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気当たり ィイ・ヤシロ・チ⑥

イワクラに初詣したあと、とても具合が悪くなった、と知人。咄嗟に「あ、気当たりかも。」と口をついて出た。

すばらしいイヤシロチは、浄化の力もパワフルで、電気で例えると、高圧電流みたいな側面もある。元々繊細で、低電圧でも敏感に反応する質の人は、タイミングや相性などにもよるけれど、浄化の副反応のようなものに見舞われることもある。

わたくしも初めての伊勢参りの外宮参拝の直後、大変な腹痛に襲われてあまりの体調の急降下に往生した。ひどくお腹をくだし、一晩おとなしく過ごすと、何もなかったかのように殆ど回復した。翌日はかえって身軽に朝から内宮やその他のお社参拝に出かけることができた。(その時に得た様々な不思議体験については、また別の機会で。お楽しみに♪)それは簡単には忘れがたい衝撃的な体験だった。

以降、幾たびも伊勢参りを繰り返したが、「気当たり」的な反応はそれきり一度も起こらない。わたくしにとって不思議で貴重な思い出でもある。

その後の各地への参拝では、同伴の参拝ビギナーにも同様の事例を目撃したことから、コレは、洗礼みたいなものなのかもしれない、とわたくしは思うようになった。

「気当たり」についてうまくまとめてくださった記事も見つけた。↓

https://marmeloblog.com/shrine

そういえば、ベテラン神社ガールの友人は、参拝必携グッズに天然塩を挙げていた。彼女いわく「具合悪くなったら、コレを舐めればいいから」とのこと。そう教わって以来、わたくしも天然塩を持ち歩いている。なるほど、それは上記にも言及されている。通の方々には周知の参拝アルアルなのかもしれない。

そして、ここからは私見であるが、気当たり現象は、ご神気の電圧(霊圧?)とのレベルの差や、あまりにも清まった場所と本人を囲む状況との落差が大きいために起こる作用のように感じる。そうならば、気当たりは、心身の浄化や生活の中の合わなくなった習慣を見直すなど良き機会と捉えられるのではないか。知らず知らずの間に身についた、気を枯らす(ケガレ)ものごとを、聖処の力は取り払う。その副反応として、少し激しい気の調整が起こり、時には心身を損なう生活習慣や嗜好に気づく為の体調不良が生じる。人は不調に悩んで改めて、我が身の心体に目を向けることも多い。この不調をうまく受け止められたら、大病を未然に防ぎ、生活や体質の改善の大チャンスとなる。

先の知人は正にそのように、気あたりをきっかけとする体調不良に暫く悩まれたけれど、全身をチェックし、西洋医学以外の治療方法も模索した結果、隠れていた身体の不具合を発見し、生活習慣を見直されて、より健康に生活を営む機会を得られたようだ。実に、喜ばしい限りである。これぞ気当たりのデトックス効果といえるのではないか。

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ところで、わたくしの脳裡に唐突に思い浮かぶことがある。「気当たり」とアレは似た現象かもしれない、と。

それは、やはり強いご神気溢れるお社参拝の帰宅後に、思わぬ怪我やアンラッキーな出来事が自分の身に連続発生した経験だ。大満足の聖処めぐり旅を無事に終え、たいそうご機嫌だったわたくしは、帰宅後鍵をなくす、足首をひどく挫くなど不運な出来事に続けて見舞われた。そのどれもが、いつもとは違う不注意やうっかりが原因で、わたくしは次々と痛い目に遭っていた。ただ不幸中の幸いで、困るのは自分限定で、周りの人々に類は全く害は及ばなかった。

それにしても、なにかおかしいと考え込むなか、加門七海さんが寺社周りの先達にインタビューする形式の本「うわさの人物 神霊と生きる人々 (集英社文庫)」を読んだ。そこに良いヒントが見つかった。わたくしの記憶が確かであれば、その本には、山伏は行の下山後に宴会を行って、清まりすぎることの弊害を取り除いて俗世に戻る習わしがある、という記述があった。

https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-746548-8

となると、とてもきれいな気の聖処を巡り、同調してすっかり気持ちよくなったのはよいけれど、普段の感覚とのギャップが大きくなりすぎて、わたくしの心持が覚束なくなっていたのかもしれない。そのため、頭脳のはたらきの中で、俗世を暮らすために必要な注意深さが幾分失われて、痛い目に遭っているのではないか、と。

仕切り直しが必要だ。そう理解した途端、とりあえず思いつく俗なことを実行してみた。例えば、お酒を口にする、ジャンクフードを食べる、にぎやかな音楽を聴く、手足を大きく振って身体を動かすなど。気のせいか、それからは不運の連鎖は止まってくれたように思う。

身は俗世にいながら、わたくしの魂魄は神域モードのままの分裂状態が、生活の不具合の原因だったのかもしれない。(単に旅の疲れが残って注意散漫という見方も勿論成立するけれど)

いくら気軽な参拝であっても、ご神気の満ちている聖処に出向くのであれば、帰途には心身が確りと平常モードに戻るための大事な作法を欠くべきではなかったのだ。こういう知恵を少しずつ得て、安全に聖処めぐりを続けてゆきたい。

このような作法が、直会(ナオライ)というものだと、コトバンクにあった。↓

https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B4%E4%BC%9A-107535

ここの直会の記述に言及されている、みあれ祭にわたくしも参列させていただいたことがある。お神酒を頂いたことも懐かしい思い出である。常ならぬ神霊と接近するにあたっては、何かしらシールドめいたものや呪いで俗人は心身を守らなければならないのだろう。あのふるまいもきっと意味のある作法に違いない。おかげで無事に下山させて頂いた。やはり、畏れ敬う心を忘れないことが肝要である。

スピリチュアルという言葉の軽みが、神霊を友達感覚に扱ってもよいつもりにさせるのかもしれない。けれど、常では見えず・聞こえず・触れずの存在を簡単に扱うことの危険性をよくよく弁えねばならない。不用意に近づきすぎ、知らぬ間に禁忌を破ってしまうと、どうしようもない事態に陥ることがあると先人はきちんと教えてくれている。

神と人が呼ぶものは、単に優しくて気のいいだけの存在ではない。神の領域に足を踏み入れるならば、人の仔としての分際を自覚し、しっかりと危険から身を護る用心深さが求められる。

祟りと崇敬は同じ漢字が使われる。そのことからも十二分に表されているのだから。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。



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