りたいです。

 作業所だった時には別の名前があったのですが、名前を変えようという話になって。当時通っていたメンバーによる投票で決まりました。アメリカ版ドラえもんの四次元ポケットのことを「enable」(エンネイブル)と言っていたことから、和製英語のような、言いやすい形にと「いねいぶる」になりました。
 
enable:-可能にする、できるようにする、作動させる、スイッチをいれる…。
調べると、このような訳が並びます。
当時は法人名に深い意味を込めたわけではなかったのでしょうが、今のいねいぶるの在り方を思うと、このネーミングは運命的だったように私は感じます。

対話、の意味:3つの投げかけ

―見学ツアーを通して一番感じたことが“対話”の重視でした。その背景に何があるのでしょう。

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 とりあえず何でも話し合って前に進んでいくという…とりあえず集まるっていう姿勢があるんですよね。最初、長屋を借りて作業所が始まりました。作業所という名前のイメージの通り、内職です。でもその作業すら難しい人たちがいた。工賃(給与)も支払う必要がありますが、内職の作業ひとつひとつはとても”安い“。数をこなしてもいくらにもならない。仕事がなければ作業所にも居にくい。かといって家にいるのもしんどいわけです。内職を持ってきたとしても”体調悪いから帰ります“などと、はかどらない。どうしたらいいんだろうって時期ですよね。2005年頃です。
そしてその後気づくわけです。“みんなが何がしたいかを聞かないと始まらないし進まない”って。
毎朝″聴く″という時間を設けるようになったのはここからです。

自分たちにとって必要なものをつくろう

 よく行く場所、よくお金を使う場所、長い時間いる場所、という3点についてみんなで延々と話をしていました。そこで出てきたのが病院の薬局。「薬局をここ(いねいぶる)の仕事にしたらみんなが使っていいな」なんて冗談を言ってました。
 でね、ある人から聞いたエピソードが大きなヒントになったんです。

―はい。

 神戸の中華街に友達がいるんです。世界各地に中華街ってあるじゃないですか。中華街ってどうやってできるかってことを雑談していたんです。華僑の人というのは、最初3人で組むそうです。中華料理人、日用雑貨を売る人、貿易する人。この3人が揃えば見知らぬ土地でもやっていける。生活ができるようになったら次の中国人がやって来る。そしてまた…という風に中国人のまちができあがっていくそうです。チャイナタウンてよく考えたら、日本人相手の時は日本語でも、それ以外はみな母国語を話しているんですよね。なるほど、って思いました。

 障害のある人とか、長いこと施設で生活していた人たちにとって、地域生活を始めるのって異文化に来るようなものなんだって感じたんです。まずは自分たちで生活が成り立つようにコミュニティをつくっていって徐々に外へ外へいけばいい。自分たちの暮らしぶりをしっかりつくっていくことで神戸の人が遊びに来るようになる。すると自然に神戸の人たちとつながりを持てることになる。それがマイノリティの人の姿。自分たちのスタイルを大事にするって、実はとても大切なことでした。
 あの人たちの話を大事にして。あの人たちが何を必要としているか。あの人たちの日々の生活のなかにあるものを。
 この3つに着目して自分たちのコミュニティをつくっていくのがいいのかと。
そこからです。ものごとを始めるとき、この3つを常に意識してヒヤリングして…今いるひとたちと何かデザインをしていこうって。

単に仕事があればいい、居場所があればいい、から変わっていった。やり方が決まっていった。

 どんなものをつくったら売れる?どんな仕事を持ってくることができる?僕が仕事を用意しなければ…。
 そういうことではなくて、自分たちが先ほどの3つの考えをするようになって。みんなとも本当によく話をするようになりました。

その後、古い街並みのなかに作業所の2号店―現在の「コミュニティカフェ扉」(移転前は日山ごはん)が開設しました。
みんなが長居できて、モーニングも安くできるような喫茶店です。これができたのは、自分たちの生活の在りかたに注目できるようになったから。

コミットをうみだす

人と人が対話をしていくとき、何かをやろうとしたときに、すでに完成して仕上がったものでスタートするとうまくいかないものなのです。すべて任せる、というのも違う。みんなが受け身になってしまう。

 楽しくて、わくわくして、まぁまぁ努力が必要なことがうまくいく。のめり込む、ということです。決まったテーマなどがあってそれに沿った対話をするにしても、概略は決めていても、不完全で進めていくんです。そのほうが、周りの人たちが入ってきやすい。“自分も何かしたくて”とか“自分も言いたいことがあって来た”となれば、それはもうどんどんコミットしているっていうこと。コミットしてると、人は自然ともう楽しんでいる。さらに努力もしている。そういう状況は、携わってくれている人にとって確実に”いい時間“になっているのだと、経験上思うんです。

