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他力本願


「他力本願」
という言葉の本来の意味は
「自分が本当に叶えたい願いは、神様や仏様などの目に見えない存在に任せ、丸投げして、人間は目の前のことに注力していれば良いのですよ。」
っていう、引き寄せの法則の真髄を指し示す言葉なんですよね。

ポイントは
[目に見えない存在に委ねること]
です。

間違っても
[人間の他人に丸投げしてはいけない]
のです。



ところが。

スピリチュアルが得意な人や、スターシード、サイキック能力が高い人などは、無自覚であったとしても宇宙意識が強く
『願ったことはすぐ叶う。』
『自分の望みが叶わない訳がない。』
という感覚も強い傾向にあります。人それぞれ感覚は違うでしょうが。

逆説的に
・願いが叶わない
・願いが叶うまでに時間がかかる
・自分が思い描いた形とは若干違う形で叶う
などに耐性が弱いんですよね。辛抱も妥協も、自分で叶えるために創意工夫することも苦手な傾向が強いです。

するとどうなるか。

自分の身近にいる他人を動かして自分の望みを叶えようとする言動が多くなり、自分は動かない癖に他人に偉そうにあれこれと指示を出すような人を生んでいるのです。

『自分のために他人が動くのは当然のことでしょ?』
という感覚しかないので、動いてくれた相手への感謝などは一切無い場合がほとんどとなります。



逆に、何でもかんでも
自分がやらなきゃ…。』
自分さえ我慢すれば…。』
耐えてこそいつか成果が…。』
などなど、自分の仕事ではないものまで自分がやらなければならないと思い込んでいる人も非常に多いです。

ほとんどの場合、その場の空気を読んだり、丸く収めようと周りを気遣ったり、周りを優先してしまうことによって生まれています。日本の文化の歪みによって、自己犠牲が良いことであるように思われてるケースが多いということですね。

場合によっては、お節介でしかないにも拘わらず
『これは相手のための行為なんだ。』
と、思い込んでしまっているケースも多いです。相手を気遣うことと相手に干渉することの違いが分かってないせいで起きてしまう迷惑行為ですね。

いずれにせよ、
・自分の管轄
・他者の管轄
の見極めが上手くできていないことで、"余計な"我慢や"余計な"お節介に繋がってしまっているので、沢山の人が
・自分が取り組むべき事柄
・他者が取り組むべき事柄

の見極めをできるようになることも必要です。



そんな中で
・他人をしもべだとでも言いたい位に振り回す人
・「No!」を言うべき場面を見誤っている人
両者の相性は最悪です。ある意味ベストマッチで、後者が前者のわがままに一方的に振り回され続けるのですが、多くの場合、自分が振り回されているだけであることにすら気付けてなかったりするのです。

↑この悪循環は時に周囲にも影響を与えます。

ナチュラルに
「これ、やっといて~。」
と、自分でやるべきことを他人任せにする人がいて、ある1人がそれを疑うことなく承諾する。すると、他人任せの人間の中では
『その相手は代わりにやってくれる。』
ではなく
周りの人間はみんな代わりにやってくれる。』
という勘違いが助長されます。

すると、それを承諾した人ではない人に対しても
「これ、やっといて~。」
とのたまいます。

「できません。」
と、断っても、
「○○さんはやってくれたのに~?」
と、譲りません。

こういうの、ちょいちょい見かけませんか?



何気に、日本人の傾向としては、願いがすぐ叶って当然という感覚と、自分がやらなければならないような感覚、両側面を併せ持ってる人が大多数なのではないかと思います。かくいう私も
・願いが叶うまでに時間がかかることが待てない
・『自分さえ我慢すれば良いんでしょ。』
しっかり両者の側面を持ち合わせています。

ですが、私は毎度毎度余計に振り回される側に回ってしまうことばかりなので
『どうして私のわがままは誰にも聞いて貰えないのに、アイツらのわがままを私が聞き続けなきゃいけないの?!』
と、憤慨し続けていたタイプで、長いこと解決方法が全く分からず、ずっと地味なイライラを抱えていました。

また、安易に頼まれ事をされないように、要はナメられないように頑張ってもいたので、必要以上に気を張り続けなければならず疲弊していたのです。



この前も、どの記事で触れたか忘れましたが、これからの時代は
【誰かの犠牲の上に成り立つ幸せ】
というものがどんどん成り立たなくなっていきます。逆に言えば、自分のことは自分でやる、自立するのが基本という世の中になっていく訳です。

