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月花の冠

――冷たい月花の冠を頂いて、彼女は永遠に眠り続ける――
ある日突然、二度と目覚めない眠りに就く――。
そんな奇病が蔓延した世界で生きる真波は、ある決断を迫られていた。
取るべきものは、己の責務か、それとも……。


悪夢の目覚め

 夢の中で、真波は彼女と踊っていた。舞台の上、そろいの衣装を着て、互いに見つめ合いながら、互いの呼吸を読み合いながら。
 頭の中は冷たく冴えわたっているのに、胸の内は熱く、今にも何かが破裂して飛び出してしまいそうなほど、様々な感情が吹き荒れていた。
 右足、左足、右足、一回転して、両腕を上へ……。リズムを刻みながら、ステップを踏む。互いの場所を奪い合うように、あるいは互いの場所を譲り合うように、舞台の上にいくつもの円を描いていく。
――そう。これ――
 月のように端正な顔立ち、氷のように冷たい表情で踊る相方の額や首筋から、汗がしたたり、動きに合わせて飛び散る。今、自分はどんな顔をしているだろう、そんなことを考えたのは一瞬だった。真波の意識は、すぐさま心地のよい感情のうねりに飲み込まれていった。
* * *
 けたたましいアラーム音で目が覚めた。
 起き上がり、枕元のスマホに手を伸ばす。せっかくいい夢を見ていたのに、全部台無しになってしまった。
 もっとも、この小さな端末は、命令通りに持ち主を起こしただけなのだ。呪うとしたら、この時間に起きると決めた昨日の自分だろう。
 やり場のない苛立ちを何とか押さえ込んで、アラームを解除した。
 画面の片隅に小さく映る日付が目に留まり、もう2カ月も経っていることに気付いた。
 ――そろそろ、受け入れるしかないのかな――
 心の中で呟いて、ベッドから起き上がる。重い足取りで、クローゼットへと向かった。
* * *
「X753でお待ちの方、どうぞ」
 自分の番号を呼ばれ、真波は腰を上げた。
「はい」
 自分の声の固さに、自分で驚いた。どんなに大きな舞台でも、ここまで緊張することなんてなかったのに。知っている人がいなくてよかった。
 案内されたのは、奥にある特別治療棟。入り口で、専用の防護服に着替える。その後、一番奥の治療室まで通されると、案内役の看護師がドアを開けた。
 ドライアイスのような白い靄がふわりと流れ出る。中間室を通り抜け、病室に入ると、壁も床も天井も全て金属でできた部屋の中は、冷凍庫のように一面霜が降りていた。
「こちらに」
 思わず足を止め、生唾を飲み込んだ。深呼吸をしてから、看護師が示すベッドの方へ歩みを進める。ベッドの上には、血の気の失せた顔で横たわる、かつての相方がいた。
* * *
 真波の職業はダンサー。少し変わっているのは、呪術師に近い性格を持つダンサーだということ。
 発端は、50年ほど前。赤道直下のある国で、不思議な病気が確認された。突然体温が氷点下になり、身体が溶けてしまう奇病。最初の罹患者3人は、その日のうちに溶けてしまったという。
 次に確認されたのは、北極圏の小国。たまたま真冬だったこともあり、氷点下の環境にいれば生き永らえることが判明した。同時に、発症した者は意識を失ったまま、眠り続けることも分かった。まるで冬眠でもしているかのように、昏々と。いつしか、「月下症候群」と呼ばれるようになった。
 その後、各国で次々と罹患者が現れ、その数はたちまち増えていった。
 発症メカニズムも治療方法も分からず、世界中がパニックに陥った。そうした中、ある地域で流行し始めたある踊りを見ると発症しない、という噂がSNSを通じて広まった。しかも、ほぼリアルタイムであればテレビやネットを通じた映像でも効果があるという。
 因果関係の有無は現在も分からないままだが、その踊りの流布に合わせるように、発症数は減っていったのだ。やがて、専門の職業ダンサーが誕生した。
 ダンサーたちは、各地区に最低2人1組必要とされて、政府から最上級の住居を与えられ、破格の給与が支払われる。
 誰もが望む地位のように思えるが、実際には、「世界で一番就きたくない職業」と評されていた。「その踊りを見た者はその後3カ月の発症確率が限りなくゼロに近付くが、踊ったものは3分の1の確率で発症する」ためだ。
 そして、2カ月前の今日、彼女の相方は発症してしまった。それきり、ここで眠り続けている。

