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幻想生物2.水妖/水辺の証人(中)

――ねえ、本当にそれでいいの?――
 幼い頃に起こったある事件から、男性恐怖症になってしまった少女・加与子。
 学校に飾られたいわくつきの絵に魅入られた瞬間から、堅く閉ざされていた心の扉が開き始める……

 架空の女子校を舞台にした,オムニバス形式の短編連作第二弾です.
 1編1万~2万文字程度を目安に区切っていく予定.
 よろしければお付き合いを.

◆本編

 気がつくと、加与子は白いベッドの中で灰色の天井を見上げていた。まだぼんやりとした頭で辺りを見回すと、そこは保健室だった。
「沼沢さん、目が覚めた?」
 カーテンの開く音がしたと思うと、白衣を着た年配の女性が現れた。起き上り、ぼさぼさの頭を掻きなでながら、しどろもどろに加与子は言った。
「あ、はい。……あの、私、どうしてここに?」
「軽い貧血。授業直前に、突然第一音楽室で倒れたって、担ぎこまれてきたのよ」
 意識を失う直前の天野順子とのやりとりを想い出して、顔が熱くなった。彼女に、おかしな子だと思われたかもしれない。
「……すみません」
「もう五限目も終わりましたよ。今日は無理せず帰りなさい。親御さんにお迎えをお願いしましょうか」
「いえ、大丈夫です。一人で帰れます」
 加与子がそう言った直後に、保健室の扉が開いた。
「失礼します。二年B組の柳川です。沼沢さんの鞄を持って来ました」

* * *

 小夜に送ってもらうという条件の下、加与子は帰宅を許された。互いに無言のまま、二人は加与子の家へと向かって雨の中をひた歩いた。
「大丈夫?」
 突然小夜が口を開く。彼女の顔を見ることもできないまま、加与子は応えた。
「うん、平気。ごめんね。鞄、ありがとう」
 隣を歩いていた小夜が、気遣わしげに加与子の顔を覗きこんだ。あの独特の香りが鼻先にまとわりつく。
「何かあったの?」
「別に……」
 再び沈黙が下りる。何か話をしよう、と頭を捻ってみたけれど、今は心も身体もあまりに重くて、何も言う気になれなかった。昨日の水溜りも、今日起こった出来事も、全部自分の見た夢か幻覚なのだ、と加与子は自分に言い聞かせた。
 それなのに、気分は一向に晴れない。何かが自分の中に引っ掛かって、開けて欲しくないどこかをどんどんと叩かれている、そんな感覚がいつまでもまとわりついていた。自分がいったい何に、こんなにも苦しんでいるのか、加与子自身分からなかった。
 気がつくと、いつの間にか、あの公園の近くまで来ていた。もうとうに工事は終わり、この道を通る必要はないというのに。絵の少女のことを考えていたせいかもしれない。
 思わず立ち止ると、背後で小夜の訝しげな声が上がった。
「加与。いつもの道と違うみたいだけど?」
「ごめん。道、間違えちゃった。戻ろう」
 そう言って加与子は踵を返したが、その脚は震えていた。つい公園の方を盗み見る。すると、公園の奥、昨日少女の後ろ姿を見かけた一角に、人影が見えた。長い黒髪に、白いワンピース姿の少女だった。あの絵の少女とよく似ていた。こちらをじっと見つめている。
 少女の背後に延びる小路の先に、あの池があることを加与子は知っていた。それを見とめた瞬間肌が粟立つのを感じて、駆けだした。
「加与?」
 わけがわからない、といった様子ながら、小夜も後に続いて駆けだした。

 * * *

 公園がすっかり見えなくなった辺りまで来て、ようやく加与子は立ち止まった。
「どうしたの、いったい?」
 小夜も立ち止り、息を弾ませながら言った。雨の中を走ったせいで、靴の中も靴下もどろどろに汚れてしまっていた。しばらく黙って息を整えた後、加与子は言った。
「ごめん。あたし、あの公園苦手で」
「あそこ?まあ、確かに、なんとなく嫌な感じはするけど……」
「それだけじゃないの」
 そう言ってから、加与子は小夜の方に向き直った。
「さっき、あの公園に女の子がいなかった?」
 小夜がしばし黙り込む。その間、探るような目で、加与子をじっと見つめていた。やがておもむろに口を開いたその瞬間、二人の背後から声が聞こえた。
「かよちゃん?どうしたの、こんなところで」
 声の主は恵一だった。

