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星追いのワタリガラス4.咲かずの花(上)

 その年、降り積もる雪が湿原の道を覆い隠してしまう前に、カガリの文身は出来上がった。
 その報せが里に伝わるのを待ちかねていたように、ある家から早速、カガリを花嫁にと所望する旨の申し入れがあった。その相手は、スグリたちの住む家から見て丁度里の反対側にある家に住む、ムビヤンという青年だった。
 早々のこの申し入れにマシケとナナエとは面食らった。しかし、当のカガリは至って落ち着いた様子で、その日のうちにそれを承諾してしまった。
 それから間もなくして、ソタニの娘サマニの文身が出来上がった、という話が里に広まった。今度はスグリの家から家長のマシケが、長男ウリュウの伝令として、彼女の家を訪ねる番だった。
 幸いなことに、こちらの縁談もとんとん拍子に話がまとまり、ウリュウとサマニ、ムビヤンとカガリ、という二組の年若い夫婦がめいめい、来年の春に結ばれることが決まった。
 義父母は胸を撫で下ろしたが、その後は一家総出で、長男長女二人分の婚礼の仕度に大わらわとなった。そうこうするうちに、日の照る間は短くなり、里の周囲は雪で覆われ、暗く酷しい冬がやって来た。少し前の発熱騒ぎによりスグリの左腕の墨入れは進まず、その完成は次の春まで持ち越しとなった。
「びっくりしたわ。あんたがあんなにあっさり承知してしまうんだもの」
 カガリの花嫁衣装に刺繍を施しながら、ナナエが言った。その口調にはどこか責めるような響きがあったが、その口元は綻び、薄暗い冬の日にも関わらず、その眼差しは夏の水面のように輝いていた。
 すると着物を縫う手を止めずに、こともなげにカガリは応えた。
 彼女が縫っているのは自分の花婿に贈る晴れ着だ。婚礼の日、花婿からいくつかの贈り物を受けとる代わりに、花嫁から花婿へ晴れ着を一着贈るのが、古くからの習わしだった。花嫁の衣装は花嫁の女家族が協力して、花婿に贈る衣装は花嫁が全て独力で仕立てるのだ。
「あら、だって。私の結婚相手なんて、あの人くらいしかいないじゃない。どこに迷う余地なんてあったの?」
 すると、驚いたように目を円くしてナナエが言い返した。
「なに言ってるの。カタヌシさまのところのシュマもいたでしょう」
 里長の未婚の子のうち、唯一墨入れを終えているシュマの名を耳にした途端、カガリは不機嫌そうに眉をしかめた。そして鼻を鳴らしながら言った。
「あんな下品で乱暴なやつ、たとえ一生ぶんの布地や糸を贈ると言われてもお断りよ。それと比べたら、ムビアンのところへお嫁にいく方がずっとましだわ。だから、あいつに申し込まれる前に、すぐに返事をしなきゃと思ったのよ」
 この返答に、ナナエは呆れ返った様子で、自分の娘の顔を見つめるばかりだった。
 二人のこのやりとりを聞くともなしに聞きながら炉端で糸を撚っていたスグリは、そっと義姉の顔を盗み見た。彼女をのぞいて、家族は全く気づいていない様子だったが、この気位の高い義姉の本心に、スグリだけは気づいていた。
 ナナエは知らぬことであったが、カガリはシュマのことをひどく嫌っている。ときたま里の内外で出くわす度、彼がカガリの背の高さをからかうためだった。
 しかしそれを抜きにして、彼女はムビアンのことを密かに好いていたのだ。恐らくは、彼の腕の文身が出来上がるよりずっとせんから。
 カガリと連れだっての、朝の水汲みや山への食料探し、あるいは川での洗濯の途上。里の内外でムビアンとすれ違ったり遠目に見かけるようなことがあると、カガリは決まって少し顔を強張らせ、然り気なく着物の衿元や頭の巻布に手をやる。ときに彼と目が合おうものなら、たちまち慌てた様子で目を逸らすのが常だった。
 それがいつ頃からのことか、スグリの中でも定かでない。しかし、彼女がその事実に気づいてから、少なくとももう一年は経っていた。
 何はともあれ、義姉同様里長の息子を嫌っていたスグリにとって、彼が義兄になるなぞ、考えるだにぞっとすることであった。それに対して、縁談の決まったムビヤンという青年は、好奇心旺盛で身のこなしの俊敏な、若い牡鹿を思わせる、気持ちのいい若者だ。年はシュマと同じで次の春に十六となるが、シュマよりもずっと大人びている。
 今度の義姉の判断に、スグリはすこぶる満足していた。
「それにしても、ときの経つのははやいこと。つい昨日生まれたばかりだと思っていたあなたが、もう嫁入りの仕度だなんて」
 ため息混じりにそう呟きながら、ナナエがカガリを見やった。そしてすぐさま自分の傍らのサユリへと視線を移した。
「うかうかしていると、たちまちこの子の嫁入りの日も来てしまうのね」
「そうね……」
 母親の言葉にそう応えながら、カガリは自分と同じ父母から生まれた妹をちらと見やった。そしてすぐさま、義妹であり又従妹でもあるスグリの方へと視線を移した。
 その眼差しはあくまで無表情ながら、どこか意味ありげであった。スグリはそ知らぬ振りをして、黙って糸を撚り続けた。
 誰も口にせずとも、スグリは自分に割り振られた将来を察していた。スグリはいずれヨタカになる。ヨタカは生涯伴侶を持たず、子も産まない。それが古くからの決まりだとミクリから聞かされてきた。
 だからこそ義姉の嫁入り仕度の手伝いは、スグリにとってとてもきらきらとした、胸の躍る仕事に感じられた。次の春、目のあたりにするであろう義姉の花嫁姿をうっとりと心に想い描きながら、スグリは糸を撚る手をいっそう速めた。