注意しなければいけないのは、
【わがままで頼んでくる事柄】
はハッキリ断って
【どうしてもできなくて頼まれる事柄】
は快く引き受けられるようなメンタルを養う必要があるということです。

そもそも、頼んでくる事柄がわがままなのか、どうしてもできないことなのか、見分けるのが難しい場面も多いでしょう。それらを見極めるために、毎度毎度のコミュニケーションで丁寧に相手と向き合う必要性が増えるかもしれません。少なくとも、かつての私と同じように、自分ばかり踏み台にされることに納得がいかない人の場合、毎回のコミュニケーションで

『何となく引き受けてしまうことはもう止めないと!』

と強い意志をしっかり持つことが重要になるので、相手との対話に意識を向けるのはマストになるでしょう。コツも後述するので、私の仲間は一緒に乗り越えて行きましょう!

多分、ほとんどの人にとっての課題は
[断る勇気を持たなければいけない場面と遭遇する可能性が高い]
という点なのではないかと思います。この部分もまた後述しますが、これからの時代は
[立ててあげること]
ではなくて
[立たせてあげること]
が大切になってくるので、場面によってはある意味見捨てなければいけない、突き放さなければいけない、こういうことが頻発してしまうんですよね。嫌われるのが怖かったり、『優しくするべき!』などの強い思い込みによって苦戦する人は多いと思うので、そういうのも、一緒に乗り越えていきましょう!



一方で、誰かの
「助けて…。」

「どうしてもできない…。」
これらに応えてあげられるようになることも、これらを自分が素直に言えるようになることも大事になります。

自分が困ったときは素直に誰かに頼むし、誰かが困っているときはサッと助けてあげられる。誰も踏み台にならずに支え合える関係性を目指す上では、
『自分さえ我慢すれば…。』
も止めないといけないということなのです。この辺も、後でもう少し詳しく書きますので、一緒に変化していきましょう!



先に、ちょっと触れておきます。

3歳の子供と、10歳の子供が喧嘩してしまったときに
「3歳の子はまだ分からないから、譲ってあげてね?」
と、10歳の方に諭さないといけないような場面、現実世界でもあると思うんです。曖昧な表現になりますが、[どちらかが大人になる必要がある]というシチュエーションです。

ずっと他人のわがままの足蹴にされてきたタイプの一部は
『今までも我慢してきたのに、まだ『自分さえ我慢すれば…。』を止める努力しなきゃいけないの?!』
という気分になる人もいると思うんですよね。私は少し前にそういう感覚になることがたて続いて、モヤモヤしてました。私と同じような時期に乗り越えた人もいるかもしれません。凄く理不尽な気分になるのかもしれませんが、このブログのこの話に出会ってるということは
『自分は気付くべき人なんだな。気付けるって、ありがたいことかもしれないな。』
って、[人より多くを学べる]という部分に意識を向けて、それをラッキーへと昇華させてみてください。精進するのって、案外悪いものじゃないのかもしれません。今はとりあえず、先へ進むことを優先するのが吉だと考えて、モヤモヤに負けずに、共に突き進んでみませんか?



おさらいです。世の中では、
[誰かの代わりにやってあげること]
が尊く、優しさである、という感覚が強く根付いていると思います。地域にもよるのかもしれません。当然家庭毎にも違うかもしれませんが、小さな子供が転んでしまったときに、起こしてあげなければいけない、という感覚が根強いのではないでしょうか。

ところが、本来

[当人に経験させてあげること]

の方がとても重要なんです。転んでしまった子供を起こしてあげるのではなく、
「起きられるよ◎自分で起きてみな?」
といった具合に、自力で行動させてあげることの方がとても得の高い行為なのです。スピリチュアル界隈では「地球は行動の星」なんて言葉もありますが、これは「行動しなければならない星」という意味ではなくて、「行動を楽しめる星」という意味です。この言葉の通り、様々な【自力での行動】を体験できることこそが尊い訳です。

↑このポイントをしっかり腑に落としてみると、頼まれ事に対して
「自分でやってくださいね。」
と、突き返すことに抵抗感は無くなるのではないでしょうか。構えず、喧嘩腰にもならず、場合によっては笑顔で
「ご自分でどうぞ^^ 」
と、体験を差し上げることもできそうではないですか?それで良いんです◎他人が経験すべき体験を奪うなんておこがましいこと、すべきではありません。私たちには一人一人、【自分がすべき経験】だけに注力することが必要不可欠なのです。

