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暮しを、手放さない。いのちを、手放さない。


   岡山県倉敷市船穂にある「ぶどうの家」を初めて取材させてもらったのが、2017年11月。2018年7月に西日本豪雨が発生。4割が浸水したと言われるほど甚大な被害を受けた倉敷市真備町地区。「ぶどうの家は真備にもある」と聞いていたため、テレビでひたすら放映された、ショッキングなまちの様子に「ぶどう家も多分…」と、気持ちはズシーンと沈んでいました。安否が確認できないまま(というより、私が行動を起こさなかった)月日は流れてしまいます。
   ただ、ずっと気になっていたのも事実。インターネットで情報を検索してみると、真備の事業所は流されたものの、活動は途切れていなかったことが判明しました。しかも、新しいプロジェクトまで始動している…。すごい事業所だな。またお話を伺ってみたい。今、の話を…。
2017年の取材は、私のなかでけっこう深く刻まれていて。


 “再訪しよう”。
    3月19日、二度目の「ぶどうの家」へ。総合施設長の武田直樹さんを訪ねました。

「ご無沙汰しておりました。武田さん…痩せられました?」
「そうなんですよー。今、真備のほうでずっと夜勤をしていて。単身赴任みたいなもんですわ。話は…あっちの建物でしましょうか」
 と案内してもらったのが、かつての“ぶどうの家”。そこは地域の食事処兼駄菓子屋。
「駄菓子屋のところですよね」
「今、駄菓子屋は企業内保育園へ移ったんですよー」
「企業内保育園?」
「そうなんです。今年、法人内で保育園を立ち上げて。訪問看護事業所も併設しているんです。すぐ近くなんで、あとでご案内しますね」

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(”あとで”案内してもらった企業内保育園と訪問看護事業所)

椅子に腰かけ武田さんのお話を伺います。

―企業内保育園を立ち上げたということは、新しい動きがあったんですね。

 はい。(ぶどうの家の運営主体は三喜株式会社)グループとして、訪問看護のほうも、それぞれ独立採算制でやっているんです。『自分たちの給与は自分たちで稼ぐ』。介護も、働く側にしても、そのほうがいい。でもね、会社の考えは統一していますし、理念も外すことはないんです。採算を合わすのは上の役目。儲かろうが儲からまいが、“福祉一直線”に走ると経営事体が回らなくなってしまう。自分たちのやりたい仕事、介護を、自分たちでやっていけるように考えているんです。職員は「雇われている」というより「自分たちがやっているんだ」という意識でいると思います。

―ぶどうの家のケアって、介護度が下がるケアですよね。そうすると事業所の収入自体は減るわけで。どうやって収益を確保していくのでしょうか。

 確かに利用者数と介護度の具合で事業収入は決まります。でも、例えば水を出しっぱなしにしないとか、電気をこまめに消すとか。自分の家の水を出しっぱなしにしない、電気をつけっぱなしにしないのと同じです。“属する”ことによって緩さが出るのでもない。“自分たちがやっている”という意識があれば、家と同じ。お金が出る部分を抑えようという考えが必然と生まれます。
 介護度が下がるってことは、長く利用してもらえるってことでもあるんですよ。末永く利用してもらえる。介護度が4から2に下がったとしても、やはり高齢者なので、“落ちて”しまう。それは避けられないんです。逆に言ったら、また4になるまで関わることができるということ。長く利用してもらえるってことは、事業所にとって、相対的に崩れるということがなくなること。
 自立を支えるってね、お金がかからないんです。だって(事業所の)お風呂を沸かさなくていい。食事だって作らなくっていい。在宅にいてもらうほうがお金自体はかからないんです。まぁ、努力は倍かかりますし、労力もいりますが、笑。

―労力がいる。

 はい。自分がいないと、この人の生活は支えられないという…。介護の仕事ってそのくらい人と密に関わるということですから。でも、例えば動物園の飼育係だって同じだと思うんです。
 素人の自分たちでは“動物って表情がない(乏しい)”と感じますが、飼育係の人は動物の変化に気づくことができますよね。「あのトラいつもと違う」って。それと視点は同じようなもの。家族よりも“知っている”部分があるんですよね。とはいえ、家族をないがしろにするのではないんです。毎月、家族には手紙を綴っていて、その手紙を届けながら、手紙の内容に沿った話を家族にします。主治医やケアマネなどにも手紙を渡して同じように話をします。

