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星追いのワタリガラス3.時じくのかぐの木の実

 三日間寝込んだが熱は下がらず、とうとう四日目に、スグリはミクリの元へと運ばれた。
 布団でぐるぐる巻きにされたスグリはマシケに背負われて、湿原の道を揺られて行った。朦朧とした意識の中で、視界のはしに粉雪がちらついていたのを覚えている。
 空の色は、どんよりとして暗い灰色だ。辺り一面青白い光に包まれて、なんだかとてももの寂しい、悲しくなるほどの清浄さに充ちていた。
 数日前には鮮やかな赤色に染まっていた湿原は、既に枯れた褐色の草が点々と顔を覗かせている。近くに見えるハンノキの枝先にかろうじて残る茶色の葉が、カサカサと音を立てながら風に揺れているのをスグリは見た。
 ミクリの庵に着くと、スグリはすぐさま寝床に横たえられた。ミクリにひととおり容態を確かめられた後は、お湯で煎じた、何やら苦い薬草の汁と、鳥の卵がった粟や稗の粥とを飲ませられ、分厚い布団を被せられた。
 頭がガンガンと叩かれているように痛み、スグリは目を閉じてじっとしていた。しかし、飲まされた薬と粥のお蔭か、しばらくするといくらか楽になってきた。
 少し離れたところから、ミクリとマシケとがひそひそと囁き交わす声が聞こえた。二人はどうやら、スグリがすっかり眠ってしまったと思い込んでいるらしかった。
「叔母上、この子は助かるだろうか」
 いつになく動揺を声に露わにしたマシケの問いに、ミクリが落ち着いた声で応えた。
「案ずることはない。少し、熱が長引いているだけだよ。足りない栄養を充分与えて、しっかり身体を休ませれば、すぐに治る」
「しかし、この子の母親も、熱で死んだ」
 なおも食い下がるマシケに、心底呆れたようなため息をミクリが吐くのが聞こえた。
「あのときとは、事情が違うだろう。少しは冷静におなり。まったく、大の男が、それなりに大きくなった子どもの熱ひとつで、そんな顔をするものじゃないよ 」
 しばしの沈黙の後、ミクリが言った。
「お前さん、案じているのは自分の養い子のことか?それとも、とうに死んだ自分の従妹のことか?」
 ミクリの問いに対する、マシケの応えは聞こえてこなかった。代わりに、スグリの容態が変わり次第、セツナを里へ寄越すよう告げるマシケの声と、当座のスグリの世話に対する謝礼をやりとりする二人の声が聞こえた。
 そのうちに、二人が庵の出口へ移動する物音がした。別れ際、ミクリがマシケに言った。
「あんたもそろそろ、踏ん切りをつけた方がいい。あの子は死んだ。誰のせいでもない。自ら望んだことで、その死を招き寄せたんだ」
 これに対しても、マシケの返答はなかった。ただ一言、娘を頼む、とだけ言ってマシケが出ていく物音を、スグリは聞いた。
 マシケがいなくなると、大きくため息を吐いた後、ミクリが言った。
「さて、あんたの養い親は去った。狸寝入りなんてして、人の話を盗み聞きしている暇があったら、病人はとっととお眠り」
 この言葉にスグリは口から心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。しばらく躊躇った後、恐る恐る目を開け、ミクリの方に顔を向けて言い返した。
「聞くつもりで起きていたわけではありません」
 スグリの顔が赤くなっていたのは、熱のためばかりではなかった。
「そうかい」
 ミクリはいかにも興味がなさそうにそう応えると、囲炉裏端に座して縫い物を始めた。
 囲炉裏の中で薪のはぜる音がはっきりと聞き取れるほどの沈黙が、部屋の中を支配した。どこか遠くで、シジュカラがもの哀しげにさえずるのがきこえてきた。
 スグリは頭まですっぽりと布団を被り、目を閉じて眠ろうとした。ただでさえ苦手なミクリとこれから数日間二人きりだと思うと、気分はどうしようもなく沈み、お腹がきゅっと縮まるような心地がした。
 しかし、身体やまぶたはこの上もなく重いのに、目と頭とは奇妙に冴えてしまっていた。先ほどのミクリとマシケのやりとりが、スグリの思考の淵に石を投じてしまったのだ。