 * * *

「どういうこと?」
「どういうことって?」
 突然の問い掛けに、スグリは目をぱちくりさせながら、カガリを見つめ返した。スグリより頭ひとつと半分ほど背の高いカガリと並んで歩いていたため、スグリは顔を思いきり上に向け、カガリを見上げなければならなかった。
 里から少し離れた川岸にある、共用の水くみ場の周辺には、二人の外誰もいなかった。川の表はほとんど雪と氷とに覆われ、わずかに露わになった流れの中にも、氷の塊がいくつも頭をのぞかせている。どこかで小鳥が木の幹を突くような乾いた音が聞えてくるのをのぞけば、まるで何もかも死に絶えてしまったような静寂ばかりが、辺りには漂っていた。ちらつく粉雪が日の光を受けてきらきらと輝き、スグリの目を刺した。
 スグリの反応に、寒さで真っ赤になった顔をわざとらしくしかめてみせながら、カガリが応えた。
「ゆうべの、母さんの態度。まるで、あんたは誰のところへもお嫁に行かないような言い方だったじゃない。どういうこと?」
 この言葉に、スグリは思わず立ち止まり、カガリの顔をまじまじと見つめた。そして慌てて言った。
「カガリ、何言ってるの?だってあたし、ヨタカになるのよ。お嫁になんて行くわけないじゃない!」
「あんたがミクリ様の後を継ぐことくらい知ってる。でも、ヨタカだって結婚して子を産むでしょう?」
 いかにも腑に落ちない、といった様子でそう言うカガリに戸惑いながら、スグリは足元に目を落とした。
 よくよく考えてみれば、ヨタカについてスグリが知っていることは、すべてミクリから直接教えられたのだ。里のほかの者が、ヨタカのことについて何でも知っているとは限らない、ということに、スグリは今さらながらに気がついた。
「行かないし、産まない。ヨタカは一生ひとりで、あの湿原の向こうの、集会所のそばで暮らすの」
 自分たちの吐いた息が、たちまち重い水の粒となって二人の間の地面に落ちていくのを目で追いながら、スグリは言った。太陽が中天にさしかかる、一日のうちで最も暖かい時分とはいえ、その寒さが緩むことはほとんどなく、朝や夜と比べればまだまし、という程度のものでしかなかった。
 ずっとせんから承知していたはずのこのことを言葉にした途端、奇妙な心持ちになって、スグリは戸惑った。自分のまわりのあらゆるものが凍りついて砕け散り、胸の奥に降り積もっていくような、そうして、あっという間に胸の内をすっぽりと覆い隠され、息が詰まってしまうような、不思議な心持ちだった。
 そんなスグリの胸の内には気づかぬ様子で、カガリがにべもなく言った。
「うそよ。そんなのうそ」
「うそではないわ。ミクリおばあ様が言っていたもの」
 思わず語気を強めながらスグリが言い返すと、カガリがいつものとり澄ました顔で、スグリの顔をじっと見つめた。
「だったらどうして、ミクリ様はあんたの母さんを産んだの?どうして、あんたの母さんはあんたを産んだの?」
 どうやら彼女にはスグリに対する追及の手を緩めるつもりはないらしい。カガリは平生何事にもこだわりの弱い質の娘であった。その彼女らしからぬ振舞いに半ば怖じ気づきつつも、スグリはミクリから教えられたとおりの答えを返した。
「おばあ様は特別なんだって。ほんとはおばあ様の妹がヨタカになるはずだったのに、その人が突然死んでしまったの。ほかにヨタカを継げる人もいなくて、それで急に、もうお嫁に行って子どもも産んでいたおばあ様が選ばれたんだって。それからずっと、ヨタカはおばあ様。それに、あたしのかあさまは、ヨタカではなかったわ」
 すると、カガリが眉をひそめた。そして、スグリを責めるようなまなざしで見つめ返しながら言った。その内容は、スグリには信じがたいものだった。
「それもうそよ。あんたの母さんも、ヨタカだったんだから。ヨタカになってからあんたを産んだんだって、お向かいのおばさんが、ずっと前に言ってたもの」

