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#011 類推と洞察

何かを見て 何かを感じること
この時点では この現象はまだ「ある」とも「ない」とも言えない状態なんだろうな と思う
 
この感じたことを伝達する手段が  言語
この言語を他者に送って受容されたときに初めて この現象は「ある」と言える状態になる気がする
 
つまりは
自分の感じたことというのは 他者を介することなしには存在しえない側面も ある
自分が感じている時点では まだそれはなにも固定化されていないから
 
何かを見て 何かを感じて それを言語化するとき
ひとは いままでバラバラだった「見える何か」と「感じる何か」をつなぐ
この思考は 演繹的になされることも 帰納的になされることもあるけれど
もっとも本質的な部分は 無意識に 突然に なんの因果もなく脳裏に浮かんでくるアブダクション
 
この類推と洞察によって 感情と世界はひとつながりになるけれど
このひとつながりになったものを言葉でスケッチするということを
いったいどれだけ自分の中でやっているのだろう
 
一般化された言葉に当てはめて それを自分の類推と洞察だと思い込んでしまってはいないだろうか
伝わらなければ 自分と世界のつながりが 常に流れ去る瞬間の連続
それよりも すでに時間の流れの中に固定化された言語を使う方が 楽ちんだろうから
 
でも
固定化された言葉の中に 自分の中に浮かんだ何かを落とし込むよりも
固定化された言葉だけで 他者とつながることよりも
 
いろんな言葉を当てはめながら ぴたりと嵌るものを見つけ合う方が
それが見つかったときの喜びは とてつもなく大きいなと思う



この一連の言葉たちは、
今年の3月に僕の中から生まれた。

今、この言葉たちを思い出したのは、
今、新たな世界の広がりの中で感じるものがあるからか。

これは、協和音か不協和音か。
そんなことは、いくら事前に知識を詰め込んでもわからない。

知ることは大事。
でも、知ったと思う勿れ。
驕れるものは久しからず。

「読書について」でショーペンハウアーが吐露した思想に思いを馳せつつ、
色々な物差しが飛び交うであろうことが予測される明日の世界に臨む前に、

ぼくは意識的に、飄々と、淡々と、網膜と心臓に届くリズムを感じたいと思う。




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