柔軟なソフト、ドラえもん的存在

 介護職の存在って、“家庭の医学”のようなもの。広く浅くという視野が介護職には必要。その目線で、利用者の変化に気づくことのできるスタッフは深みを増しているとも言えるでしょうね。また、医療に関することは自ら吸収しに行きます。熱がよく出る利用者がいるとすれば「熱が出ないようにするにはどうしたらいいんだろう」と。それこそが”長く利用してもらえる“につながるんです。だから医療のことも知ろうとする。介護士は何かに特化したエキスパートではないけれど、柔軟なソフトでないといけない。全部吸収してくれるような、ピンチの時に助けてくれるドラえもん的存在。まぁ、総合的に、そういう風に、放っておいてもなっていくのでしょうけど…。
 人生を帯に例えるならその帯が切れないように支えるのが私たちの仕事です。たまに病気などでブチンと切れてしまうわけですが、医師がそこをつなぐ。医療は一時のことでも、介護は生活と切り離せないので、見る幅という意味では介護で関わるほうが圧倒的に幅が長いわけですよね。ただ、入院が長引いたり、入退院の繰り返しではつながりが細々、あるいは幾つもの切れ端になってしまう。そうならないためには、病気(不調)の前兆をつかむとか、家族関係の修復を図ったりとか。そういう意味でも”ドラえもん”なのです。ドラえもんは、急にこの世界に来たわけですが野比一家に自然に受け入れられていますよね、家族のように。介護士もそういう風にならないといけないんじゃないかって思う。

 武田さんの“立ち位置”

 真備(のぶどうの家)はやはり復興に力を入れています。僕は普段は船穂のぶどうの家にいるわけで。僕が真備で津田(代表の津田由起子さん)と同じ動きをすると、他の事業所(船穂や訪問看護など)のスタッフは不安になると思う。大きな”福祉“という観点でみれば真備のことは活動の範囲に入ります。ただ、うちの事業形態としては違ってくる。夜勤以外で現在真備には関わっていません。津田がやりたいことをやれるように切り離しました。
 「慈善事業部」というのを立ち上げて、そこのトップに津田が属している形なんです。

―新規の事業部を立ち上げることで、“独立”したものとして考えられるわけですね。

 そうです。マジックワードが必要なんです。周囲が理解できる言葉と体制。
 僕が真備に関わるのは、どうしても当時必要があったから。災害が起きてからしばらくは関わりっぱなし。ただ、関りが長くなるほどに他のスタッフに会社への不信感というか、そんな思いがあったと思うんです。昨年の秋にきちんと船穂に戻って来ました。

 インタビューの途中ですが、「お話中失礼します」と、武田さんが理事長を務めるNPO法人わたぼうしの活動ー有償運送に関わるスタッフが武田さんに話しかけます。どうやら、いつも乗せている人の自宅にいってもその人はおらず、洗濯物も干していない。明らかにいつもと様子が違うとのこと。武田さんが「〇〇さんに確認して、それでもわからなかったら警察に連絡したほうがいいかもしれない」と指示。その少し後、スタッフが戻ってきて、“いつもと違う”理由がわかったようでした。スタッフにも、武田さんの表情にも安堵が。

―良かった…。ちなみに有償運送のスタッフと利用者は現在どれくらいいらっしゃるんですか?

 ドライバー6人くらいで、利用者は延べ50、60人てところでしょうか。ぶどうの家の利用者はいません。他のデイサービスに通っている人だったり、社協のみが関わっているような、一人暮らしの高齢者が利用したり。そんな人にとってはうちらの存在が何かあった時の見守りにもなっているんですよね。さっきの出来事もそうですが。

―有償運送のスタッフも“(変化に)気づく”力が自ずとついてくる

 毎日毎日関わっているわけではありませんが、気づくことができるんですよね。でもそうやって、気にかけてもらえたら…僕らの存在があることで、船穂で暮らしている人は安心して暮らすことができる。この活動も、ホームページや宣伝をしているわけではないですが、口コミで広がっていって。「いい」って思ってくれた人が「いいよ」って誰かに伝えてくれる。それがいいと思っているんです。