『他人がすべき経験まで、自分が奪うなんて欲張り過ぎだよね!』
という感覚になってしまえば、きっと図々しい人からのお願いもナチュラルに抵抗感少なく断れるようになるはずです。是非、この部分の意識改革にまず取り組むことをおすすめします。



人によっては、
「そんなこと、自分でやりなさいよ!!!」
と、相手にブチギレたり、説教をしなければいけないタイミングを迎える人もいるのかもしれません。これも、
『叱る、という体験を得てるんだな。』
と考えれば、相手へのイライラも、怒った自分への自己嫌悪も減らせると思うので、ほんのり気に留めておくと良いかと思います。

先程も書いたように、この話に出会っていて、尚且つ他人が行うべき経験はしっかり他人に経験させてあげるように促す役目の人は、【自分が大人にならなければならない人】である可能性が高いです。大人になる、というと曖昧な表現かもしれませんが、要は自分の視座を高めなければいけないタイミングであるということです。色々と思うことはあるでしょうけれども、
『今、自分は視座を高めるための経験に遭遇しているんだな。』
と、一歩引いた視点で物事を見つめることで、様々なモヤモヤがスッと引いてくれるはずなので、ここは一旦、高い視点に立てるようになるという点に焦点を合わせてみると良いのではないでしょうか。



一概には言えませんが、
「自分でやってくださいね。」
「ご自分でどうぞ。」
と、これまで何となく引き受けていた態度から一変させることによって、頼み事を押し付けようとしてきていた相手から嫌味が返ってくる可能性もまぁまぁあるんですよね。ですが、その嫌味に屈することなく、サラッと受け流して、堂々と自分がすべきことだけに集中し直す必要があるのです。図々しい人は得てして嫌味も上手い場合が多いので、つい応戦したくなったりもするかもしれませんが、表面的に反応しないことが吉です。心の中で
『はい、負け惜しみ乙~!』
とでも言いながら、図々しい人間の言葉は無視を貫きましょう◎



普段から頻繁に無意識に振り回されてしまう人程、実は心のどこかに
『何で自分ばっかり…。』
『本当はやりたくないのに…。』
など、モヤモヤした思いを強く抱えているのではないでしょうか。こういう思いを持っているとつい忘れがちだったり、盲点に入りがちなのですが
『手伝いたい!』
『頼られたい!』
『人に貢献したい!』
と、思ってる人も結構いるもんなんですよね。人間は、人を助けることに喜びを感じる習性が強いんですよ。普段、足蹴にされ続けてると、そんな感覚忘れてしまいがちだと思いますが。

なので、自分ができないときや、しんどいときなど、思いきって頼ってみると、案外すんなりやってくれることも多いんです。

自分が
『本当は頼られたくない…。』
とくすぶった思いを抱えているとどうしても、
『他人も誰かから頼られるのは嫌なはずだ!』
と、いう感覚になってしまって、だから人に頼ることが億劫になってしまうんですよね。ですが、頼られたくない人がいるなら必ず頼られたい人がいるのも当然。ある作業が嫌いな人がいれば、好きな人がいるのも当然。
『自分は頼られたくないけど…もしかしたら周りは頼って欲しいのかもしれない!』
という風に、希望的観測を持って周りを見渡せば、頼める相手が見つかる可能性も高まりますので、
『自分が我慢してれば良いんでしょ!』
なんて、狭い考え方に囚われるのはもう、止めてみませんか?



さてさて。ここから、昨日の話と繋がる部分の話を書きますね。

この話の冒頭で説明した通り、本来
[神様や仏様など、目に見えない存在に、本願を任せる]
のが、正しい願い方なんですよ。

「南無阿弥陀仏」
という言葉は、
「阿弥陀様、お願いします!」
という意味合いの言葉になるので、自分の願いを阿弥陀様という目に見えない存在に丸投げしている、正しい願い方ということになるんです。