 * * *

「恵ちゃん」
 思いがけない人物の登場に動揺しながら加与子は声をあげた。小夜が驚きに目を見張り、恵一を凝視する。小夜の視線には一向気づかぬ様子で恵一は言った。
「どうしたの、今帰り?……あれ、友だちも一緒?」
「うん」
 呆気にとられたまま加与子は頷いた。そこで我に返り、小夜に言った。
「小夜、この人、従兄の沼沢恵一さん。……恵ちゃん、この子、あたしの友だち。柳川小夜っていうの」
 なんともぎこちない様子で、紹介された二人は互いに挨拶を交わした。恵一を見る小夜の眼差しがやけに鋭く、探るように見えたのは、加与子の気のせいだったのかもしれない。
 いつも恵一のことを小夜にあれこれ話していることを想い起こし、顔から火の出る心地がした加与子であった。
「へえ。さよちゃん、この辺りに住んでるの?」
 小夜はかむりを振った。
「いいえ。あたしの家は笹沢です。今日は、この子が学校で倒れたので、家まで送ることになったんです」
「倒れたの?」
 詰め寄る恵一に、加与子はしどろもどろになりながら言った。
「ちょっとした、貧血だって。大したことじゃないから」
「そんなこと言って。子どもの頃から、しょっちゅう貧血で保健室に運ばれてたもんなぁ。相変わらずだなぁ」
 そう言って恵一はため息を吐いた。小夜の方に向き直ると言った。
「さよちゃん、ありがとう。後は俺がこの子を送っていくから、君は帰って」
「恵ちゃん、でも……」
 せっかくここまで送ってくれたんだから、家でお茶くらい……。言いかけた加与子を遮って恵一は言った。
「いいから。笹沢って、ここから電車で何駅かいったところだよね?帰りが遅くなると親御さんも心配するだろうし」
 しばらく黙って、小夜は加与子と恵一とを見比べていた。しかしやがて、そっけなく言った。
「わかりました。加与のこと、よろしくお願いします」
 そして、ぺこりと頭を下げると、そのまま背を向けて歩き去ってしまった。やがてその姿も足音も、雨の向こうへかき消えた。
「さ、行こう」
 そう言って、恵一は加与子の腕を掴む。掴まれたところから恵一の体温や皮膚の感触が伝わってきた。背中の辺りがぞわぞわして、身体の力が抜けるような心地がして、加与子は恵一の手を振りほどきたくなった。たちまち、あの息苦しさが加与子を襲う。
 けれども、加与子には逃げ出すことができなかった。そんなことをすれば彼はきっと怒り出すだろうことを彼女は知っていた。
「あの子と仲いいの?」
 突然の質問に内心首を傾げつつ、加与子は応えた。
「小夜のこと?中学に入ってすぐ知りあって、それからずっと。多分、今の学校で一番仲いいと思う」
「ふうん」
 そう言ったきり恵一は黙り込んだ。なんとなく不安を覚えて加与子は言った。
「小夜が、どうかしたの」
 しばらく返事はなかった。やがておもむろに恵一が口を開いた。
「いや、別に大したことじゃないんだけど。ああいう子とかよちゃんが仲いいなんて意外だなって思って」
「どういう意味?」
 思わず鋭い口調で問い返してしまったことに自分自身戸惑いながら、加与子は恵一の後姿をじっと見つめた。
「なんていうか、あんまり女の子っぽくないよね、あの子。美人だけどきつい感じ。ツンツンしてるっていうか……。髪型とか服装とか変えたら男の子って言っても通りそう。愛想は悪いし、物言いもつっけんどんだし。あの感じだと、きっと勉強もスポーツもできるんじゃない?“男になんか負けない”って目が言ってたよ。あれじゃもてないだろうなあ」
 突然髪の毛が逆立つような感覚を覚えた加与子だった。言葉にならない何かが喉元までせり上がってきて、吐き気すら覚えた。
 恵一が口にした友人の印象は、常日頃加与子が彼女に対して抱き、そして本人にも冗談交じりに言っているものと同じだった。それなのに、それが恵一の口から発せられたというだけで、なぜこんなにも不愉快な言葉に聞えるのだろう。わけがわからぬまま唇を噛み締め、恵一の背中から目を逸らした。
 ふと、恵一の手元に目を落とした加与子は、その右手の薬指に指環がはめられているのに気が付いた。小さな石が埋め込まれた、シンプルなシルバーの指環だ。
 昔から、恵一はアクセサリーの類には興味を示さないタイプだった。なんとなく気にかかり加与子は言った。
「恵ちゃん、指環してるんだ。珍しいね」
「ああ、これ?」
 自分の右手にちらりと目をやってから、恵一が応える。心なしか、その声や表情はいくらか強張っているように感じられた。
「俺はこういうの苦手なんだけどさ。彼女がどうしてもペアリング欲しいって言うもんだから……」
 頭の中が一瞬真っ白になった加与子だった。何の気なしに踏み出した一歩が空を踏み、そのまま奈落の底へでも落ちていくような感覚に襲われた。しばらくして、やっとの思いで口を開く。
「彼女、いたんだ。……そうだよね。大学四年生だもんね。当たり前だよね」
 束の間の沈黙の後、恵一が言った。
「バイト先の後輩なんだけどさ。気は強くて、がさつで、料理も裁縫もできないし……ちょうど、かよちゃんとは正反対のタイプかな。自分でもどこがいいんだろうってときどき思うよ」
「そっか。……おめでとう、結婚式には絶対行くね」
 加与子が言うと、恵一が前を向いたまま照れくさそうに応えた。
「まだわかんないよ」
 恵一が自分に背中を向けていてよかった、と加与子は思った。今、自分がどんな顔をしているのか、加与子にも分からなかったけれど、きっと醜い顔をしているだろうことは間違いなかった。
 加与子は戸惑っていた。恵一に恋人がいると知った瞬間胸に湧いた感情は、会ったこともない恋人に対する嫉妬でも、恵一が自分を選ばなかったことに対する失望でもなく、幸福そうな恵一に対する、火に焙られたナイフのような、強烈で鋭い、けれども何と呼べばよいのかわからないどす黒い感情だった。
 ふと、加与子は視界にクレマチスの花を捉えた。黒い鉄柵に絡みつき、雨に濡れて咲き匂う暗紫色の大きな花が、そのときの彼女の目には、やけに艶めかしく、毒々しいものに映った。
 柵の向こう側には白いワンピース姿の少女が立っていて、こちらをじっと見つめていた。あの絵の少女だろうか、と考えた後、どうせ目の錯覚か思い違いだ、と自分に言い聞かせ、加与子はすぐさま顔を背けた。
 息苦しくて息苦しくて、今にも気を失ってしまいそうだった。