 ぶどうの家の在り方ってこうなんですね。“暮らしに根付いた在りかた”そのものだと私は思う。決して“ぶれない”在り方こそが、ぶどうの家。
 
ではそろそろ、災害についての話を聞かせてもらうことにします。

豪雨を振り返ってー

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小規模多機能ホーム「ぶどうの家 真備」は豪雨により水没。その後、近くの公民館分館を借りてそこを“避難所”としながらサービスを再開。4か月ほどその公民館分館を拠点にしていましたが、長期間の利用は難しい。そこで、被災した倉庫をリフォームして「ぶどうの家BRANCH」を開設。のちに台所、お風呂を設置したことで、「避難所ではなし得なかった“家事”ができるようになり、介護度が軽減した利用者もいた」といいます。BRANCHは地域との交流の場にもなり、お風呂も無料開放されました。
2019年3月、「ぶどうの家 真備」は元の場所で、事業再開。現在「ぶどうの家 BRANCH(B.B)」はサロンのような場としての役割を担っています。

―船穂は豪雨の被害はなかったんですよね。

 ギリギリまで水位は上がりましたが川の上流が決壊したことで下流にあたる船穂のまちは浸水を免れたんです。船穂と真備って通常なら車で15分ほどのところを、あの時は40分かかりました。真備のぶどうの家の利用者は近くの避難所に避難していましたが、「やがて避難所から、空いている施設などに移動させられるだろう」と。しかも真備からは離れた倉敷市内へ、あるいは市外へ。そしたらば、“真備には戻れなくなる”と確信していた。というのは、熊本地震でも支援に行きましたが、そのときの状態を見ていてわかったんです。介護が必要な人は、どこか別のところ、見てくれる(人がいる)ところに頼むしかないですから。一度離れると、そこでの暮らしが長くなるほどに「もういいや」ってなるわけです。それは避けたかった。だから、公民館の分館を借りて利用者を集めたんです。で、さらに介護が必要な人、心配な人がおられたら、ぶどうの家の利用者に限らず受け入れますって。

―はい。

 真備のスタッフは、自分の家が沈んでいてもなんとかぶどうの家に来ようとしたんです。みんな、利用者のことが心配で仕方なかった。「今日のご飯はどうしましょうか」って。みんな一生懸命で、利用者たちの安否確認は2日ほどで終わりました。事業所は水没して情報一切を失くしてしまっていたのですが、携帯電話の履歴を追って連絡を取ったり、家がわかっていれば利用者の家に駆け付けたりと必死だったんです。公民館への避難を始めたとき、僕と津田とスタッフ二人が動ける状態で、その4人で勤務表を組みました。2名のスタッフは、沈んでいない利用者宅の訪問を始めました。地震といった災害ではないので、家が無事な人にとっては、生活自体はいつもと変わらない。その生活を支える当たり前の支援が必要なんですね。一方、避難所に来た利用者に関しては僕と津田でケアに当たりました。

小規模多機能は、即効性がある。その人に必要なものがすぐわかる

小多機ってね、建物を選ばないんです。本人さえ元気ならどこでもいい。小多機のサービスをしていると、よくわかるんです。この人は何が必要かということが。津田が「他の避難所にも“隠れ認知症”の人がいるでしょうって、避難所に看板立てて“公民館に来てください”って。実際そのような人が来たんですけど、初めての人であっても、三大介護を見極めていればケアできるんです。人が生きていくための食事、排泄、住まい。住まいとは安心できる場。安心できれば認知症が進んでいてもすぐに落ち着くんです。

認知症って、おかしな人?