 しばらくの間、スグリは目を閉 じて眠気がやってくるのを待ち続けていたが、やがて意を決して口を開いた。腹に力が入らず、自分でも驚くほど頼りなく弱々しい声しか出せなかった。
「ミクリさま」
「なんだい」
 いつものむっつりとした調子でミクリが応えた。スグリは熱でうまく回らなくなった頭と舌とをなんとか制しながら、言葉を繋いだ。
「マツリ母さまは、どうして亡くなったの」
 今まで、誰にも訊けずにいたことだった。里の中はもとより、ミクリの庵においてもスグリの母のことは、まるでその名前を口にすることそのものが禁忌であるかのような雰囲気があった。
 そういった空気に触れるたび、スグリはなんとなく、母ばかりではなく、自分もないがしろにされているような気分になるのだった。
 熱を出している今なら、さすがのミクリも少しはスグリに同情し、話してくれるのではないかとふんだ。
 ミクリが黙りこみ、スグリの方へ向けていた榛色と灰色の目を伏せた。その視線は目の前の囲炉裏の焔に向けられていたけれど、スグリには、もっとどこか遠くを見つめているように見えた。
 しばらく黙りこんだ後、ふいに目を閉じて、ミクリが言った。彼女の眉間に刻まれた皺が、いっそう深くなった。
「そんなことを知って、どうするつもりだ。あんたの母親が帰ってくるわけでもあるまい」
 この返答に少し怯んだが、スグリは言い返した。
「ただ、知りたいだけ、というのは理由になりませんか。私を産んだ人のことだもの」
 再びミクリは黙りこんだ。スグリの顔を見、すぐさま囲炉裏の焔に目を落としたミクリの表情は、これまでにスグリがみたことのないものだった。スグリはぎょっとして、ミクリの顔に見入った。その表情を的確に表現する言葉を、スグリは持ち合わせていなかった。
 やがて、ミクリは考え考え、言葉を絞り出すようにして話し始めた。
「子どもを一人産む、というのは、命懸けなんだよ。産んだ後もしばらくは、身体が弱って病気にかかりやすくなる。あの子があんたを産んだときも、そうだった。そして、あの子は熱病にかかって、死んでしまった。あんたを産んでから、ほんの一月も経たないうちに」
「それって」
 喉に何かがつかえてしまったような感覚に襲われて、スグリは言い淀み、ミクリの顔を見詰めた。なんだか身体中がぞわぞわとして、自分の身体ではなくなってしまったような気がした。
 里の中でも、そういったことはときおりあった。けれども、それが自分の身の上にも起こっていたのだと知り、スグリは少なからず衝撃を受けた。
「マツリ母さまは、私のせいで死んでしまったってこと?」
 するとミクリは顔を上げスグリを見やった後、静かに首を横に振った。
「仕方のないことなんだよ。あんたが気に病むべきことではない。…さあ、気が済んだだろう、さっさとお休み」
 そう言うと、ミクリは縫い物を再開した。躊躇った後、スグリは言った。
「もうひとつ、きいてもいいですか」
「まだ何かあるのかい。次から次へと、世話の焼ける子だね」
 手元に落とした視線もそのまま、縫い物の手も止めずにミクリが言った。
「私のほんとうの父さまって、いったい誰 。どこへ行ってしまったの」
 今までずっと、誰にも訊けずにいたことだった。里の中では、マツリのこと以上に、スグリの実父の話は、禁忌であるような雰囲気があった。スグリは、自分の実の父親の名前すら知らなかった。
 なんとなく、父は母とともに亡くなったのではないかと予想してはいた。しかし、今しがたのミクリの言葉がほんとうのことならば、父はいつ、どこへ消えてしまったのだろう。そんな疑問がふとスグリの中で首をもたげた。
 それと同時に、自分がずっと父のことについて、あまり考えることがなかったことを、今になって不思議に感じた。
 少し黙りこんだ後、ミクリがこともなげに言った。
「あんたの父親なら、死んだよ。あんたが産まれるずっと前、あの子があんたを身籠って間もなくのことだ」
「どうして死んでしまったの? 」
 スグリが訊ねると、ミクリはどこか遠くを見るようなまなざしでスグリの目をひたと見据えた。
「ききたいか?」
 その問いに、スグリが無言で頷いて見せると、ミクリは言った 。
「お前が知るには、まだ早い」
「なぜ?自分の父親のことなのに、知るのに早い遅いなんてことがあるのですか?」
 ミクリがあからさまに顔をしかめて見せた。
「なんと言おうが、今のあんたに教える気はないよ。焦らなくとも、時期がきたら教えるさ。あんたのその、左腕の文身が出来上がったときにはね」
「ほんとうに? 」
「私が嘘を吐いたことが、今までにあったかい?」
 少し考えてから、スグリは首を横に振った。ミクリは大切なことを黙っていることはあるが、嘘を吐くことは決してなかった。そして、一度決めたことは、どんなことがあっても覆すことがなかった。「ありません」
「だろう?とにかく、今はその熱を身体から追い出すことだけ考えるんだよ。あんたの親のことは、そのあとの話だ」
 こうなると、ミクリは決して口を割らないことをスグリは知っていた。それでも、なお食い下がろうとした。
 しかし先ほど飲まされた薬が効いてきたらしく、突然瞼が重くなった。そしてそのまま、スグリは眠りの淵へと引きずり込まれてしまった。
 眠りに落ち込んでいくその刹那、ミクリの声が聞こえた。
「夜になると、…が騒いで、外がうるさくなることがあるがね。やつらが入ってこれないよう、…で …してあるから、怖がることはないよ 」