* * *

 家に帰りつき恵一を見送った加与子は、玄関のドアを開けた瞬間自分の目を疑った。土間は靴底が沈むほど水浸しになっていて、廊下にも点々と小さな水溜りができている。数日前、恵一が挨拶にやってきたときのことを想い出した。
 家の中は暗くしんとしていて、人の気配はなかった。両親が帰って来た様子もない。
 空き巣か何かだろうか、そんなことを考えて加与子はぞっとした。恵一を玄関先で閉め出してしまったことを悔やむ。
 加与子はそっと鞄から携帯電話を取り出し、握りしめた。そして、できるだけ足音を立てないように気をつけながら水溜りを辿った。あのときと同じように、水溜りは居間まで続いている。
 一瞬、電気を点けようか、と迷ったが、加与子は思い止まった。そのままそっと居間のドアを開け中の様子を伺う。廊下から続く水溜りは、ソファの辺りで途切れていた。
 居間にも人の気配はなかった。加与子はほっと安堵のため息を吐いた。
 そのとき、ソファの背もたれの辺りに白いものが見えた。目を凝らして見た加与子は、それが小さな子どもの手だと気付き短い悲鳴を上げた。
 ソファの向こうから黒い頭が覗き、円らな黒い瞳が加与子を捉える。あの絵の少女だ、と直感した。足がすくんで動くこともできずに茫然と立ち尽くしていた。
 次の瞬間、背後から声がした。
「加与子?何してるの。こんなところで電気も点けずに」
 母の声だった。その直後、居間の電気が点いた。眩しさに思わず目を瞬いた加与子であった。途端にざあざあとけたたましい雨音が耳を打つ。
 目が慣れてきた頃辺りを見回してみたが、少女の姿も、廊下の水溜りも、何もかも跡形もなく消え去っていた。

