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いつかは報われるということ

2019年7月13日(土)、私は長野にいた。
そして、ある瞬間を見て、人目もはばからず泣いた。
リアルに涙がボロボロ。止めようと思っても止められなかった。

何と言うか、それぐらいインパクトが強い瞬間でした。

・・ところで、なぜいきなり長野に行ったのか?
それは、11月3日に開催される全日本大学駅伝の北信越(福井、石川、富山、長野、新潟エリア)予選を見に行くためで、なぜ泣いたかと言うと母校である新潟大学が2年ぶりに本選への出場を獲得したからです。

ただ、この数年内でも2011年に20年以上振りに出場したこともありますし、その後も何回か出場しているので、出場したことよりも目の前で直接その光景を見たことが涙の要因になっていると思います。

色々な偶然と、私個人の想いが重なった日でしたね。

そんな訳で、note初回からちょっとエモい話ではあるのですが、心の中を整理したいと思い、思い切って書いてみることにしました。

では、序章として少しだけ過去の話をさせてください。

なお、ここからはあくまで個人の主観で、誰かを批判をするものではないと言う前提で見ていただければ幸いです。

私の学生時代と地方大学の練習環境

まずは簡単な私の生い立ちですが、私は1981年に富山県旧福岡町(現高岡市)で生まれ、18歳まで富山で過ごしました。中学生までは家の近くにコンビニもなく、1時間歩いても誰とも遭遇しない、極めて低いエンカウント率を誇る田舎ですw

高校卒業は新潟大学法学部に進学し、2000年4月〜2004年3月まで在籍。高校時代は陸上部に在籍していたこともあり、その間4年間ずっと体育会系陸上部に在籍していました。専門は長距離(5000mや10000mなど)で、3年時は長距離部門のキャプテンもしていた経験があります。

専ら部活動の日々でしたが、在籍していた4年間はいつも11月に伊勢で開催されている全日本大学駅伝に出場をすることを夢見て頑張っていました。
(詳しくは以下のリンク先を参照)

ちなみに、まず率直に言うと新潟大学は関東や関西などの強豪校がいるエリアと比べると、戦力的な部分のみならず、環境面でも劣ることは否めません。

全日本大学駅伝に出場しても、上位争いに絡むのが難しいのが実情です。

私自身は現役時代大した選手ではありませんでしたが、初めて日体大記録会や日本学生ハーフマラソン選手権に出た時の周囲のレベルの高さには愕然とするしかありませんでした・・・。

ただ、関東や関西の一部の大学などと比較した場合、環境面での大きな差があることは考慮いただきたい面です。

これは私自身がメタボをきっかけにランニングを2014年から10年振りに再開したのですが、市民ランナーの観点でも圧倒的にこちらの方が恵まれています。これは、高校、大学と雪国や強豪校ではない環境に在籍していたこともあるかと思います(ちなみに、高校のホッケー部が超強豪のためグラウンドがほとんど使えず、練習は専らロードでした)。

では、新潟大学陸上部の練習環境面と言うと・・・

・専用グラウンドはあるがダート。草むしりが必須。梅雨の後は😇
・ナイター設備はないので夜は使えない
・雨が降った場合は使えない(やろうと思えばできるが・・)
・雪が降ると当然使えず、市営の競技場すらも積雪で使えない時がある
・ほとんど学生はアルバイトをしており、競技一本ではない
・学業との両立(留年も普通にあり得る)
・記録を狙える記録会は県内に年に数えるほどしかない。

など、挙げればキリがありません。
新潟大学以外の地方大学もこれに近しい環境で日々競技と向き合っているはずです。

とは言え、これらを学生の力で変えるのは難しいのが現実。
つまり我々が変わらない限りは記録が望めないわけです。

私は、自分自身がキャプテンになった時こそ絶対に全日本大学駅伝出場を達成したいと考え、同期や先輩・後輩、OB・OGの皆さんのツテをベースに以下を実施しました。

・朝練習の実施(週6日。練習量倍増)
・関東の大会、記録会に赴く
・筋トレの推奨
・プロティン接収の推奨(ドラッグストアに割引交渉した気がする)
・専門コーチの招聘

また、個人的なものでしたが、他大学との交流のためにHPを作成し、情報発信にも励みました(コード書いてましたw)

ただ、急激な変化と私自身のコミュニケーション不足、周囲との連携不足から反発も多く、チームの雰囲気は決して良いものではなく、しかも私自身のタイムもチーム内で決して速くなかったこともあり、悪化の一途を辿るような形になりました。

おじさんになった今から考えると、もう少しやりようがありましたね・・。

しかしこれらの取り組みは、徐々に成果として大きく現れ、翌年には10000mの当時の歴代記録を複数名が更新するなど一定の結果が出まして、16年経過した今でも私自身も歴代記録に残っています。