 外から庵の壁を叩くような音が聞こえて、スグリは目を覚ました。かなり汗をかいたらしく、布団の中も着物の中もじっとりとしていた。昼間と比べると気分はすっきりしていたし、頭痛も弱まっていた。
 夜行性の獣か鳥が、うっかり壁にぶつかったのだろうか。そんなことを考えていると、再び、草葺きの壁を叩くような、トン、という音が聞こえた。その後も、壁の真ん中辺りから端の方へと移動しながら、一定の調子でその物音は続いた。
 不審に思い、スグリは布団から顔を出した。冷たい空気が火照った額や頬を撫で、薬草を燻したような,つんとした臭いが鼻を突いた。辺りは真っ暗で、閉めきった窓の隙間から差し込むかすかな月の明りだけが、うすぼんやりと庵の中を照らし出していた。
 音は相変わらず、決まった調子で続いていた。耳を澄ましてみると、壁を叩くような音のすぐ後に、何かをこすり付けるような音が続いている。

 トン、パサ…。トン、パサ…。

 音は庵の四方を取り囲む壁をぐるりと一周して、また元の位置へ戻ってくると止んだ。 うす気味悪く感じながら頭をめぐらして、スグリは音が止まった窓の辺りを見やった。
「静かに。じっとおし」
 少し離れたところから、囁くようなミクリの声が聞こえた。窓の方に目を向けたまま、スグリは言った。
「外にいるのは何? 」
 胸の内に、にわかに不安が押し寄せてきて、スグリは思わず布団をつかむ手に力を込めた。
「ホシさ。…なに、案ずることはない。こちらが大人しくさえしていれば、そのうちどこかへ行ってしまうよ。やつらはここへ入って来れないのだから」
 ミクリがそう言うか言わないかのうちに、外から窓を抉じ開けようとする音が聞こえてきた。スグリは怯えて、暗闇の中にいるミクリの方を見やった。
 今外にいる何かが、いつも里の大人たちが恐れているホシらしい。ずっと、物語の中に出てくる神や精霊と同じようなものとしかとらえられなかったものが、すぐ間近にいる。そう思うと、なんだか妙に緊張して、そわそわとした気分になった。
「窓には外から開けられないよう細工をしてある。仮に窓が開いたとしても、部屋の中はやつらが嫌う薬香の臭いで満ちているから、すぐに逃げ出してしまうさ 」
 怯えるスグリをよそに、しばらくの間その物音は続いた。しかしやがてそれも止んだ。
 すると、何かが地面に墜ちるような音と、それに続き、地面の上で何かを引きずるような物音が聞こえてきた。
 その音は遠ざかり、そのうち聞こえなくなった。その後もしばらくの間、スグリは布団の中でじっとしていた。
「今夜はもう諦めたようだね。安心おし、今夜のうちに、またやつらが来ることはないだろうから 」
 この言葉に、スグリはいったん安堵したが、すぐにまた新たな不安が湧き起こってきてミクリに訊ねた。
「あれが、ほんとうにホシなの。どうしてわかるの? 」
「 あの壁を動き回る物音、それに、窓を開けたがっただろう。あんなことをするのは、あいつらだけさ 」
「ここへは、毎晩来るの? 」
「いいや。ああやってときおり、思い出したようにやって来る。そうして周りをうろついた挙げ句、中に入れないとわかると、諦めてどこかへ行ってしまう」
「里へ来たら…」
「やつらが里へ来ることはないよ。春の儀式は、そのためのものなのだから」
 窓の方を再び見やってから、スグリは言った。様々な疑問が、頭の中で渦をなしていた。
「いったい、なんのためにここへ? ホシって、何者なの?」
「さあね。あいつらの目的や正体なぞ、誰も知らない。ただひとつはっきりしているのは、あいつらが間違いなく、我々に害をなす存在だということだけだ 」
 ミクリのこの言葉が、スグリにマシケの言葉を思い起こさせた。北の民はみな、大人たちが「ホシ」と呼ぶ存在に呑み込まれた。マシケはそう言っていた。
「とにかく、やつらが今夜のうちにここへ来ることはないだろうから、もうおやすみ」
 そういうと、ミクリが寝返りを打ってスグリに背を向けたのが物音でわかった。そして、たちまちのうちに、ゆっくりとして深い寝息が聞こえてきた。
 しばらくの間、スグリはまんじりともせず、布団の中で先ほどの出来事をあれこれと考えめぐらしていた。しかし、ミクリの言葉どおり、あの不気味な物音が再び聞こえることはなく、やがて眠りこんでしまった。
 意識が途絶えるその刹那、どこか遠くから、誰かの唄うような声が聞こえてきた気がした。