 * * *

「ねえ、加与。加与ってば。……ちょっと、聞いてる?」
 小夜の声で加与子は我に返った。
「あ……ごめん。なに?」
 加与子は慌てて顔を上げ、返事をした。いつの間にか授業もホームルームも終わってしまっていた。周りの生徒たちは皆いそいそと帰り支度を済ませ、教室を出て行こうとしている。教室の中は、解放感に満ちた少女たちのはしゃぎ声で湧きかえっていた。
「もう帰ろう。……どうしたの、今日はずっと上の空だったじゃない」
「なんでもないよ」
 ほんとうは今朝からずっと、あの少女のことや恵一のことを考えていた。首を振る加与子を、小夜はじっと見つめる。
 沈黙が二人の間に下りた。誰かが窓を開けたらしく、外で降りしきる雨の音と、冷ややかな空気とが教室の中へと流れこんだ。
 ふわりと空気が揺らぐ。その拍子に、友人がいつも身にまとう不思議な香りが加与子の鼻をくすぐった。加与子は眩暈に似た感覚を覚えながら、深く息を吸った。その匂いを嗅ぐ度、加与子は頭の奥深く、ずっと眠っている部分が揺さぶり起こされるような奇妙な感覚に襲われるのだった。
――ああいう子とかよ、ちゃんが仲いいなんて意外だな――
 不意に従兄の言葉が脳裏を過る。加与子はそのとき、初めて出合った相手を見るような気分で友人を見つめた。
 涼しげな切れ長の目に意志の強そうな眉、そして膨らみの薄い頬と尖った顎を持つこの友人の、ほとんど常に真一文字に結ばれた口元が少女らしい微笑みにほころぶことはめったにない。その唇にはどちらかといえば、どこか皮肉めいた笑みが浮かぶことが多く、実際そちらの方が似合うように思えた。
 性格は、どちらかと言えば生真面目で几帳面な方ではあったけれど、人から何かを強要されたり義務付けられたりすることを嫌う。無意味な自己主張をすることはないけれど、基本的に即決即断、意思表示ははっきりとするタイプだった。
 女の子同士にありがちなべたべたとした付き合いにはあまり興味を示さず、気の合わない人間と無理にグループやペアを作るくらいなら、一人でいることを選ぶだろう。動物に喩えるなら、人に慣れはしても懐くことは決してない、気ままな雄の野良猫。それが、この友人に加与子が抱いている印象だった。
 誰に対しても従順であろうとし、良い印象を与えるために自分を抑えることの多い自分と彼女とが、なぜ親しくしているのだろう。そんなことを考えていると、不意に小夜が口を開く。彼女の口の端が意地悪げにつり上がるのを見て、ふと、チェシャ猫みたいだな、と加与子は思った。この少女にの目には、この世のすべてのことがばかばかしい茶番劇として写っているのかもしれない、と思わせるような笑い方だった。
「嘘。ほんとうは、何かあったんじゃない。たとえば、昨日、恵一さんと」
 思わず顔が赤くなるのを感じながら、加与子は首を振った。
「まさか」
「ほんとに?」
 畳みかける小夜から顔を逸らして黙り込んだ加与子であった。しかし、やがて思い直し、小さな声で言った。
「恵ちゃん、彼女いるんだって。昨日、指環嵌めてて、気になってきいてみたら、ペアリングだって」
 奇妙にくぐもった震え声は、まるで自分の声ではないように感じられた。小夜が目を見開き息を呑んだのはほんの束の間だった。すぐさまいつも通りのポーカーフェイスに戻ると、視線を落とし、そっけなく言った。
「そっか……」
「うん」
 俯く加与子の顔を覗きこんで、小夜が言った。
「加与、ひとつきいていい?」
「なあに」
「あんた、恵一さんのこと、好き?」
 とっさに返事ができず、加与子は友人の顔を見つめ返した。彼女がいると知ったとき、自分が抱いた得体の知れない感情を想い起す。
「どうしてそんなこときくの?」
 喉の奥が締め付けられるような感覚を覚えながら、苛立ちまじりに加与子は尋ね返した。小夜がついと、窓の外へと視線を移す。
「昨日、あんたと恵一さんの様子を見ていて、なんとなく引っ掛かったんだよね。なんだか、好きっていうよりも……。あんた、恵一さんを怖がっているように見えた」
 背中の辺りに冷たい水を浴びせかけられたような気がした。急に心臓が音を立て始め、握りしめた手のひらには汗が滲み、身体からは力が抜けていく。何かが頭の片隅にちらついて、むずがゆいような、もどかしいような、何とも言い様のない気持ちが胸を締め付けた。また、あの息苦しさが喉元まで突き上げてくる。
「それに、あの人……」
「柳川さん」
 小夜が言葉を続けようとしたとき、別の声がそれを遮った。見ると、同じクラスの、小夜と同じ委員会に所属している生徒だった。その生徒は二人の傍へ駆け寄ると、今日の放課後、緊急の委員会があることを小夜に告げた。

