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女王の城

――彼女は、「裸の女王」だったんだ――

祖母の死を知らされた私は、深夜の高速バスに乗って帰省した。
悲しいとは思わなかった。
記憶の中の彼女は私にとって、恐れの対象でしかなかったから。

短編です.よろしければお付き合いを.

 祖母が亡くなったと報せを受けたのは、大学の講義が終わり、ちょうどバイト先に着いた瞬間のことだった。
 私はそのまま出勤し、帰り掛け、バイト担当の社員であるAさんに「明日は祖母の葬儀で帰省するため休みたい」と伝えた。
「どうして先に言ってくれなかったの。今日、休んでも良かったのに」
 Aさんはそう言ってから、心の底から同情した様子で「ご愁傷様、気を付けて帰ってね」と言ってくれた。彼女の目に涙がにじむのを見ながら、心の中で皮肉交じりに、優しい人だなと思った。もし私が休んだら、その分減る収入は誰が補償してくれるの? 学費も生活費も、親の仕送りは期待できず、帰省するお金すら、そうそう捻出できないというのに。
「ありがとうございます」
 私は作り笑いを浮かべて応えた。多分、傍から見れば、当事者であるはずの私の方が、よほど落ち着いて見えただろう。
 いったんアパートに帰って最低限の荷物をまとめ、地元へ向かう最終の高速バスに乗り込んだ。バスがひと揺れして発車する。
 思えば、実家へ帰るのは何か月ぶりだろう。最後に祖母に会ったのは、多分、祖母の胃ガンが見つかって入院した直後のことだから、半年以上前だ。
 私が病室に入ると、ただニコニコして私の顔を見つめるばかりだった。自分がガンだということは知らされていなかったようだけど、知らされたとしても理解できなかったのではないかと思う。
 そのあとも何度か実家に帰ったが、大体日帰りか、用事で実家を宿代わりにするだけ。空いた時間は姪の子守りやら何やら任されて身動き取れず、といった状況で、「また今度」を繰り返していた。仮に時間があったとしても、私が望んで祖母に会うことは無かったと思う。

 祖母の印象は、「ただただ怖い人」だった。叱られたりぶたれたりしたことは無いが、いつも怖い顔をしていて、笑いかけられた記憶などほとんど無かった。実の子であるはずの父ですら、祖母の前ではいつも緊張していた。
 朝から晩まで、365日、経営している文具店のカウンターの中でむっつりと店番するのが彼女の日課だった。母によれば、昔は商店街の婦人会に参加していたが、それもいつからか行かなくなったという。私の同級生の間でも、祖母は有名人だった。
 戦後自ら暖簾を掲げた店は、彼女の”城”だった。父が東京の大学を卒業すると、有無を言わさず跡取りとして連れ戻され、その後はひたすら祖母の小間使いとして働かされたという。やがて父が結婚して母が加わると、母もこき使われた。母の母――私の母方の祖母――が、あまりの扱いのひどさに抗議したらしいが、一笑にふされてしまった。
 祖母の”城”は、高度経済成長期には右肩上がりで売り上げを伸ばした。しかし、父が結婚して社長に就いた頃、バブルが弾け、一気に傾いていった。祖母は「棚に並べれば売れた」時代が終わったことを理解せず、それまで通りのやり方を続けたのだ。初めのうちは、母も色々と提案したそうだが、「生意気な嫁」と散々罵られ、やがて諦めたという。祖母のイエスマンとして育てられた父が、母をかばうことなどもちろん無かった。
 昔から両親にとって、私たち子供のことは二の次。最優先事項は「お店」だった。まるで取りつかれているように見えることもあったけれど、それも全て私たちを育てるために頑張ってくれているのだと信じ、甘えたいさかりにも、じっと耐えた。
 祖母に対する母の恨みつらみを聞かされて育った私は、自然と祖母を恐れ避けるようになった。祖母とまともに話をしたことなど無かった。
 家族らしい記憶といえば、私が島根へ一人旅をした時、出雲大社で受けた長寿のお守りをお土産にあげたことぐらい。本当は、仲の良かった母方の祖父母にあげたかったが、二人とも私が高校に上がる前に他界していた。父方の祖父に至っては、私が生まれる前に亡くなっていて、会ったことも無かった。
 突き返されるかも知れないな、などと思いながら、帰省した時に恐る恐る手渡した。すると、祖母はニコニコと受け取り、お返しに手袋までくれた。上品なデザインの、未使用のアンゴラの手袋だった。祖母はお守りを相当気に入ったらしく、自分の病室まで持って行ったという。
 そんなことをあれこれ思い出しながら、窓の向こうに流れていく景色をぼんやり見つめていると、そのうち眠気に襲われ、やがて意識を失った。
 眠る前の一瞬、祖母がいなくなった今、あの”城”はどうなるのだろう、そんな疑問が頭をもたげた。