 それから数日は、風ひとつない穏やかな日が続いた。夜明け頃、半分ほど開かれた明かりとりの窓から蜜色の光が細く差し込み、暗くさむざむしい部屋の中にいくらかの暖かみを与えていた。
 始めの二日間は、スグリの熱が下がらず、ミクリがほとんどつきっきりで着替えや食事の手助けをしてくれた。しかし、三日目の朝、スグリの容態を確認したミクリは、後二三日すればすっかり良くなるだろうと告げた。そして、スグリを一人残し、薬草畑の様子を見に出掛けて行った。
 いつもと同じ薬湯と粥とを与えられた後、スグリは布団の中でじっとしたまま、ミクリが出て行く物音を聞いていた。
 熱はミクリの言う通りいくらか下がり、呼吸も楽になっていた。それでも意識はいくらか朦朧としていて、目の前の光景が夢か現か判然としないような状態が続いていた。
 今ごろ、里の家族は何をしているだろうか。
 恐らく、マシケとウリュウとは、里の男たちと狩りへ出掛けただろう。ナナエやカガリは、家の囲炉裏端で、幼い義弟妹たちの世話を焼きながら、着物や布団の材料とするための樹皮を、細く裂いて糸に縒る作業の最中だろう。
 ここ数日で急に冷え込んできたから、もしかしたら、大慌てで冬の間に必要な保存食の、最後の支度でもしているかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えていると、不意に、庵の入り口にある鳴子を誰かが鳴らすのが聞こえた。とっさに空耳か夢かとスグリは訝った。ところがもう一度、はっきりと鳴子の音が聞こえ、スグリは目を覚ました。
 里の者だろうか、とスグリは考えた。しかし、余程のことがない限り、ヨタカの庵に病人がいるとき、わざわざ訪ねて来る者はいないはずだ。それに、鳴子が鳴った後、里の者であれば述べるはずの口上も聞こえてはこなかった。
 なんとなく気味悪く感じて、スグリは布団から顔を出し、座敷の出入り口の方を見やった。ひょっとしたら、小鳥かリスの類いが、戯れに鳴子に取りついたのかもしれない。そう考えようとしたが、毎夜訪れるホシや、夜になると聞こえてくる不思議な歌声のことばかりが思い起こされて、我知らず、スグリは布団を掴む手に力を込めた。
 スグリが息を潜め、返事もせずにじっとしていると、再び鳴子が音を立てた。ミクリの不在を恨めしく思いながら、スグリは枕元の短刀を自分の手元へ引き寄せた。
 幼い頃から、最低限の護身の術は教えられている。しかし、今の自分の状態でどこまで動けるのか、スグリは危ぶんだ。
 やがて、外の出入り口の莚がめくり上げられる音が聞こえ、それに続いて土間を歩く足音がスグリの耳に届いた。短刀を胸に抱え、入り口をじっと見詰める。
 入り口に吊り下げられた莚が押し退けられ、そこから黒い人影が現れるのを見た瞬間、スグリは髪の毛が逆立つような感覚に襲われた。
 その者は、座敷の中へ顔を覗かせたまま、しばらく中の様子を伺うように佇んでいた。部屋の中は暖をとるためほとんど窓を閉めきっており、外から入ってきた者に、中は真っ暗闇にしか見えないのだ。
 やがて、囁くほどの声でその人影は言った。
「誰もいないのですか?」
 耳慣れないが聞き覚えのある少年の声に、スグリは思わず息を呑んだ。それは、数日前にスグリが出合った異郷の少年、ウメチヨの声であった。