* * *

 一人で帰ることになった加与子は、委員会へ向かう小夜を見送ってから仕度を始めた。そのとき、第一音楽室に忘れ物をしたことに気がついた。明日の朝、小テストがある科目の教科書だった。
 なんとなく嫌な予感があったが、やむを得ず加与子は帰りがけに第一音楽室へと立ち寄った。鍵は開いていたが、不思議なことに誰もいなかった。いつもならこの時間には、吹奏楽部員が夜店の金魚みたいにひしめいているのに。
 戸惑いつつ、加与子はいつも自分が使っている机の中を探った。出入り口は開けたままにして、あの絵も見ないようにした。
 教科書はすぐに見つかった。すぐさま教室を出て行こうとした加与子だったが、突然あの絵が気になり出す。足が床に貼りついたようになってどうしようもなくなり、とうとう加与子は振り向いた。
 絵を見た瞬間、加与子は凍りついた。
 その中央に広がるのは、澄みきった湖。その縁には、膝まで水に浸かった少女が立っているはずだった。
 ところが、絵の中には空っぽの湖が描かれているばかり。少女の姿は消えていた。今日の授業中に見たとき、確かに絵の中にいたはずなのに。
 加与子は全身に鳥肌が立つのを感じた。次の瞬間、背後でもの音がした。振り返ると、教室の出入り口に少女が立っていた。長い黒髪に、白いワンピース姿の少女だ。
 頭からつま先までしとどに濡れそぼった少女は、暗い瞳でじっと加与子を見つめていた。不意に少女の口が開かれる。耳元に、囁きかけるような、幼い声が届いた。
――逃げないで。想い出してよ――
 声も出せずに加与子が立ち尽くしていると、少女は加与子を見据えたまま言った。
――ほんとうに、そのままでいいの?――
 踵を返して廊下の向こうへ走り去ってしまった。パニックが鎮まった後、加与子は少女の後を追って廊下へと飛び出した。廊下を隅から隅まで見回してみたが、少女の姿は消えていた。
 音楽室へ戻ってあの絵がどうなっているか確かめる勇気などなかった。加与子は昇降口を目指して一目散に駆け出した。