 もともとは利用者外の人で、公民館でケアをしていた人が、ケアのサービスをそのまま継続している人がいるんです。避難所では「変な人がいる」といった存在。行政はその人の存在に気づいていても手が回らない。だから公民館に連れて来てもらった。Hさんというんですが、公民館に来た瞬間は「誰やお前?」って。ただね、“受け入れてもらえる人”だと認識してもらえれば近づいてくるんです。だから5分と経たないうちに僕はHさんと“かつて一緒に仕事をしていた同僚”になって“たけさん”と呼ばれる間柄に(笑)。
 災害が起きたら誰でもパニック状態になります。でも、僕らと生活していくことで落ち着いていく。災害前、Hさんは一人暮らしをしていたのだから再度一人暮らしができると判断して仮設住宅に入ってもらいました。仮設住宅でぶどうの家のサービスを受けながら暮らしています。
 確かにね、認知症の人はやっていることはおかしいんですよ。ポットに直接インスタントラーメンを入れて作ってしまうような。でも、「ラーメンを作る力を持っている」と捉えるのが僕ら。それまで一人で暮らしていたのだからそれでいいと。支える人がいて在宅で暮らして行けるのであればそれでいいんです。
 認知症って、誰かがいるから認知症になるんですよね。誰もいなければおかしなことではない。ゴミ屋敷もそうでしょう。周りがゴミと言うからゴミになるのであって。その人にとっては自分の宝に囲まれたお城。
 確かに、常識とか集団ルールであるとか、そこでは外れていても、その人なりのルールを見てあげてほしい。許容、共感できれば生活できる。使用した紙パンツを洗って干している人がいます。普通に考えたらおかしい行動。だけどその人はそうやって生活してきた。でもそれなら布パンツに変えましょうと。そしたら布パンツが汚れるのが嫌だからトイレに行くようになった。なんだ、トイレに行けるのか。もったいなくて紙パンツを捨てられなかったんですね。紙パンツを、外に広げてパーって干しているのはその場所が、日当たりが良いからという理由で。

―確かにそれってある意味では当たり前のこと…

 そう。だから認知症って何だろうって思います。人として見て(あげて)って思う。ルールというものがあって、そこからはみ出ているからおかしいと思うのであって…そんなもんなんです。
 スタッフ自身のことを小規模多機能サービスだと言っています。だからどこかの事業所というのでもない。介護保険を通してお金を介するから“サービス”と言っていますけど。うちは、スタッフの人数だけ小多機があるってこと。家を、暮らしを支えられる人がそれだけいるんです、って示しています。災害に強いのではなく、人そのものが強い。事業所が沈んでも場所は関係ないって思うことができた。とにかく職員全員が無事でありがたかったんです。ひとりの利用者さんは亡くなられてしまいましたが、スタッフが無事だったので、利用者さんのことで懸命に動けました。そして、船穂のバックアップがとにかく凄かった。船穂にぶどうの家があって本当に良かったんです。

薬と物資、手入れのコーヒー

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 真備は自分たちの利用者を守らないと。船穂は船穂の利用者を守らないとって、スタッフに強い責任感がありました。事業所が沈んでも、公民館に場所が変わっただけ。小規模多機能という機能は維持できた。そのスピード感はすごかったですよ。普段から緊急時の対応というものを考えていますが、真備のぶどうの家が沈んだと分かった時点で、看護師長が生命維持機能でもある「薬」のことを考えた。だから一番に、薬と物資を確保して(真備に)持ってきてくれたんです。
   そうそう、僕ね、ある実験をしたんです。災害時、バタバタしていたなかでLINEに「コーヒー飲みたいな」って入れた。そしたら船穂からすぐにコーヒーが届いたんですよ。気にしてくれているってとても嬉しかった。職場って、特に僕のような上に立つ人間への目線てどこか希薄なものがあるやろうなって思っていたんですが、たかが僕のつぶやきにきちんと応えてくれた。缶コーヒーではなくて、ポットに熱いコーヒーを淹れて持ってきてくれたんです。僕、一日に何度もコーヒーを飲むんですが、本当にそれが有難くて。災害のことで一番印象に残っているエピソードかもしれません。

 もう、こんな話を聞いていたら、どーっと胸に来るものがあって。「ぶどうの家、ほんまにスゴい」って思うのですが聞きたかったことがありました。
 「災害前後で、地域の捉え方は変わりましたか?」

 
 “ちいき”って、なんだろうー地域と地生

 介護事業所って必然的に地域と関わらないといけないとか、関わりが求められていると捉えがちですが、僕らはスタッフの存在自体が小多機というサービスだと捉えている。自分ひとりでは生活できない人のところに行くわけですね。ただその人がそれまで生きてこれたのは、誰かがいたから。“居てる”ことを知っていることが大切で、それが近所というものだし、その地で生きていくと書いて、いわゆる「地生」。僕らだけがその人を見るというのではダメなんです。24時間365日見守ることができるわけではないので。

   自分も含めての“地域”。地域が必要か?と言われたらそうでないような気がします。でもね、誰かに助けてもらわなきゃいけない状態になったら見解は違ってくるだろうと思います。介護事業を行いながら地域の活動もしている知人が「地域ってめんどくさい」って言いますけど、「でも関わっちゃうんよ、性分かな」って。「めんどくさい」って。でもそれを言える地域がいいなって思いますよね。