 暗い部屋の中で、スグリはとっさに息を殺して様子を伺った。いくらか混乱した頭で、自分は夢でも見ているのだろうか、と訝った。
 星ノ森の集落とミクリの庵との間には、湿原が広がっている。里の者でさえ、何度も往き来をしてようやく覚える道は、一歩踏み外せばたちまちのうちに底無しの沼へと引きずりこまれてしまう。里の誰かが道案内でもしない限り、到底ここへはたどり着けないはずだ。
 しかし、里の人間が彼らの道案内など、するはずがなかった。ミズホの商人が里にいる間、宿となる里長の家の外へ彼らを連れ出すことは、やむを得ない事情がある場合を除き、禁忌となっている。
  そういったことを考え合わせれば、あの少年がここにいるはずはなかった。ひょっとしたら、高熱が見せた幻覚かもしれない。
「誰も、いないのですか?」
 再び声が聞こえた。先ほどよりもいく分ためらいがちな声の調子と物言いだった。この幻は、少しばかり無視しただけでは足りず、まだしつこくスグリに付きまとうつもりらしい。
 スグリは頑として動かず、息を殺していた。これが夢や幻かもしれない、という考えがまず先にあった。熱で身体がだるくあまり動いたり話をしたりしたくない、という気持ちもあった。
 しかし、仮に幻でなかったとしても、何よりも強くスグリを押し止めたのは、以前ナナエやマシケから聞かされた、ミズホの人々にまつわる噂だ。
 ミズホのクニの男たちは、星ノ森の女たちを拐かすのだという。連れ去って、その後はどうするのかと訊ねたスグリに、ナナエは言ったものだ。「ミズホの男たちは、星ノ森の女たちを食べてしまうのよ」と。
 もしあの話がほんとうのことだったとしたら、今目の前にいる少年も、スグリを連れ去って食べてしまう腹づもりなのかもしれない。山の中で恐ろしい獣に出合ったときと同じように、とにかく息を殺し気配を絶ち、やり過ごしてしまおう、とスグリは考えた。
 しかし、その企てはたちまち潰えてしまった。もとより詰まりぎみてあったスグリの鼻からは、朝からずっと、鼻水がとめどなく流れ出していた。それに構わず、しばらくじっとしていたが、やがて耐えきれなくなった。大きな音を立てて、スグリは我知らず鼻をすすった。しまった、と思ったときには、既に手後れだった。
「誰か、いるのですか?」
 スグリはとっさに寝た振りをしようとした。しかし、すぐに思い直し、枕元にあった布きれを手に取り、それで思いきり鼻をかんだ。スグリの鼻はとうに限界に達していたのだ。
 きまり悪く感じながら、スグリは言った。
「あなた、誰」
 ひどく馬鹿げた問いだと承知の上で、スグリは訊ねた。声だけであの少年だとすぐに自分が察したことを、相手に悟られたくなかった。それが何故なのか、スグリ自身よくわからなかった。
 躊躇うような沈黙がしばらく続いた。スグリは怪訝に思ったが、すぐに、マシケが商人相手に話していたとき、やけにゆっくりと喋っていたことを思い出した。
 そこで、今度はもっとゆっくりと、同じ質問を繰り返した。すると、少年は答えた。
「ウメチヨです。ミズホから来た、商人のトキタカの息子です。…あなたは、マシケの娘のスグリですか」
 彼の返事はひどくたどたどしいものではあったけれど、言葉は正確だった。やはり自分は夢でも見ているのだろうかと危ぶみながら、今度はスグリが彼の質問に答えた。