 人が何かをする、市民活動をするって、コミットする状況を作らないと進まない。ではコミットするにはどうしたらいいかというと、その人たちが何をのぞんでいるのか、何をしたがっているのかに注目すればいい。ただ話をする。話を聞いてお互いに知り合う。その過程を一番大事にしています。“気が付いたら一生懸命話をしていた”って場面が多いんですよ。

 たつの市は自殺予防にも力をいれています。自殺問題はこころの問題。こころの問題は孤立ととてもリンクしている。何のことでもいいから人と話す、関わる。地域活動をするうえでも、一生懸命話ができるって大切です。
話をするということには、とても時間を使っています。

 人と人が話をする行為があるほどに、“孤立”からは遠ざかっていく。
(一生懸命に話をするって、深いコミットだと言えますよね?宮崎さん)

―T-SIPの多様な活動やイベントは年々根づき、かつ関わっている人たちがまとまっているように感じます。おのおののまちに面白い人(≒キーマン)というのは存在しているはずですが、点と点の存在になっていて線になるとか、面になるとかってなかなか難しいことなのではないでしょうか。まちのサイズも何かの取組みが広がるってことに左右されると思う。たとえば人口一万人程度であるとか、田舎のほうがまとまりやすそうって。でも調べたら、たつの市の人口は7万人を超えていて、そこそこ大きなまち。なのに、線になって、面になっている。どうしてうまくいっているのだろうって思います。

 それぞれの活動にキーマンがいますが、望んでいることってそんなに遠いものではない。ざっくり言えば「みんなが住みやすいまちになればいいね」って。一緒にやれることをおのおのが探している。それぞれの活動がより良くなるために、一緒にやれることって何だろうって探しているのかもしれません。

 みんな、一対一では出会っていない。何かの会議の委員として話し合っていたりする。障害、まちの賑わいづくりに関わる人、スーパーやドラッグストアのスタッフ…。それぞれが課題なり、話題なりを持ち込んで。ただ“もっと良くなりたい”という意識は共通していてどれかこれかで重なり合う。そのときは自分の範疇の延長線なのかもしれませんが、対話を繰り返していくうちに“まったく違う新しいことをやろう”“畑違いなことかもしれないけどやってみるか”となって。実際やっている間に、普段やっていることに帰ってくるんです。そういう取り組み方が、たつの市のなかで根付いていっているように思うんです。

 何かひとつコンセプトをもって、話をもっていく。

 「いったん活動の範疇の携わりの話は置いておいて、違うやり方をしてみませんか?」と提案する。すると「面白いもんやな」と言ってくれるんですよ。現実それがいい結果を生むものとして理解されていきました。それぞれの地区のキーマンに声をかけるとパッと動いて、周りにも声をかけてくれる。行政の場合、担当者に異動はつきもの。ですが異動があるために他の部署にも知り合いができて、今までの取組みを知っている人が異動先の部署でこれまでのやり方なりを伝えてくれる。だからずれることなく根付いていくんです。さらには今までは組んだことのなかった課と、何か一緒に取り組んでいけるようにもなる。

―いつも同じ顔触れじゃないからこそ広がっていくものがある…

 そうです。今集まっているメンバーでとん挫してしまうような課題は、むしろ人が変わることで動いていく。状況が変わることで動くこともある。動けることがあると言えるでしょうね。

―今までとは違うやり方で何か変わった、突破できたものとは何でしょう。

障害のある人と一緒にサーフィンをするというユニバーサルSUPもOkurimonoイベントも、障害者の就労支援の取組みもそうですね。10年ほど前、西播磨圏域を対象に500くらいの企業に対し、障害者雇用に関して企業は何が不安なのかといったことを聞くアンケートをとりました。半数ほどの企業から回答があり、回答があった企業に対して(西播磨圏域)4市3町の行政担当者や障害者施設の家族会メンバーなど30人ほどで分担し、アンケートの趣旨を説明すべく、直接企業を訪ねました。“障害のある人が力不足なために就職できない”のではなく“障害者が企業に合わせる”のでもなく、企業自身が障害のある人と働くことを慣れていく状況を生み出すために、企業側に焦点を合わせることで就職率を挙げていく方法を考えて実行したのです。
結果、西播磨圏域のインターン受け入れ企業の数が6社から、58社ほどにグーンとアップして。インターン後、雇用のマッチングを行って就職につなげるというやり方へチェンジすることができました。就労支援の一番の弱点は、行政と企業に接点がなかったこと。わざとアンケートを配って、アンケートの趣旨を説明しに企業に出向く。説明に行くということは話をする時間ができるってことですよね。こういう風に、“状況が変わる”ということをつくっていくんです。