 * * * 

 その夜、スグリはなかなか寝付くことができなかった。義兄姉弟妹たちの寝息や、ときおり寝返りを打つもの音に耳を傾けながら、天井の暗がりを見詰めていた。
—あんたの母さんは、ヨタカになってからあんたを産んだ—
 カガリのこの言葉は、スグリの心の奥底にずしりと沈みこんで、彼女の心を密かにかき乱していた。あのミクリが自分に嘘を吐くはずがない、と思う反面、もしカガリの言ったことが本当だったら、と思うと、スグリの心はどうしようもなくざわついた。
 実際、カガリの言葉が本当だとしたら、いくつかのおかしなことに納得がいくのだ。たとえば、スグリの実父のこと。彼のことに関して、里の者はおろか、ミクリからすら、スグリはほとんど何ひとつ教えられたためしがない。まるで、彼の存在がこの里から消し去られでもしたかのように、彼を偲ばせる一切のものが見当たらず、聞えてもこないのだ。
 もしも、「ヨタカは子を産まない」というミクリの言葉と、「マツリがヨタカになってから子を産んだ」というカガリの言葉とがどちらも正しかったとしたら。スグリの実父と実母とが、里の禁忌を犯してしまったということになるだろう。里の禁忌を犯した者に対する最も重い罰は、里からの追放と、里の中の、その者に関するあらゆる記憶の抹消だ。
 そこまで考えて、スグリは胃袋が縮むような感覚に襲われた。里の者の幾人かが時折スグリに対して向ける不穏な眼差しの意味が、はじめてわかったような気がした。スグリは思わず息を吐いて、寝返りを打った。そして、家族を起こさないよう気を配りつつ起き上り、追い立てられるような心地のまま、そっと家を飛び出した。