「そうよ。私は、マシケの娘で、この間、あんたの案内役をした、スグリ。……それにしても、どうやって、ここまで来たの? 誰かに道案内でも頼んだの? カタヌシから許可をもらったの? どうして、ここへ?」
 立て続けにきいてから、スグリは少し後悔した。星ノ森の言葉に不慣れな彼に、こんなに一時に色んなことを訊ねても、きっと混乱するだけだろう。普段から、ウリュウやカガリ、そしてミクリにも煙たがられている質問癖が、つい出てしまった。
 ところが、スグリの予想に反して、少年は落ち着いた声音で応えた。
「ここまでの道のりは、この前通ったときに全て覚えました。兄と二人だけで来ました」
「二人だけで?嘘でしょう!そんなにすぐに覚えられる道ではないはずよ」
 思わず叫ぶような声でスグリは言ったが、ウメチヨは心底困ったように言った。
「ほんとうに、覚えたのです。カタヌシは、里の男たちと狩へ行きました。父は、里で商いの話をしています。残っていた家の人たちに、外へ遊びに行っていいかときいたら、いいと言われたので、ここまで来ました」
 里の大人たちにとって、ミズホびとといえど、子どもは警戒の対象とはならないらしい。あまりにいい加減な対応に呆れながら、スグリは言った。
「それで、どうして、わざわざこんなところまで?遊ぶだけなら、里の中や近くにだって場所は沢山あるでしょう? 」
 ウメチヨは再び黙りこんだ後、ひどく歯切れの悪い調子で言った。
「里の人たちが、言っていました。あなたはこのまま死ぬかもしれないって。それで、様子を見に来ました」
 思いがけない返答に、スグリは言葉を失った。
「死ぬ? あたしが?」
 しばらくして、スグリはようやくそう言った。すると、ウメチヨの生真面目そうな返事が返ってきた。
「はい。ヨタカのところへ運ばれたから、きっとそうだろう、って。それに、あなたの母親も、熱病で死んだって」
 たかが熱が出たくらいで縁起でもない、そう言い返そうとして、はたと、スグリはあることに思い至った。
 ヨタカの庵へ病人が運ばれるのは通例、もう手後れの重傷者や、手の施しようのない重病人だ。スグリの場合は、単に彼女の看病にかかりきりになれる近親の年寄りが家にいないというだけだった。けれど、それを知らない者は、スグリがもう助からないと誤解しても仕方なかったのかもしれない。
「あの人たち、そんな話をしていたの」
「はい。私たちにはわからないと思って話しているようでした」
 自分の家でもやっていることとはいえ、他所の家で自分の生き死にが話題にされていると知らされるのは気持ちのいいことではなかった。もっとも、その話の内容を、年端もいかない異郷の少年がしっかり聞き取って理解していることの方が、余程ぞっとすることではあった。
 この少年に対して、スグリは警戒の念を強めていた。はっきりと敵意や悪意を示された訳でもないのに、なんとなく、この少年の一挙手一投足に、ちょっとした物言いに、スグリは神経を逆撫でされるような感覚を覚えるのだ。
 初めは、初対面のときの彼の無遠慮な一言が原因なのだろうと思っていた。ところが、どうやらそれだけではないらしかった。彼のやけに大人びた眼差しや落ち着いた声音、そしてときおり垣間見せる年に不相応なまでの賢さ。そういったものたちに、自分の中にある、不吉な感情や予感を呼び覚まされるような心地がするのだと、今になって気がついた。