 * * *

「加与子、まだなの?」
 階下から聞えてきた母の声に、加与子は慌てて応えた。
「ごめんなさい、もうちょっと」
 早くなさい、と急かす母に短い返事をした後、ため息を吐いて鏡に向き直る。久しぶりの母との外出だからと髪型に凝り過ぎてしまったことを後悔した加与子であった。慣れない編み込みのせいで、手はすっかり疲れきっていた。
 今日は日曜日、これから母と買い物へ行き、デパートで昼食を食べるのだ。天気はあいにくの雨模様であったが、加与子の心は弾んでいた。
 音楽室で絵の中から少女が消えたのを見てから、もう一週間近く経っていた。一度だけ、授業であの音楽室へ行ったが、あの絵を確かめることはできなかった。誰かが悪戯をして絵を汚してしまい、当分飾れなくなってしまったのだという。
 それ以降、あの少女や水溜りの幻覚を見ることはなかった。あれは白昼夢か何かだったのではないか、と思う反面、それにしてはあまりにリアルで、到底夢や錯覚の類とは思えない。もしかしたら自分は病院で脳の検査でも受けた方がいいのかもしれない、などとうっすら考えることもあった。
不意に、鼻先に甘い匂いがまとわりつくのを加与子は感じた。とっさに部屋の中を見回したが、匂いの元らしいものは見つからなかった。
「加与子、いつまでもたもたしているの。もう、置いて行くわよ」
 出入り口の方へ顔を向けると、眉を吊り上げた母の顔があった。次の瞬間、母が声を上げた。
「あら、あんたが編み込みなんて珍しい」
 言われて、この髪型がずいぶんと久しぶりだったことに加与子は気がついた。編み込みは恵一が嫌ったので、あまりできなかったのだ。
「なんとなくやりたくなったの。いいでしょ、たまには」
 そう答えながら見慣れない髪型の自分を鏡で見直すと、なんとなくウキウキとした気分になった。
「もう大丈夫。行こう」