「ぶどうの家 BRANCH」を津田は「孤独になってしまった人の、みんなの場所にしたい」と言っていた。みんなポツポツ疎遠であっても、そこは「地域」。寂しい思いをしているのであれば「うちに集まればいい」って。そこでの“地域”とは“(その)土地で生きるうえでの地域”。この地で生きる人が集まって地域になれば本当の意味で地域になる。自分のテリトリー。その集合体が地域とも言えるのかもしれないですね。

サツキプロジェクト

垂直避難ができる場所を 

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(3月19日に撮影した工事中の現場) 

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津田さんが率先して動いている「サツキプロジェクト」とは避難機能付き共同住宅を真備のまちにつくるプロジェクトです。災害後勉強会や意見交換会を地域のひとたちと実施。そこで見えてきたのが「垂直避難ができる場所、日頃から安心して避難できる場所があれば命は助かる」ということだったといいます。
 1階は、例えばコミュニティルームやコンビニ、塾など、普段から地域の人たちが自由に使えるスペース。水の来ない高さの2階以上を住まいとして設ける。
 何かあった時に同じ建物の2階から上に垂直避難をすることができ、帰って来られる仕組みです。
 サツキプロジェクトについてもお話を伺いました。

 線引きできないものだから…

 現在、真備(のぶどうの家)の利用者で、自宅を被災した人が家を新しく建てるのは年齢的にも金銭的にも難儀。(船穂のサービス付き高齢者向け住宅)花帽子のような、入所系の事業所を立ち上げる?。いや、そんなパワーはない。じゃあ集合住宅を建てようと。家族に見守り兼管理人をしてもらえれるような住まいを。そんな考えで始まったのがきっかけです。奥さんが若年認知症で旦那さんがドライバーの仕事をしている夫婦がいるんです。自分の奥さんを介護していることもあって、他のちょっと介護が必要な人が近くにいたら、その人のことも理解できるから。お互いが気にかけることができる。
 最初の思いつきから現在の趣旨のプロジェクトに至るまでは紆余曲折しているのですが、真備の人を何とかしたいというコンセプトは変わっていません。あの時のようなことがまた起きたら…という不安、恐怖が解消されればいい。
 さっき話したご夫婦、一番最後に逃げたんですよ。ご近所はみーんな避難していた。若年認知症ですが症状が進んでいて奥さんは寝たきり。家の浸水が想定されて、電動ベッドの高さを一番上まで上げていたんですが「よういかん」と。ただ、周りがすごく静かなことに気づいて“あれ?”ってなった。そこで急いで奥さんを車に乗せて避難したんですね。その後、自宅は沈んでいます。ギリギリのところでした。

 真備で亡くなった51名のうち、8割にあたる42名が”避難行動要支援者名簿“に登録されていた方々だったそうです。51名のうち建物内で亡くなったのは43名。うち一人を除いた42名が一階で亡くなっていたそう。その半数が二階建ての家屋。垂直非難ができずに犠牲になってしまったとも考えられるそうです。逃げたくても逃げられなかったのか。避難所に行ったところで…と避難を躊躇した可能性は?

(武田さん)亡くなった人には、精神障害のひとや介護が必要だった人が含まれています。災害弱者と言われる人たちにはなおさらのこと、サツキプロジェクトのような場、何かあったときの“地域”が必要なのかもしれません。だから僕らにとっての地域とは、「そこの地で生きる」の〝地生〟でしょうね。領域とか区域とかでは線引きできないもの。生きていくために必要なもの。

