モードの世界で: 短い東京生活


6 月のボーナスが入ると私と彼は信濃町という、自転車や歩きで神宮外苑を突っ切ると青山に出て来れる場所に、古いマンション?アパート?を見つけそこで暮らし始めました。

がらんとした大きなDKに普通のお部屋と3畳の可愛いお部屋のついた、変わった間取りのお部屋でした。住まいやインテリアにも関心が強い私たちは、そこに、拾ってきた、小学校で使われていた古〜い木の机や椅子を置いたり、3畳のお部屋は茶室のように静かに寛ぐお部屋にしたりと、楽しく工夫して暮らしました。美意識や価値観が同じ方向だったので、恋人同士でもあり、ファッションへの情熱に関しては同志でもあり、また家族でもありました。


引越しの日のことは忘れられません。
私は弟たちと住んでいたマンションからの引越しで、そのために、彼と彼の親友たち2人が手伝いに来てくれました。とても間の悪いことに、海外勤務していた両親が一時帰国で帰って来てしまったのです。ダイニングテーブルを囲んで、みな黙って座っていました。父は怖い顔をしてブツブツ言っていました。が、彼が親友を動員して自分たちで引越しをやるという所が好印象だと言い、なんとか引越しさせてもらえそうでした。彼は固まっていましたが、友人のH君は、母が茹でて出してくれたトウモロコシを黙々と食べていました。

ちなみにそのH君はその後ハンブルグに渡り、グラフィックデザイナーとして活躍、もう一人のI君はN.Y.でグラフィティ・アーティストになりました。

私たちが二人でパリに渡ることになるのも、実はもう翌年のことでした。


続く

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再びフランスに渡ったばかりの頃。
ルーブル博物館の隣、いつも綺麗に植栽されている、チュイルリー公園にて。

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