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年を重ねることについて自分なりに分析してみた。

きっかけ

私が入会している服装心理lab.でエイジングについて話す機会があった。
基本的にはエイジングとうまく付き合っていこうという方針ではあるが、その方法や考え方は人それぞれ。別に誰かに強制的にさせられるものでもないし、無意識にそう思い込んでいるのであれば、もう少し視野を広く持って考えてみよう。という主旨である。
その中で、やはり加齢を受入れられないという意見もあり、皆どうやって受け入れていますか?という質問があった。なんとなく曖昧な回答をして、うやむやに終わったのだが、その後、ずっと考えていた。

加齢に対する私自身の実感とその向き合い方

私も実際に老いは確実に感じている。それに関しては認めざるを得ず、
強がったりきれいごとを言いたくはない。

なので、外観に関しては一種のあきらめに近い感情ではあるが、それは別に年をとったから、もういいやというのではなくて、これだけ社会で色々経験すると、自分というものが内面も外観もすべてある特定の領域内にあることを悟ることができてきたから、これ以上はもういいやという程度の感情かもしれない。

今更、無限の可能性など求めていない。
その結果、精神面では非常に楽になっているのを感じるのである。

その領域内において、私らしさを発揮できる時期がようやく来たという感覚なので、老いは感じるものの、その移り変わりに向き合いながら、内面とのバランスを取っていくのが楽しみになっているというのが実際の気持ちに近い。

それは私が若いころに十分に若さを謳歌してこなかったことも一つの原因があるのかもしれない。

若い頃の無謀な葛藤と劣等感の無限ループ

若いころの私は内心色々とコンプレックスを抱えていたのである。
小学生の時には、なぜあの子はパステルカラーのお洋服が似合うのに、私はこんなに似合わないのかな…?と思って悲しかった。
中学生の時には、なぜあの子の髪は細くてサラサラなのに、私の髪はこんなに太くて多くて、黒いのだろうか・・・と思って、サラサラになる整髪料などを買っては効果が見えずにがっかりした。
大学生の時には、なぜ、あの子はあんなにスリムジーンズをカッコよく履きこなせているのに、私はジーンズ一つ満足に履くことができないのだろうと思って、食事制限に励んだりもした。

つい最近まで、悩みどころは段々と細分化され、外観、内面、人間関係や、今ある環境や待遇….あらゆることが目につき、あふれる情報に踊らされては、人と比較し、勝手に劣等感を強めていった。

おそらく、当時の私は、無意識に届くはずのないレベルを目標値として設定していて、いくらやってもやってもゴールの見えない泥仕合をずっと続けていた。

40歳からのマインドセットと自分の中での小さな成功体験の積み重ね

40歳ぐらいから、それにようやく気付いた。なので、その時点から「あきらめた」という解釈は正しい。

じゃあ今はあきらめたおかげで、劣等感がきれいサッパリないのかといえば、うそになる。

でも、より正確にいうと、あきらめる範囲を自分で決めたといった方が良いかもしれない。つまり、届くはずのないレベルのはそれはそれとして私の中の外れ値として除外できるようになった。
そのうえで、私なりの理想を現実に落とし込み、できる範囲の改善を考えられるようになってから、非常に楽になったといえる。

「あきらめて、楽になった」ということはそういう意味である。

面白いもので、できる範囲の改善は当たり前だが達成可能なので、一つの成功体験となり、さらに高いレベル、あるいは広い範囲の改善へと目が向き、良い循環サイクルを生み出すようである。

最初は誰も気づかないような些細な改善も、積み重なることで実感となり、それらが少しずつ自信につながる。

私はある意味自分の境界線を知ったからこそ、その中での自由度に可能性を見出し、やりがいを感じている。

昔を懐かしみつつ、今の私を楽しみたい

ただ、これは若いときには到底考えられなかったし、もし当時の私が今、この文章を読んだとしても理解できないだろう。できないからこそ、若いといえるのだと思う。

だから、若い子はいいわね。

とは思わない。理想と現実の狭間で、その時々の悩みをおそらく抱えていて、時に誰からも理解されずに精一杯あがいている最中だと思うから。
オシャレに限らず、その時期は自分の境界線を探り、また拡大する時期であり、そのためには誰しも領域を超えて失敗したり、深堀しすぎて迷ったりする過程があると思う。
そんな姿さえ美しく見える時期こそが若さなのかもしれない。

愛おしく眩しく思い出すには良いが、戻りたいとは思わないのである。

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