逃れられない白昼夢

「分かっていますよね。厚田さん」
 マネージャーの浅井が真波をねめつけた。二人は、真波のマンションの中にあるラウンジで向かい合って座っている。コーヒーから立ち上る湯気を見つめたまま、真波は口を閉ざしていた。
「そろそろ、次のパートナーを決めないと。3カ月に一回は、舞台に立ってもらわないといけないんですよ。今日が何月何日が、ご存じですか?」
 目の前のカップに手を伸ばし、口を付ける。マネージャーが、苛立ちを露わにして、身を乗り出した。
「立派なマンションや高給、手厚い福利厚生……この意味、分かってます?」
「分かっていますよ」
 真波が返事をすると、浅井は大仰に両腕を振り上げた。
「それなら、どうして次のパートナーを決めないんですか。こちらが提案するパートナー候補は、アカデミーでも屈指の成績を修めた踊り手ばかりなのに。何が気に入らないんですか」
 カップの中身が、照明の光を反射する。まるで月の光に照らされた夜の海みたいだなと思った。
「いっそ、私を解雇して、新しいペアを配属してはどうですか」
「そんなことできるわけないでしょう」
「なぜ?……彼女が発症したのは、私のせいかも知れないのに」
 浅井の目を見据える。浅井はうろたえた様子で視線を逸らした。そっと溜め息を吐いて真波は立ち上がった。
「時間なので失礼します」
「厚田さん!」
 声を無視して、ラウンジを後にした。
* * *
 苦々しい気持ちで、タクシー乗り場へ向かう。
 相方が発症した場合、3カ月以内に次のパートナーを決める決まりになっていた。ところが、もう2カ月と3日経つのに、相方を決めかねていたのだ。
 誰の踊りを見てもピンとこない。どうせ決めても、すぐに発症してしまうのではないかと思うと、決断が鈍る。
 厚田真波と組んで踊った者は、必ず発症する――。有名な話だった。
 踊るだけでも発症のリスクは上がるが、その中でも、真波と組んで踊った者の発症率が、異常に高い。それに対して、真波はいつも無事なのだ。
 気が付いた時には、陰で〝死神〟と呼ばれるようになっていた。先日発症した稗貫実生(ひえぬきみう)と1年以上も組んでいたのは快挙なのだ。
 前の相方が発症したとき、マネージャーが持ってきたビデオの中に、彼女のものがあった。そのVR映像に釘付けになり、即決で彼女を選んだ。
 顔合わせで、先に口を開いたのは実生だった。
――覚えてる? アカデミーで一緒だったの――
 アカデミー――政府が運営する踊り手の養成所――で一度顔話したことがあるというのだ。最初は思い出せなかったが、やがて思い出した。自分がアカデミーで問題を起こす度、少し離れた場所で、冷めた目でじっと自分を見つめていた少女のことを。
* * *
「よくあんなことで熱くなれるね」
 指導室から出てきた真波に声を掛けたのは、実生だった。
 その日は朝から、クラスメイトと掴み合いの喧嘩になって、指導員たちから取り押さえられた。今まで指導室でこってり絞られ、やっと解放されたところだった。
「馬鹿にしてるの?」
 苛立ちを抑え切れずに真波が言うと、実生は慌てた様子で首を振った。
「ああいうことで怒れるのって、『まともな感覚』を持っている証拠でしょ」
 人から「まとも」だと言われた経験がなかった真波は、ぎょっとして目の前の少女を見つめた。少女が微笑んで、こちらを見据える。
「でも、それで世の中を渡っていくのは難しいよね」
「分かってる」
 ぶすっとして言い返すと、少女はくつくつと笑った。
「分かってて直せないの。それ重症だね」
「あんたに関係ないでしょ」
「いいこと教えてあげる。どうしても腹が立ちそうな時は、雪とか氷とか、『冷たそうなもの』を思い浮かべるといいよ」
「なにそれ……」
 そのとき、廊下の向こうから声がした。
「ヒエヌキ、そんなところで何してるの。次はB棟の講義室だよ」
「ごめん。今行く!」
 そう言って、少女は行ってしまった。
 この一件以降、真波はクラスを変えられ、彼女と顔を合わせることはなかった。そして、アカデミーを卒業した後、ペアを組む相手として再会したのだ。
* * *
「好きなんですか、彼女のこと」
 突然の問いに、真波はきょんとして、目の前の白髪の男性を見た。瓶底眼鏡の奥で、小さな目がいたずらっぽく笑う。
「ペアを組んでいた稗貫さんのことですよ。今までのパートナーのことはほとんど話そうとしなかったのに、彼女のことは、聞いてもいないのに色々教えてくれましたよね」
「好き……」