 * * *

 外では雪も風も止んでいた。月のない空は磨き上げたように澄みきって星々が耀き、キンと張り詰めた空気は音もなく皮膚や喉を刺した。スグリは胸の内まで凍りついてしまうような感覚に襲われ立ちつくした。
 しばらくの間、戸口の辺りに佇んで夜空を見上げ星を数えながら、スグリは自分の気持ちが落ち着くのを待った。
 思いがけず胸の中に落とされた重い岩ごと、かき乱された心の中の湖が厚い氷で覆われ鎮まっていく様を思い描く。耳を澄ますと、どこからともなくあの不思議な歌声が聞こえてきた。
 深く、ひっそりと胸の奥に染み込んで、心を満たしていくような、優しい女性の声。我知らず視界が涙で滲み、スグリは慌ててそれを拭った。ふいに、海の彼方からやってきた疫病神の妻としてその身を差し出すことで同胞を護り、自身は宵の明星と化したという、美しくも哀しい娘の物語をスグリは想い起した。ミクリの言葉を信じれば、「ヨタカ」はみな、その娘の妹の子孫なのだという。
 あの歌声は、ひょっとしたらその娘が地上の想い出を懐かしんで、天上で口ずさんでいるものなのかもしれない。などという考えがふと浮かんだ。裸足の足先は冷えきって、すでに感覚を失っていた。
「いつまでそんなところに突っ立っているの。また熱を出してしまうわよ」
 背後から聞えてきた声に、スグリはぎょっとして振り返った。見ると、カガリがいつもの澄ました様子でスグリを見下ろしていた。驚きのあまり何も言えずに、スグリはカガリの顔をじっと見つめた。そして絞り出すように言った。
「カガリ、どうしたの?」
 すると、如何にも不機嫌そうなひそひそ声でカガリが応えた。
「それはこっちのせりふでしょう。てっきり手洗いに行ったのかと思っていたら、なかなか戻ってこないじゃない。ホシにでも攫われたのかと思った」
「起きてたの?」
 思わず声を上ずらせてスグリが言うと、カガリが小さくため息を吐いた。
「あんたのでかいため息で目が覚めたの」
 スグリは内心首を傾げた。結婚ができる身体になった娘は、それまでのほかの家族と共に雑魚寝していた場所から離れたところに、菰で囲った寝場所を与えられそこで寝起きする。カガリの寝場所はスグリたちからは離れているから、スグリのため息が余ほど大きかったことになる。それならほかの家族も起きていておかしくないはずだが、起きたのはカガリだけだ。恐らく、彼女も本当は何かの理由で寝付けずにいたのだろう。しかし、それを指摘しても彼女は断固として否定するだけだろうことをスグリは承知していた。
「そう。悪かったわね。もう少ししたら戻るから、気にしないで寝ていてよ」
 そう言ってスグリは背を向けたが、カガリはなかなか家の中へ戻ろうとしなかった。不審に思ってスグリが再び彼女の方へ向き直ろうとするのと、彼女が口を開くのとはほとんど同時だった。
「昼間は悪かったわね。頭っからあんたの言うこと嘘だって決めつけて」
 思わず目を見開いて、スグリは義姉の顔を見上げた。暗がりの中ではあったが、その声音や気配で、彼女が言葉にある以外の何の感情も抱いていないことが察せられた。
 昼間のあの言い合いの後、カガリとスグリとは、そのまま掴みあいの喧嘩になりかけた。しかしそこへ折よく、カガリの婚約者のムビヤンが、スグリたちと同じく水くみにやって来たのだ。水くみはほとんどの家で年若い娘の仕事だったが、長女は結婚し、残るは両親とまだ幼い妹一人、そしてムビヤンの四人きりである彼の家では、特に冬場は彼がその役に当たることが少なくなかった。
 真っ先に気がついたのはスグリだった。カガリの姿を見とめた途端、ムビヤンは見るからに嬉しそうに顔を綻ばせて二人に声を掛けてきた。彼のその笑顔は、雪の合間から顔を出したフキノトウをスグリに思わせた。そしてそのまま、まだ水くみを終えていなかったスグリたちをムビヤンは手伝ってくれた上、里まで道を共にした。
 その道中は、ムビヤンがカガリに話しかけ、それに時折カガリが返事をするだけ。スグリにもたまに話を振ってくれはしたが、ほとんど二人の会話に終始していた。スグリは水で満たされた桶を背に、黙ってカガリの傍らを歩くばかりであった。二人に気を遣って、というより、単に面倒だった、といったほうがよかった。いずれも背の高い、ムビヤンとカガリの二人と話をしようとすると、背の低いスグリはどうしても無理をして顔を上げなければならないのだ。二人は、並ぶと頭の天辺の高さがほとんど同じか、カガリの方が少し高いくらいだった。
 もちろんその間、カガリとスグリとの言い合いは完全に中断された。家に帰ってからも、互いに顔も見ず、むっつりとそれぞれの仕事に専念したまま夜を迎えたのだ。
「いいよ。もう。どっちが正しいのかも、まだよくわかんないし」
 スグリは思わずそう言った。喧嘩になったとき、どんなに自分に非があっても謝ることのなかった義姉の、思いがけない謝罪に、彼女は自分でもびっくりするほど動揺していた。ふいに、今日の日中ムビヤンと並んで歩いていたときの義姉の横顔に浮かんでいた、見慣れぬ柔らかい微笑みを想い起した。
「でも、ヨタカが結婚もしなくて、子どもも産まないってミクリ様が言ってたのは、ほんとうなんでしょう?」
 カガリの声はあくまでも静かだったけれど、何かを危ぶむような気配をわずかに含んでいた。なぜ彼女はこんなにもそのことにこだわるのだろうと訝しがりながらも、スグリは応えた。「ほんとよ」そして少しためらった後、スグリはきき返した。
「でも、あたしのかあさまがヨタカだったのに子どもを産んだってお向かいのおばさんが言っていたのも、ほんとうなんでしょう?」
「うん」カガリがこっくりとうなずきながら応えた。そして、小首を傾げながら言った。「どういうことなのかしら」
「わかんない」先ほど浮かんだ考えが喉元まで出かかるのを抑えながら、スグリは首を横に振った。「次の春まで待って、おばあさまにきいてみるしかないと思う」