 6

「確かに、あたしの母様は熱病で亡くなったけれど。この程度の熱で、あたしは死んだりしないわ」
 ため息を吐きながらスグリが言うと、少年はあっさりと応えた。
「私も、今のあなたを見て、そう感じました。…ここでは、人はよく死ぬものなのですか」
 一瞬ぽかんとして、スグリは入り口に立つ少年の方を見やった。
「今、なんて?」
「こんなに…静かで、穏やかなところでも、人はよく死ぬものなのですか」
 とっさになんと言い返したらよいのか判らず、スグリは少年を見つめ返した。
 実際、里では、死は特別なものではなかった。特に冬場には、必ず何人かが寒さや飢え、渇きに耐えきれずに死ぬ。そのほとんどが、年寄りや幼い子どもたちだった。ほかに、狩りや山中での食糧探しの最中にも死者は出た。そちらは狩りや山歩きに不慣れな若者か、引退間近の高齢者だ。
「それは、こんなところだもの。死ぬのなんて、当たり前のことじゃない」
「そう……。なんだか、信じられない」
 影ではあったけれど、少年がもの思わしげに首を傾げたのがわかった。少し躊躇った後、スグリは思いきって訊ねた。
「あなたのクニは?ミズホのクニは、ここよりずっと暖かくて、食べ物も沢山あるときいているわ。ここよりもずっと過ごしやすくて、人が死ぬことなんてほとんどないでしょう?」
 スグリの言葉に、少年ははっとしたように、深く息を吸いこんだ。そしてゆっくりと吐き出してから言った。
「はい。ミズホの地は、ここよりも暖かくて、食べ物も沢山あります。…でも、その分人間が沢山いて、いくつもの仲間同士に別れいつも憎み合い、よく争いが起こります。親子や兄弟同士で争うこともあります。沢山の人たちが殺し合い、沢山死にます。雨が降らず作物が育たなければ、飢えや渇きでも死にます」
 スグリには想像もできないような話だった。里の中でも、仲間割れや喧嘩はあったが、大抵は里長や長老たちの一声で決着がつくのが常だった。
 自分の里とミズホのクニの違いが、人によるものなのか、それとも、置かれた環境によるものなのか、スグリにはよくわからなかった。けれども、ミズホのクニが、スグリの思い描いていたようなところではないのだということだけは解った気がした。
「暖かくて、人と食糧もあるのに、すんなりと生きられないの?あなたたちのクニって、なんだか面倒そうね」
 すると、少年がくすりと笑って言った。
「その代わり、生きる意志と力さえあれば、なんとでもなります」
 とっさにその言葉の意味が呑み込めず、スグリは再び少年を見やった。すると、まるでそれに対する返答ででもあるかのように、少年が何かをスグリの枕元へと投げてよこした。
「何よ、それ」
「私からの、贈り物です。早く、元気になるように」
「どうして、わざわざ、あたしに?」
 その問いに対する返答はなかった。怪しみながらも、物音と手応えを頼りに、手でそれを探り当て、手元へと引き寄せた。
 それは、スグリのげんこつが辛うじて一つ入る程度の布の袋だった。触ってみると、中に何やらごろごろとしたものがいくつが入っていた。
 スグリは少し躊躇したが、好奇心が勝って、恐る恐るその中身を取り出してみた。
 どうやら、それは木の実か何かを干したものらしかった。今までに嗅いだことがない、つんとして、でも甘い、頭の奥まで届いて突き抜けるような、不思議な香りだった。
「これ、なあに」
 スグリが訊ねると、ウメチヨはさも嬉しそうな声で答えた。
「“トキジクノカグノコノミ”」
「変な名前」
 その実を鼻先へ持ってきて、思う存分その匂いを吸い込んでからスグリは呟いた。ミズホのクニでは、至るところにこの匂いが漂っているのだろうか、と、まだ見たこともない遥か南の地に思いを馳せながら。
「どんな病にも効きます。食べれば、きっと熱が下がります」
 そのとき、外から声がした。
「ウメチヨ」
 やはり耳慣れない声だったけれど、彼の兄のタケキヨという少年のものだった。
 二人はしばらくの間、彼らの言葉でひそひそと囁き交わしていたが、やがてウメチヨがスグリの方へと向き直った。
「ヨタカが帰ってくるようです。私たちも、里へ帰ります」
「カタヌシの家族には平気で外へ出ていいかきけるのに、ミクリさまはだめなの?」
 不思議に思ってスグリが訊ねると、ウメチヨは言った。
「あの人は、姿を一度見ました。……とても、恐い」
 そう言って出ていこうとした。ところが、すぐに思い直したように、再び部屋の中へ顔を覗かせた。
「私たちは、明日里を発ちます。ミズホのクニへ帰ります」
 それだけ言って出ていこうとするウメチヨを呼び止めて、スグリはもう一度訊ねた。先日のスグリに対する言葉の意図や今しがたの言葉の意味など、聞きたいことは山ほどあったけれど、そのときスグリの口を突いて出たのはこれだった。
「どうして、あたしにこれを?どうして、わざわざあの危険な沼地を抜けてまで、あたしに会いに来たの?」
 少し黙りこんだ後、ウメチヨは言った。どこか、彼自身確信が持てないような、そんな物言いだった。
「あなたが、私の姉に似ていたからだと思います」