―ぶどうの家の理念のひとつに「とことん在宅にこだわる」がありますよね。

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 在宅というと、何が何でも家にと捉えられがちですが、「本人が安心して安全に過ごせる場所」が“在宅”なんです。だから在宅とは病院であってもいいんです。(亡くなる場所が)ここで良かったと探すのが僕らの仕事。
 3,4年くらい前の話です。“猫屋敷”で暮らしているおばあさんがいたんです。職員はみなスリッパを履いてその人の自宅に上がっていました。暖房も効かないような、冬はとても寒い自宅。でも、おばあさんにとっては猫とのその暮らしがいいんです。そういう暮らしの人だってことを親族には懸命に伝えていたのですが、納得いかない親族がおられたんです。「何かあったらどうするんだ?」って。なかなか我々の気持ちが届かなくって入所施設に申し込みをされて、ある日施設のスタッフがおばあさんを迎えに来た。でもね、本人は行きたくなくて、施設が迎えに来た日は雨の日でした。本人はどこにいたと思います?雨が降っているのに、家の近くの溝に隠れていたんですよ。結局、無理やり連れて行かされてしまった。「まだ何かできることがあったんじゃないか」ってとにかく悔しかった。溝に隠れているその姿を見て施設のスタッフは何も思わなかったのか、疑問も残りました。ただね、今はその人、穏やかに施設で暮らしているんです。
 在宅にこだわるってことは、その人が良かったらいいんですってこと。現在は施設の、あたたかい室内で自動的にお茶も出てくるような暮らし。人間って、柔軟に対応できる生き物でもあるので“それもいいな”と思えたらそれでいい。在宅というのはそういうこと。衣、食、住の、住むって場所が“在宅”だから。その人にとっての“いいところ”が一番なわけで。
 被災して他の場所に行き、戻ってこなかった人は多いです。住めば都という言葉の通り、戻なければいけない理由もなくなっていく。一方、戻らないってことは、また沈むかもという不安があるからとも言えます。不安解消としてのサツキプロジェクトでもあるわけで。この会社の理念とは、結局、人が生きるのに必要なものが理念になっている気がしますね。

ぶどうの家の理念とは…
1.とことん在宅にこだわる
1.自分たちの都合で投げ出さない
1.目の前のその人を支える
1.どんな風に暮らしたいか一緒に考え楽しむ


―徹底した、変わらない姿勢。なぜそこまで?

 僕、飽き性なんですけど、“好き”なんですよね。
 勉強するねってよく言われるんですけど、自分ではっきり覚えているのが小四くらいの時のこと。“人間て、不思議だな。表と裏があって”なんてことを思っていたんです。リビドーとかユングとか精神論的なものをめちゃくちゃ読み漁っていました。心のひだとかに触れている作品て、本来は“キツイ”話です。ロミオとジュリエットだって憎悪の話だとも言える。人の気持ちは話の持って行き方で変わるもの。脳の錯覚。人間のそういった面白さを追求していると、認知症だって“面白く”捉えることができるんです。その探求心が自分を支えている気がします。

受容、慮り

 認知症のひとは相手の表情を見て対応します。まったくの冗談で、笑顔で“出ていけ”と言うと、その人は笑う。関係性が出来ていれば認知症でも“冗談”ってわかってくれるんです。こちらの幅(許容範囲)が広ければ、さまざまことは受け入れられる。(この人)変なこと言うな、ではなくて。そんな思いでいます。
 認知症だって喜怒哀楽が出せるように。怒ることも必要。悲しむことも時には必要。その表情を出せるようにしなきゃって思います。どこかのデイサービスのように「いつも笑顔で、喜んで帰ってもらおう」ではなくて。来たくないのに来たのならそっとしてあげてよ。本人の思いではなくて家族の都合で来させられたのだとしたら尚更。“一人にさせてあげたらいいじゃない”って。

 こうしてインタビューを終え、前回の取材時の写真データが行方不明になってしまったのでサービス付き高齢者向け住宅、花帽子へ再度上がらせてもらった時のこと。前回の取材で私が驚いたことを振り返りながら撮影させてもらっていると、(各居室の入り口がドアでなく襖なことに対して)「襖が良いんです」。(住宅内がほんのり暗めなことには)「灯りが明るすぎるのはダメ」。(広い廊下幅と手すりに関しては行政の指導上そうせざるを得なかったので)「この廊下幅も手すりも嫌いなんです」。

 そんな言葉は、武田さんの、“暮らしを支える”ことへの真っ直ぐな気持ちから発せられた言葉に間違いなくて。 
 ぶどうの家は、今日も変わらずそこにあり続けています。決してぶれない理念をもって…。

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インタビューの後日、緊急事態宣言が発令され…高齢者ケアの現場でも、その対応で、とてもとても大変な状況が続いています。
ぶどうの家は、“在宅”中心のケアを行っているので、一層のこと。
いま現在、私ができることは何もないのですが、
「またお会いしましょう」と武田さん、おっしゃってくださっています。
社会状況が変わったら、サツキプロジェクトも追いかけたい。

ぶどうの家のレポートは、これからも続けたいと思います。


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