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   Okurimonoは0円をコンセプトに子どもキッチンのPRも含めてギフトエコノミーの手法を使っています。お金が価値軸にあると苦労する人たちが多い。このイベントをやるのはいつも夏休み最終日曜日。というのは、2学期始めの時が、一番子どもの自殺率が高く、不登校にもなりやすい時期。お金のある・ないに関係なく、みんなが楽しめるように図ったイベントです。お互いができることを等価にしたらいい。そしたらみんなが大らかに過ごせるという新しい評価軸。バザーでも、物々交換会でもありません。できることを交換する。すると出来不出来だとか、“できるようにトレーニングしなければ”ということもなくなるんです。それぞれができることに取り組んでいけばいい。いねいぶるの日々の仕事が、“できること”をやろうって姿勢でもありますから。もちろん、0円のイベントです。一般のお店の人などにイベントのコンセプトを理解してもらうのに何度も説明したり、話し合ったり、大変ではあるんですけど、僕らのことを汲んでくれているのか、伝わるものがあるのか、みなさん理解して下さっている。

  2019年12月15日、コープ龍野で実施された防災イベント「イザ!カエルキャラバン!inたつの」。

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主催はおもんぱかる実行委員会(事務局はいねいぶる)ですが、たつの市の地域共生社会推進事業のひとつとしてのイベントでした。おもんぱかる実行員会とは、地域共生社会の実現を目指して市民団体と事業者と行政で運営されているチームのこと。「イザ!カエルキャラバン」とは「使わなくなったおもちゃをもってあつまれ!かえっこしながら防災を学ぼう!」というコンセプトのもと、全国各地で実施されているプログラムです。

このイベントの注目すべきは、イベント実施を行政が関わり、それを民間の店舗で行ったこと。イベント実施時間3時間の間に450名以上の参加者があったこと。予想をはるかに上回る来場者数だったといいます。

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   行政に地域共生社会の実現へ向けた姿勢がはっきりあって、市民(あるいは企業や事業者)に丸投げでもなく、お互いにつながる姿勢がなければ実施できなかったことでしょう。市が関わるイベントというと、大概は市役所、市民ホールなどで行われるところを一民間店舗で実施しているところに関心を強めます。コープ龍野は、敷地面積がとても広いのですが、たつの市街中心部からは離れていて、アクセスがあまりよくありません。併設されていたマクドナルドが撤退し、客数も減少。そこで、マクドナルドが撤退して空いた大きなスペースを地域交流拠点にしようという案が浮上したそう。この場所で楽しいことが行われていて、人が集まって買い物も出来る。結果的に店舗の売り上げにも寄与すると言えます。

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 (宮崎さん)今度、コープ龍野では一日だけですが確定申告の会場にもなります。買い物ついでに確定申告ができる。簡単な行政サービスをデリバリーに。こういった拠点をどんどん作っていきたい。地域行事とか防災イベントとか、コープ龍野だけでなく薬局だとか他の店舗でも拠点として実施できればと思うんです。いま、公民館は使いにくい施設になっていますよね。自治会に管理委託していることが多いから、老人会しか使わない。子育て世帯が使う場所としては地域の商業店舗が一番向いているのではないでしょうか。
 まちの高齢化が進むなか、身近な店舗がなくなるってことは買いもの難民を生み出すってこと。まちの衰退は生活弱者の問題とリンクしています。
地域の商業店舗を維持することが住みやすい地域にもつながっていくのだと思います。

 衣・食・住にまつわるもの。これらはバラバラよりは一体化しているほうがいいんだろうなと。
 目指す方向はそっち。そっちに行くんだろうなと。

 誰も孤立させない、させたくないっていう思いがあるんです。
 ひとりで寂しくなっちゃうって、ホンマにあかんことだなって。
 誰でも”その人がいる“ってことをわかる状況にする。抹消されるってことがならないようにしておきたいんです。
 

 時計をみると、12時です。いねいぶるを出なければならない時間。お昼を食べながら話を聞かせてもらうことになっていた方がいるのです。
 その後はさらに、コープ龍野にもアポイントを取っていた私。
聞けばこの日18時から、T-SIP主催で行われるイベント「障害があるから楽しみたいプロジェクト ユニバーサルSUP/ビーチシンポジウム」のミーティングがいねいぶるで行われるとのことでした。
宮崎さんから「行政やプロジェクトメンバーも集まるので良かったら同席してみてください」と声をかけてもらい、再度戻ってくることを決め、いねいぶるをあとにしました。

第2話へ続きます。

次回、矢野一隆さんの物語。




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