 真波は腕組みをして、じっくりと考えてみた。我知らず小首を傾げながら返答する。
「よく分かりません」
 男性は、ちょっと呆れたような顔で真波をじっと見つめた後、ぽつりと漏らした。
「あなたのそういうところ、本当にご両親とそっくりですね」
 ここは、とある心療内科の診察室。とは言っても、真波は神経症の類を患っているわけではない。
 踊り手たちは月に1回、政府の指定する機関でカウンセリングを受けることになっている。常に発症の危険と隣り合わせの踊り手たちにの中には、かつて、発症する前に心を病んで舞台に立てなくなる者が後を絶たなかった。その現状を重く見た、国際的な人権団体が取り決めた「人道的措置」の一つだ。
 この医師は、真波が踊り手として世に出てから、ずっと彼女を担当している。かつて、彼女の両親のことも担当していた。
 真波の両親も、踊り手だった。それも、どちらも発症せずに「定年」を迎えた稀有な存在。引退後も、「月下症候群を発症させないための調査・研究」に協力していたが、こともあろうに昨年、交通事故で仲良く彼岸へ渡ってしまった。
「最初の患者が確認されてから、もう50年以上も経っているのに、まだ発症メカニズムはおろか、治療法すら分かっていない、というのは、医療従事者として歯がゆい限りですよ」
「そうですか」
「メディアでは、ある条件下で脳から出るシグナルのせいじゃないかとか、先祖返りの一種じゃないかとか……。最近では、『便乗新興宗教』も再加熱しているそうです」
「先祖返り……?」
 なぜか引っ掛かり、思わず口に出してしまった。医師が、意外そうに眉を持ち上げながら説明する。
「昔、氷河期を生き延びた我々の祖先が、あれほどの寒波に耐えられたのは、身体を寒さに順応させた、つまり、異常な寒さに適応できる個体が生まれたためではないか――。という話から出てきたものらしいですが、ほとんどファンタジーですよ。……魚の脂肪が凝固する温度は、陸上の恒温動物のそれより低いそうです。その拡大解釈版とでも言ったところでしょうか」
* * *
「本当に、『病気』なのかな。月下症候群って」
 舞台の後、マンションのラウンジでアイスココアを飲みながら、実生が独り言のように、ぽつりと呟いたのを覚えている。
「ビョーキでしょ。じゃなかったら、何で『症候群』なんて名前が付いてるの」
 温かいレモンティーをふうふう冷ましながら、真波は返事をした。しかし、実生はそれに納得できない様子で、腕を組み、うーんと唸る。
「イメージなんだけどさ、ガンとかコレラとかの類ではないと思うんだ。強いて言うなら、花粉症に近いんじゃないかな」
「どういう意味?」
「菌とかそれ自体が害のあるものっていうより、何かしらの環境変化に対する身体の防御反応が『症状』として出てるんじゃないかなって感じがするんだよね」
「それじゃ、体温が氷点下まで下がって眠っちゃうのも、常温で身体が溶けちゃうのも、全部『アレルギー反応』だって言うの? トンデモすぎない」
「そうだよね。私も子どもの頃はそう思っていた。じいちゃんの考えることは現実味がないなって。……でも、最近、少し分かるような気がしてきたんだよね」
 ふと、彼女の祖父が、月下症候群研究の第一人者だったことを思い出した。しかし、ある頃から彼が唱え始めた説が学会で否定され、第一線からは退いたと聞いていた。
「実生のお祖父さんが……?」
「そう。根拠もちゃんとあるって。ほとんどの患者は、発症時の状況に共通点があったんだって。それが……」
 話しているうちに、実生の身体からみるみるうちに血の気が引いていった。そしてそのまま椅子に倒れ込み、眠るように気を失ってしまった。真波がすぐに応急処置を施したため、溶けることだけは免れた。
 医師の言葉で、そのときのことを思い出してしまった。
* * *
「お客さん、着きましたよ。お客さん」
 タクシーの運転手の声で、真波は我に返った。慌ててお代を払い、タクシーから降りる。空には季節外れの雪がちらついていた。ふっと息を吐くと、白い靄が眼前を漂う。
 マンションの入り口へ向かう途中、背後から視線を感じた。振り返った真波は、我が目を疑った。少し離れた植え込みの陰に、実生そっくりの女性が立っていたのだ。
「実生?」
 思わず口に出したが、気付いたらその姿は消えていた。狐に摘ままれたような心地で、真波は辺りを見回した。
 柄にもなく、白日夢を見てしまったようだ。あの日から、自分は実生に囚われすぎだ、と自分に自分で喝を入れた。