* * *

 昼食の後、加与子たちはデパートの最上階にある催事場へ立ち寄った。母の友人が通っている生け花教室の展覧会が開かれていて、招待券を貰っていたのだ。
 奥さま方の趣味の展示会となれば、きっと閑散としたものだろう、という加与子の予想に反して展覧会は盛況だった。会場へ入ってしばらくすると母とはぐれてしまった。仕方なく、人の流れに乗って展示されている作品を眺めつつ歩いた。
 生け花にはあまり興味のない加与子であったが、あまり退屈することはなかった。聞き慣れない新鋭の流派ということもあってか、作品はユニークなものが多い。
 かすみ草やトルコギキョウ、紫陽花や睡蓮、ひまわりにカーネーション。見たこともない南国の花や果実を使った作品もあった。花器も多彩で、オーソドックスな花瓶や一輪ざしばかりでなく、ティーカップや菓子器なども使われていた。会場のあちこちで、作品を撮影するカメラのシャッター音が響く。
 時期がら多くの作品で様々な品種の百合が使われており、会場内には百合の香りが漂っていた。その香りが、今朝部屋で嗅いだ甘い匂いとよく似ている、ということに加与子はやがて気がついた。
 どれもこれも美しく工夫の凝らされた作品ばかりだったが、中でも一際加与子の目を捉えたものがあった。
 中央に大輪の白百合が一輪、緑の葉がそれを縁取るように挿し添えられ、グミの木がひと枝、百合の花を支え守るように背後から伸び、その頭上に紅色に熟した実を垂らしている。
 花器は深い藍色をしたガラスの花瓶だ。花器の底から胴体あたりまでは真っ直ぐな円筒形で、時計回りに捻じれたような線がついている。胴体辺りからうねりに沿って色が薄くなっていき、縁はほとんど透明だ。縁の辺りだけが波打って広がり、藍色の代わりに白い斑点が散りばめられていた。
 その花器は、風に凪ぐ、澄んだ湖を加与子に思わせた。その花器からすっと伸びる百合の花は、さしずめ水辺に佇む貴婦人といったところ。ともすれば清楚過ぎてしまいそうなその立ち姿に、艶っぽさを与えるのは、頭上に輝く赤い髪飾りだ。
 色とりどりの花々がその艶やかさを競うようにしてひしめく中で、会場の奥の一隅にひっそりと飾られたその作品は、どこか異質だった。いったい誰の作品だろう、と作者のネームプレートに目を移そうとした瞬間だった。
「加与子、やっと見つけた。こんなところにいたの」
 母の声だった。振り向くと、母と、見覚えのある女性とが立っていた。女性は加与子をじっと見つめた後、にっこり笑った。鮮やかな赤のルージュを引いた唇が、きれいに吊り上がるのを加与子は見た。
「カヨちゃん、久しぶり。大きくなったわねえ」
「美千代おばさん、お久しぶりです。今日はお招き頂いて、ありがとうございます」
 どぎまぎしながら加与子は言った。この女性は母の幼馴染で、この展覧会の招待券をくれた人だ。昔から美しい人で、加与子にとって憧れの女性だった。
「こちらこそ、貴重なお休みの日に時間を頂いて」
 機嫌良くそう応えた後、美千代おばさんは続けた。
「カヨちゃん、その作品気に入ったの?」
「はい」
 頷くと、母が不服げに呟いた。
「そんな地味なのどこがいいの」
 母の言葉にむっとした加与子であったが、とっさに何も言い返すことができなかった。加与子を頭の天辺から爪先まで眺めまわしながら美千代おばさんが言った。
「最後に会ったのって確か五六年前だったっけ。お母さんから色々聞いていたけど、女の子っぽくなったわね、びっくりした」
「ありがとうございます」
 赤くなって応えると、美千代おばさんはくすくす笑った。
「なんだか、昔音楽の授業で歌った歌にでてくる花嫁さんみたい。そういえばカヨちゃんも、紅陽生だったわね。『六月の花嫁』だっけ、今も残っているのかしら。いかにも清楚な女の子って感じ。カヨちゃん、もてるでしょう」
「そんなこと、ないです」
 思わず恵一の顔が脳裏を過ぎった加与子だった。あの歌の花嫁は、自分自身憧れていた女性像だったはずなのに、今、美千代おばさんの言葉を嬉しいとは思わなかった。
――気は強くて、がさつで、料理も裁縫もできなくて……ちょうど、加与ちゃんとは正反対のタイプかな――
 果たして、ほんとうに自分が憧れていたものだったのだろうか。そう思った瞬間、何故か小夜の顔が浮かんだ。
「でしょう?昔はほんとうに、手のつけられないお転婆で苦労させられたけどね。今ではすっかり、どこへ出しても恥ずかしくない“お嬢さん”って感じ」
 母の言葉に加与子はぎょっとした。「お転婆?」
「覚えてないの?昔のあなたって、今とは別人だったんだから。しょっちゅう無茶して服を汚したり怪我して帰ってきたり。恵一君にもよく逆らったり、我がまま放題で。小学校の三年生くらいからだったかな、急に大人しくなったのよ」
 母が呆れた様子で応える。
「覚えてない」
 胸騒ぎを覚えながら、加与子はかむりを振った。小学校の三年生と言えば、あの事件のあった頃だ。
「まあ、いいけど。その代わり、大人しくなりすぎちゃったのよね。恵一君以外、男の子とは口をきかなくなっちゃって。昔は恵一くんのこと、なんだか怖い、気持ち悪いって、あんなに毛嫌いしていたのに。女の子の友達も、みんなあんたの変化にびっくりしてあまり遊んでくれなくなってしまって」
「だってそれは、あの事件があったから……」
 そう言った加与子に、母は怪訝な顔を見せた。
「事件?……何のこと?」
 その返答に加与子は耳を疑った。その意味がとっさに理解できず、混乱したまま言い返した。
「お母さん、忘れたの?水園の、あの大きな公園で、私……」
「何の話?」
きょとんとした様子で自分を見つめる母を、加与子は信じられない気持で見つめ返す。
ふと視線を感じて振り向くと、人ごみの向こうにあの少女がいた。ゆっくりと、少女の唇が動く。
――想い出して――
 不意に、頭ががんがんと痛んで、胸のどこか奥がきりきりと締め付けられるような感覚に襲われた。むせかえるような百合の匂いに、加与子は眩暈を覚えた。
 その刹那、ある記憶が目の前に甦った。
 雨の降りしきる池のほとり、息が詰まるほど立ち込める草木の匂い、裸足の足に伝わる芝草と土の湿った感触、何かに怯えて逃げ惑う自分。やがて背後から大きな手が伸びてきて、髪と肩とを掴まれた途端世界はひっくり返った。
 視界には、突如黒い木々に縁取られた灰色の空が広がり、顔には冷たい滴が容赦なく打ち付ける。それを遮るように、黒い影がぬっと現れた。影は加与子を押さえつけたままくぐもった声で言った。
――誰にも言うなよ――
 自分の中から何かが滑り落ち、足元で砕け散るのを加与子は感じた。

(続)

カバー画像(C)柴桜さま 『いろがらあそび6』作品No.15
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=65680493

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