「Kちゃん、久しぶり」
 父の実弟のTさんが、私の顔を見るなり言った。
「お久しぶりです」
 私は頭を下げた。自分の母親の葬儀の場とは思えない朗らかさで、Tさんが世間話を始める。
「ずいぶん綺麗になったなあ」
「ありがとうございます」
 にっこり笑って私は応えた。
――そりゃ、子供の頃はお金が無くて、おしゃれなんてできませんでしたからね――
 大学に入ってからは休みなく働いて、リサイクルショップでそれなりに見られる服を見繕い、化粧を覚え、自分を磨いた。かつて私のことを「みすぼらしい」と馬鹿にしていた小中学の同級生たちが、成人式で私を見て目を丸くしているのに気づいた時は胸がすっとした。
 少し前に帰省した時、迎えに来てくれた母が、私をじっと見つめて言ったものだ。
――人ごみの中から、垢ぬけた人が自分の方へ駆け寄ってくると、気分が良いもんだね――
 そう言う本人は、着古してヨレヨレになった安物のポロシャツを年中着まわして、髪の毛は年中ぼさぼさ。私がもの心ついた頃から、「忙しい」「お金が無い」が口癖になっている人だった。何度かバイト代で服を買ってあげたけど、「似合わない」「お店に着ていけない」と一度も袖を通してくれない。
「ご遺族の皆様は、会場へご移動をお願い致します」
 葬儀場の案内係からのアナウンスで、話は中断された。
 式は滞りなく進み、出棺前の最後のあいさつの時間になった。一人ひとり棺に花を入れていく。
「綺麗に化粧をしてもらったもんだなあ」
 私の隣にいたTさんが言った。隣に立つ奥さんが、そうね、と返事をする。つられて、私も祖母の顔をじっと見る。生前には、忙しさを理由に化粧っ気の無かった顔。ファンデーションや口紅を塗られた「艶姿」は、何だか少し滑稽に見えた。
 服も、もう何年も、ずっと同じものを着まわしていたと思う。旧式のレジスターが鎮座するカウンターを守る祖母の姿は、そのまま、埃を被って店の棚に並ぶ、バブル時代の売れ残りの在庫たちと重なった。遠い土地から出稼ぎに来て、祖父を見染めて結婚した後も、最後まで誰とも打ち解けられなかった彼女には、あそこしか居場所が無かったのかも知れない。
 周りを見回すと、葬儀に参列した父のきょうだいたちの中に、涙を流している人は一人もいなかった。むしろみんな、せいせいした、とでも言うような顔をしている。
 長兄のMさんは、私の両親に顎であれこれと指図してはいるが、自分から動く様子は無い。なぜか次男であるはずの父が喪主として挨拶をし、母が切り盛りをしている。葬儀の準備や受付についても、兄と私がやっていた。おかしい、と思いつつ、周囲の人たちが、さもそれが当然であるかのように振る舞うので、何も言えなかった。
 その時、あることに気づき、母に尋ねた。
「お母さん、私がおばあちゃんにあげたお守りは? 電話で、おばあちゃんのお棺に入れておくって言ってたよね」
 すると、母がばつの悪そうな顔をして答えた。
「ばたばたしてる間に忘れちゃった。どうせ、あとで遺品整理の時に処分するから良いでしょう」
 やがて出棺の時刻になり、祖母の棺は炎に呑まれた。