安らかな眠りを

 雪は、3日間降り続けた。都心の街が一面うすら白く染まっていく様子は、大祓の前の禊ぎを思わせた。
 壁一面の鏡の前で、真波は一人、踊りの練習をしていた。ここはマンションの一角にあるレッスン室。このマンションに入居する踊り手だけが使うことを許された場所だった。
 目の前には、実生がいた。彼女の踊りの記録から再現されたVR映像だ。ペアの踊り手同士は、通常、練習で実際に顔を合わせることはない。発症するリスクがあるからだ。そのため、動きを合わせる練習には、互いに相手のVR映像を使っていた。
 ひとしきり踊った後、水分補給のため休憩していると、傍らのスマホの着信音が鳴った。
 マネージャーの浅井だ。パートナー候補が見つかったのか、月下症候群関連の特番への急な出演オファーか……。うんざりしながら電話に出ると、浅井がまくし立てた。
「よかった厚田さん、無事だったんですね!」
「どうしたんですか」
「踊ってください! 今すぐ」
* * *
 浅井の早口での説明をまとめると、2日前、「ここ数日の各地の大雪は、太陽活動が急速に縮小しているのが原因。間もなく数千年に一度の氷河期がやってくる」というデマが、SNSでトレンドに入った。その直後から、世界各地で月下症候群患者が急増したという。それを受け、各地区で、発症が収束するまで踊り手たちを踊らせ続ける、と政府が決定したらしい。
 昨日は一日中、フリマアプリでやっと見つけた、実生の祖父の著書を呼んでいたのだ。もともとテレビをあまり観ず、新聞やネットニュースの類も見ない真波にとっては寝耳に水だった。
「私のパートナーは?」
「それが……。発症者には少なくない数の踊り手が含まれていて、残っている踊り手は全員どこかに配属されているか、踊るのを拒否して雲隠れしたとかで……」
「つまり……いないんですね」
 浅井が黙る。真波は大きく溜め息を吐いた。アカデミーでは、「踊りは2人一組で踊らなければ効果はない」と教えられている。こんなことなら、無理にでも決めておけばよかった。
 しばらく考えに考えた後、あることを思いついた。たっぷり3分ほど迷った後、真波は口を開いた。
* * *
 会場に着くと、責任者の女性が真波を出迎えた。簡単な打ち合わせとリハーサルの後、楽屋で支度をする。
 やがて、本番の時を迎えた。舞台袖で深呼吸をして、神経を集中させる。舞台へ上がる直前にこんなに緊張したのは、初めてかもしれない。
 思わず、実生の顔が脳裏をよぎる。涼しげな切れ長の眼差しに、いつもどこか人をくったような微笑を浮かべた彼女を思い浮かべるだけで、なんとなく地に足が着いたような心地がした。
 合図に合わせて舞台に進むと、スポットライトが彼女を捉える。パートナーが立つべき位置にいたのは、仮面を着けた真波自身だった。
* * *
「VR映像で、舞台上の自分の動きをそっくり、左右対称に映し出すことはできないか」
 これが、真波が要求したことだった。ほぼ同時配信であれば効果があるということは周知の事実。それなら、片方だけ「同時配信」でもいけるのではないか――それが真波の推測だった。
 浅井には猛反対されたが、最終的に上層部から許可が降りた。政府の高官にも発症者が相次ぎ、藁にもすがりたい状況だったらしい。
 真波が膝を突くと、VRの真波も膝を突く。何とも不思議な感覚だったが、奇妙な心地よさもあった。仮面のせいで視界は悪かったが、相手は同時配信の自分の虚像。合わせようとしなくても、勝手に付いてきてくれる。頭の中で、目の前の自分を懸命に実生と重ねた。
 身体を丸め、踊りの開始の構えを取っていると、やがて、音楽が鳴り出した。
 その瞬間、勢いよく立ち上がる。天井へ向かって大きく両腕を広げ、身体を反らせると、スポットライトが顔を照らす。暗闇から明るい場所へ――ここでいつも、大きく意識が開かれるような、不思議な高揚感を覚えるのだ。
 大きく振りかぶりながら、すぐさま相方の方へ向き直り、互いに見つめ合った。仮面の顔を見つめながら、覚え込んだ動きを身体がなぞっていくのに任せる。
 やがて、忘我の境地とでもいうような、何もない真っ白な空間へ意識が到達した。
* * *
 終盤へ差し掛かったとき、着地の衝撃で仮面が外れた。
 目の前に現れた顔を見て、愕然とした。
 何の感情も映さぬ瞳に、凍り付いたような頬と口元。「虚無」としか表現できないような顔が、自分を見つめている。ぞっとしながらも、気が付くと、身体は最後のステップを踏んでいた。
 音楽が鳴り止み、一拍置いて、客席から拍手が湧き上がる。返礼のポーズの後、最後の気力をふり絞って、舞台袖へと向かう。
 舞台袖に入った途端、真波は膝を突いて、その場で泣き出した。生まれて初めて感じる、全身が凍りつくような感覚。泣きながら震えが止まらなかった。
 その瞬間、彼女は全てを理解した。そして、実生の祖父の説は、単なる空想の産物ではないと確信した。 
* * *
「恐怖に凍りつく」という慣用句があります。こういった表現が存在し、人々が許容しているということが示唆するものこそ、「月下症候群」の正体を暴く鍵になると考えられるのです。
(中略)
防御反応のトリガーが緩んだ原因は不明です。先の大戦の後、平和が続き、生活が便利になってきたことにより、我々のストレスへの耐性が低下してしまったとも考えましたが、紛争地域ですら同程度の発症率であることに鑑みますと、その説は捨てざるを得ません。もしかしたら人類が、本能的に、近く訪れる試練の時を察知しているのかも知れません。(稗貫満著『月下症候群について』)
* * *
 冷たい実生の頭や顔を撫でながら、声を掛けた。
「実生。大丈夫だから、目を覚まして」