 ミクリが帰ってきたのは、ウメチヨが去ってから間もなくのことだった。それまでにスグリは、彼から受け取った木の実を袋に仕舞い、布団の下の、押し潰さずに済むところへ隠していた。
 帰ってきて早々に、ミクリは異変に気づいたらしかった。辺りを嗅ぎ回った後、ぽつりと言った。
「なんだい、この匂いは。まるで、“カグノコノミ”でも放り込まれたみたいじゃないか」
 この言葉にぎょっとして、スグリは声を張り上げた。
「“カグノコノミ”って?」
 スグリの反応に、意外そうに眉を引き上げながらも、ミクリは答えた。
「南の地でしか採れない、木の実さ。“照る日の写し身”などと呼ばれる、ホシたちが最も忌み嫌う食べ物だそうだ。私も、一度だけ、見たことがある。この部屋の中でいつも燻している薬草は、この辺りで一番それに似た匂いを持つものなのだが……それがたまたま、他の薬草の匂いと混ざり合ったのかもしれないね 」
 布団の下の小袋を意識しながら、スグリは素知らぬ顔で、適当に相づちを打ってやり過ごした。
 そのときふと、あることを思い出した。スグリはすぐさま、ミクリに訊ねた。
「ミクリさまは、どうして、商人の案内に私も連れていかせたの?」
 すると、ミクリは言った。
「夢を、見たんだよ」
「夢?」
「南の空から金色の鷲が舞い降りて、それを、大きな黒い鴉がお迎えするんだ。榛色の目をした鴉がね。もっとも、私の思い違いだったようだが」
 それから二日経つ頃には、熱はすっかり下がっていた。最後まで、あの、ウメチヨが寄越した木の実を口にすることはなかった。
 その翌日、スグリはむかえに来たマシケと共に、湿原の道を通って家へと帰った。里へ帰ってみると、ミズホの商人一家は、二日前に里を発っていたことが分かった。どうやらあの日の一件は、夢でも幻でもなかったらしい。
 まだ雪が積もらないうちにと、薪集めに山へと繰り出した日、たまたまスグリは一人になった。改めて、ウメチヨとのやりとりを思い返しながら、スグリは木の実の入った袋をこっそり取り出して眺めた。
 鮮やかな赤色に染められた地に見慣れない図柄が織り込まれた布の袋は、まるで火の玉のようだった。袋の中から取り出した木の実は、照日 (てるひ)ーそれも、明け方や夕方にだけ現れる、燃えるような日ーそのもののような色と形とをしていた。
 それを日にかざして眺めていると、ミズホの土地に対する憧憬に似た気持ちが湧き起こってきた。それは、ミズホの人々に対するものではなく、ミズホの地の水や空気、草木や鳥獣といったものたちに対するものだった。
 心地よい物思いに耽っていると、不意に、ウメチヨの言葉を思い出した。

――生きる意志と力さえあれば、なんとでもなります――

 あれは、いったいどういう意味だったのだろう。あれこれと考えを巡らしていたスグリは、遠くで自分の名を呼ぶナナエの声に気がついた。
 赤い小袋を腰の道具入れの中に仕舞ってから、近付いてくる家族に手を振った。
 どんなに考えたところで、自分がミズホの地へ行くことなどないのだ。この地で自分は大人になり、やがてヨタカの役目を継ぎ、ひとり静かに年老いていく。それが自分のさだめなのだ、とスグリは自分に言い聞かせた。

〈続〉

表紙画像 (C)柴桜様 『いろがらあそび5』作品No.5
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=63654068

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