ところが、目に見えない存在ではなくて、周りにいる"他人"を振り回してしまうタイプ、エナジーバンパイアなんかもそうですが、そういう人たちはたとえ
「阿弥陀様、お願いします!」
と頼んでおいたとしても、勝手に自分で周りの人間に
「あれ、やって!」
「これ、やって!」
と、指図する行動を起こしがちなのです。目に見えない存在に"丸投げ"ができないんですね。叶うまでのタイムラグを待てないから。息をするように周りの他人を動かしてきます。
「あれ、やって!」
「これ、やって!」
と、口で唱えてる間に自分が動いてしまえば良いことであっても他人にやらせようとするんです。そして、恐らく
『なーんだ、無駄口叩いてないで自分でやれば良かったんじゃん!』
なんて、気付くことはないでしょう。こうして、本来必要のないはずの【他人に押し付ける】という無駄な行為が雪だるま方式に無駄を生み続けてしまい、収拾がつかなくなるのです。残業が無くならない職場の原因を突き詰めていくと、ここに辿り着く訳です。

本当の願いは、目に見えない存在に丸投げ、お任せして、人間は自分の目の前のことに一所懸命に取り組む必要があるのですが、図々しい類いの人々は、自分の目の前のことに集中しないんですよね。これもこれで、
・自分が取り組むべき事柄
・他者が取り組むべき事柄
が見えていないということではあるのですが、振り回されてしまう側との違いとして
『目の前のことを片付けなければいけない。』
という概念がほぼ無い点が挙がります。振り回されてしまう側の人々は、大体
『目の前のことは、誰かの手によって片付ける必要がある。』
という前提だと思うのですが、振り回す側の人々は大体、
『目の前に問題事があっても放っておいて良い。』
という風な感覚で、
『誰か人間の手で何とかしなくてはならない。』
という意識が乏しいんです。上手く伝えられてるかちょっと心配ですが、まぁとにかく
["人間の手によって"動かさなければならない事柄もある]
という概念がほぼ無いので、
『自分がやりたくないことは全て放ったらかしで良い。』
とナチュラルに嫌なことを無視しやすい傾向が強いんですよ。

他にも、
『やった方が良いんじゃない?』
『やらなくても良いよ◎』
などと頭の中で天使と悪魔の囁きが生まれても、確実に悪魔の囁きだけに耳を傾けて、ちゃっかりやらなくて良い言い訳まで準備する傾向も強いですね。



『今、この瞬間、目の前にある出来事に着手しないとね!』
と、人間の自分の手で取り組むべき事柄
に着手できる人間が増えることで、無駄も減るし、自分がやりたいことに注力できる人も沢山沢山増やせるんですよ。

目の前のことに注力できるようになるためには、魔を祓う系の言葉を唱えた方が、余計なことに意識を削がれず、目の前のことに集中しやすくなるんです。だから、
「南無阿弥陀仏」
よりも、【般若心経】の方が、今の時期、時代に合ってるお経になるんです。

魔を祓う系の言葉は色々あるので、皆さんがピンときた言葉を選ぶと良いとは思うのですが、【大祓祝詞】が合ってる人もいるでしょうし、【不動明王真言】が合ってる人もいるでしょう。他にも
『あ!アレだ!』
と、頭に浮かんだ言葉を述べるのも効果的です。シンプルに

「悪霊退散!!!」

って、頭の中で喚き散らしてもなかなか効果はあるのではないでしょうか。私は大分前にも書きましたが、【闇の契約解除 宣言文】が不思議とご利益あったので、人それぞれ、合う言葉は違うでしょう。

何であれ、この2024年付近の時代には
「南無阿弥陀仏(阿弥陀様お願いします!)」
ではなくて

「悪霊退散!!!」

を意識した方が良い人が多いんです。取り繕ってやり過ごすのではなくて、目の前のことと真摯に向き合うことが必要なんですよね。



仕事…って書き方をすると、現実世界で実際に働いてる活動を連想してしまいやすいかもしれませんが、今、この瞬間、自分の目の前に現れてる出来事が【仕える事柄】なんですよ。その出来事と対峙するのが、人間の役割。望みや願望は天に放つ。間違っても他人に丸投げはしない

真摯に向き合ってみた結果、
『今の自分には無理だな。』
『疲れていて動けないな。』
などの判断の場合は、素直に誰かに頼んでみるのも大事です。見極めが難しければ
『神様!今、自分には、無理です!』
なんて、念じてみても、救いがひょっこり采配されたりもするので、天に頼るのも良いでしょう。

今日の話はいつもに増して頭がこんがらがる内容だったかもしれませんが、読んでくれてる皆さんの潜在意識には届いてるので安心してください。難しく考えず
『何となくこういうことね!』
と、軽~く読み流して貰えればOKです。

私の話と波長が合う人は、課題が複雑になりがちかと思いますので、ピンときた部分だけ拾って、活用してみてください。必要な人に届きますように。

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