 翌日、葬儀の後片付けも一通り済んだ夕方、両親は出かけて行った。地元のちょっと高級なレストランで、伯父さんたちと遺産相続について話し合うためだ。とは言っても、年金暮らしだった祖母にたくわえなどほとんど無かったし、着物などの装飾品は、お通夜の前に形見分けを済ましていて、残ったものは処分することになっている。
 そう時間はかからないだろう、と気楽に考えていたが、予想は見事に裏切られた。
 深夜に帰ってくるなり、母が玄関先でわっと泣き崩れた。普段、彫像かと思うほど物静かな父も、珍しく興奮していた。
「あいつらとは、もう二度と話したくない」
 居間にいた私に、聞いてもいないのに顛末を説明してくれた。
 両親によれば、祖母には「遺産」と呼べるものはほとんど無く、それどころか、赤字の店を維持するための借金ばかりが残されている。年金も赤字の補填にほとんど費やし、食事や日用品については母が面倒を見ていたという。私たち家族の生活費は、ほとんど両親のバイト代で賄われていた。その上、わずかな稼ぎの幾らかを、店の赤字の補填に回してすらいたのだ。開いた口が塞がらなかった。
 両親は、そのことを正直に伯父たちに打ち明けた。しかし、彼らは同情したり感謝したりするどころか、父が祖母の財産を隠して独り占めにしようとしていると決めつけ、激しくなじったという。最終的に、信じてはくれたそうだが、かなり侮辱的な言葉をぶつけられたらしく、両親とも、ほとんど逃げるようにその場を後にしたらしい。
 朝は日が昇る前から、夜は深夜まで、両親が身を粉にして支えてきたお店は、とっくに、彼らの財産と時間とを消費するだけの、がらんどうの廃墟と化していたのだ。
――お店があるから授業参観には行けない。お店があるから迎えに行けない。お店のため、お店のため、お店のため……――
 子供の頃に幾度となく聞かされたフレーズが脳裏を過った。
「お店なんだけど、おばあちゃんが入院した頃から、『畳もうか』って話してたの。建物と土地の権利はお義兄さんのものになるらしくて、今日、お義兄さんから『出ていけ』って」
 母の言葉に被せるように父が言った。
「本当はずっと前から、店を畳みたかったんだよ。もう、時代は変わったんだ。昔のやり方じゃ、商売なんて成り立たなくなってるんだよ。でも、おばあちゃんが……」
 更にそれに被せるように、母が声を張り上げた。
「あたしたち、お義母さんとお義兄さんに、いいように使われただけじゃない。毎日毎日、お客の来ない、埃まみれの店に縛り付けられて……。結婚してから、良いことなんて一つも無かった」
 おいおいとむせび泣く母を残し、父は寝室へ入っていった。私は途方に暮れ、黙って母を見つめることしかできなかった。

 葬儀の後片付けを終え、私は翌日、独り暮らしのアパートに戻った。
 玄関を開け中に入ると、まっすぐベッドへ向かう。そのまま布団の上にダイブし、この数日の間に起こったことを思い返した。
 祖母が亡くなっても、悲しむこともなく、実の兄弟を疑いののしる親戚。とっくに潰れていた自分の店にしがみついて、自分の息子やその妻を地獄に引き入れた祖母。祖母の言いなりになった父と、その父を止められなかった母。そして、それに巻き込まれ、様々な我慢や屈辱を強いられた私たちきょうだい。
――救いようが無いな―—
 みんな、何かを誰かのせいにして、互いの人生を潰し合ったんだ。誰かが誰かを思い遣る気持ちなんてものはほぼ皆無。その中で、祖母が最大の元凶でありながら、一番哀れな存在に思えた。
 誰からも恐れられ、何もかも思い通りにできたのに、孫のお守り一つに大喜びして後生大事にするほど、渇いていた人。
 そこに思い至った瞬間、涙が頬を伝った。祖母や両親に対する同情とも、自分が被ったあらゆる不利益への怒りとも言い切れない、こんがらがったような気持ちだった。
 強いて言うなら、この事態を引き起こしたあらゆる人々の、ほんの少しずつの、全ての無責任と、他人への無関心に対する怒り。それと、全ての「被害者」への哀れみと慈しみ、とでも言うような感情。
 最後に会った時、祖母は何も知らない少女のように笑っていたけれど、幸せだったのだろうか。こんなに多くの人間を巻き込んで。
 まるで、砂のお城に閉じ籠った、裸の女王様だ。そう思うと、祖母を憎たらしく感じると同時に、哀れに思った。

 ほどなくして、両親は文具屋を廃業した。母は晴れ晴れとした顔で、「これでパートに打ち込める」と言っていた。

 さらにその後、母から、父が心療内科でうつ病と診断されたことを知らされた。

「何か最近様子がおかしくてね。心療内科に行ったらって勧めたら、案の定……。それと、パニック障害って診断も出たらしいの。子供の頃から、お義母さんやお義兄さんから暴言を吐かれ続けたせいじゃないかって」

 私は、あの”城”に閉じ込められないようにしよう。でき得る限り、後悔しないように生きていく。自分にとって一番大切なものは何なのか、見失わなうことのないように。
 そう固く心に誓った。

fin.

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