 世界中がパニックに陥った日から、2カ月余り。デマ拡散の沈静化に合わせるように、発症者は日ごとに減っていた。
 両親同様、月下症候群の研究に協力していた真波は、ある日、それなりに気心の知れた研究員に、実生の祖父の話と、自分の推測とを伝えた。
――月下症候群は、恐怖が引き金になっている――
 あの日、真波は「恐怖」という感情を知った。もしも、かつての相方たちも、同じ思いをしていたとしたら……。
 ダメ元だったが、研究員は興味を示した。様々な確認作業の後、「発症者の『恐怖』を和らげる」実験に着手した。
 被検体に選ばれたのは、実生。発症した場合、調査研究に協力する旨を遺言していたのだ。
 脳への電気信号やヒーリング音楽など、色々と試してみたがだめだった。これが最後の方法で、もう一週間続けている。
 おとぎ話のいばら姫みたいだと思った瞬間、ある言葉が口を突いて出た。
――日頃月花と寵愛せしに――
 実生が時々口ずさんでいたものだ。古典の一説だというが、詳しいことは知らない。
 やっぱりだめか……。
 そう思い手を離そうとしたとき、実生の眉がぴくりと動いた。あっと思うか思わないかのうちに、彼女の瞼が開いていく……。

01ありがとうカード


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