——あんたの左腕の文身が出来上がったら、話してやるよ。あんたの父親のこと——

 ミクリと交わしたあの約束のことを想い起して、スグリはなんとなく不安になった。すると急にきょうだいたちの寝息や体温が恋しくなった。家の方へと踵を返しながら義姉に向かって言った。 
「もう、家へ入ろう。このままじゃ、二人とも風邪を引いてしまいそう」
 スグリが促すと、カガリは素直に同意した。ところが、急に何やら思い直したらしく、家の中へ入ろうとした義妹を引きとめて、カガリはそっと囁いた。「ミクリ様の言っていたことがほんとうだったとして。…あんたは、それでいいの?」
「“それで”って?」相手の意図が飲み込めず、スグリはきき返した。するとカガリがじれったそうに舌打ちをして応えた。「一生、結婚もしないで、子どもも産まないで、あの薄気味悪い沼地でひとりきりで過ごすので、いいの?」
 スグリはとっさに返事ができなかった。幼い頃から、それを自分の定められた生き方として受け入れてきたスグリは、その問いかけに頭から冷水を浴びせかけられたような衝撃を覚えた。喉の奥が貼りついたようになったが、苦心しながら、なんとか返事をした。
「だって……。決まってることだもの。いいも悪いもないでしょう」
 スグリの返答は、彼女にとって満足のいくものではなかったようだった。カガリは小さくため息を吐いた後、更に何か言おうとしたが、すぐに思い直したように言った。
「あんたがそれで納得してるなら、あたしがどうこう口出しする筋合いはないわ」
 そしてスグリの方へ顔を近づけると、ためらいがちに囁いた。
「……あたしね、ずっと、不安だったの」
「何が?」きょとんとしてスグリがきき返すと、カガリは少し緊張した声音で言った。「あんたにムビヤンを取られるんじゃないかって」
 言葉を失ってスグリが見つめ返すと、彼女は絞り出すような声で続けた。
「あいつが、外で出くわす度にこっちを見ているの、随分前から気付いていた。もちろん、サマニは眼中にないこともわかっていた。でも、もしかしたら、あいつはあたしじゃなくて、あんたを見ているんじゃないかって」
 唖然としながら、スグリは辛うじて言った。「そんなこと、考えてたの?」
 カガリの返事はなかった。代わりに、彼女が気まずそうに顔を逸らすのが気配でわかった。そのときスグリの脳裏を過ぎったのは、シュマに背の高さをからかわれ、顔を真っ赤にして俯くカガリの姿だった。内心呆れながら、スグリは言った。
「ムビヤンはあたしのことなんて見てなかったよ。あいつはいつも、あんたのことしか見てなかった」
 それは本当のことだった。ときたま、彼とスグリと目が合うことはあったけれど、そういうとき、彼はそ知らぬ素振りで平然と目をそらすだけだった。けれども、カガリと目が合った後、彼はいつもうつむいて、わずかに顔を綻ばせていたのだ。今年の春先、墨入れのときにそのことをミクリに話してみると、ミクリはふんと鼻で笑って、その意味をスグリに教えてくれた。そのときのミクリの言葉を、スグリはそっくりそのまま真似て、うつむく義姉に投げかけた。
「“ムビヤンは、カガリのことが好きなんだよ。きっと”」
 しばしの沈黙の後、かすれた声でカガリが言った。「ほんとに?ほんとに、そう思う?」
「うん」スグリがこっくりと頷くと、カガリが小さく笑いを漏らした。ササの葉が風にそよいで立てる音のような、柔らかく、微かな声だった。
 その声を聞いた途端、スグリはなんとなくふわふわとした気持ちになった。しかしそれと同時に、何か硬くて冷たい、小さな塊のようなものが沈みこみ、胸の奥底に着地する音をきいたような気がした。

(続)

表紙画像 (C)柴桜様 『いろがらあそび5』作品No.25
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=63654068

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