色々痛みを伴い、ストレスで胃腸炎や過呼吸になったこともありましたが、
色々な方々のサポートと、継続し続けたことによる結果だと思っています。

しかしその夢は一度も叶うことなく2004年3月に大学を卒業。

特に私が4年生の時は非常に戦力が充実し、10年以上経過した今でも歴代20傑に残るメンバーが複数名在籍していたにも関わらず、予選会では私も含めて力が発揮出来ず予選敗退。

練習も今では考えられないぐらい走っていましたし、生活の時間の大部分をコミットしていたこともあってか、その反動で今でも時々夢を見る時もあるぐらいで、私の中ではある意味トラウマのようなものになってしまっていました。

(これは最後の予選会の開会式。私は髪しか写っていないw)

偶然から全ては始まった

それからは2014年までは走ることからも遠ざかり、大会に顔を出しに行くことすらもほぼなくなるなど、陸上とは距離を置くようになりました。このことがきっかけで走ることへのモチベーションが一切なくなった感じです。

普通の人から考えると理解できない部分もあるとは思いますが、それぐらい本気でしたし、時々その時のことを思い出してしまうため、行く気持ちが起きなかったわけです。

ではなぜ16年ぶりに行くことになったのか。

それはかなり偶然で、これまでは新潟のビックスワンで予選会を実施をしていたのですが、今年は長野での実施になり、新潟よりも近かったということでした。きっかけは本当にそれだけですw

決戦は長野

そして当日。
新幹線と在来線を乗り継いで決戦の地に到着。

陸上競技場には今でも練習がてらに行っているのですが(渋谷にある織田フィールドに週1で)、その時と違い学生時代の感覚と言いますか、懐かしい雰囲気に心が震えました。

会場では応援にいらっしゃった3名のOBの方達とばったり出会いまして、一緒に応援することに。

そして決戦が始まった。

私の時とは違いトラックでの予選会なので応援がしやすい上に、学生との距離感が違うので気持ちが高揚。

ついつい応援にも熱が入ってしまう!

(後輩たち。応援スタイルは変わっていないが、掛け声が今時だったw)

予選会は10000mを各大学10名が3組別れ、10名のうち8名の合計タイムで競います。

基本的には最終組に有力選手が集まるのですが、あくまで合計タイムで競うため各大学の選手配置がカギを握ります。

母校は絶対的エースを2組に配置し、タイムを稼ぐ予定だったようですが、
強豪校の信州大学の選手と接戦(0.01秒差)になったことや、その他の選手も力を出し切れず、2組が終わった時点でトップとは2分40秒以上の差が開いており、正直「これは厳しいな・・」と思ったほどです。

(自分の時は長野の山の中でやっていたので羨ましい。。。)

しかし、ドラマは3組目に待っていた。
母校は4名の選手が出場していましたが、何とその組の1〜3位を独占。
もう1名も粘りきり、まさかの最終組での大逆転で全日本大学駅伝の出場権獲得の可能性を残したのです!!!

3組が始まった時点では普通で考えれば厳しい状況。
ただ後輩たちの想いがそれを上回っていたように思います。

とは言え正式発表はまだなので、OBの方々とそわそわしながら結果を待っていました。

微妙な沈黙と、パラパラ降る雨が何とも言えない雰囲気に。

そして最終的な結果発表が始まった。

その瞬間に立ち会う

「1位 新潟大学」

北信越学連の代表がその言葉を発した時、私は人目も憚らず泣いてしまった。本当に恥ずかしいぐらいに泣いたw

自分のこと以外で泣いたのは本当に久しぶりで、正直、自分でもどう処理すれば良いのかわかりませんでした。

ただ一つ言いたいのは、泣いたのは出場を獲得したからだけではありません。

実は私の世代で作ったベースが今では伝統になっているようで、当時は非常識だったことが今では常識になり、あの時色々あったけれども、やっておいたよかったと思ったことが大きかったのです(もちろんその後継続し続けた後輩たちが一番凄いです!)

現役世代に昔の話をすると「そんな時もあったんですね」と言う返答をもらうのですが、それこそがその証拠でもあります。

どの分野でもこれまでの流れを変えることはとてつもなく辛い。
そして、その時に全ての結果が出るとは限りません。

私はずっと過去と向き合うことを避けていましたが、やっと過去との決別ができました。

本当に来てよかったです。

この日来たのは運命かもしれない。

改めて思うと、今回来るのは運命だったのではと思うことがいくつかあります。そのポイントは以下の通りでして、

・今年度の母校中長距離チームのスローガンは結べ新大の「和」
・2011年に20数年振りに出場した年に生まれたのが息子の名前が「和(なごみ)」
・新元号は令「和」
・そして私の名前は清「和」
・さらに長野で開催されてなければ行ってなかった

加えて言うと、今のキャプテンの森くんは、2011年に久方振りに全日本大学駅伝に出場した新潟大学を見て進学を決めたそうである(彼が中学の時だそうなので、時系列的にはその可能性が高い)。『結べ新大の和』のスローガンの通り、「和」で私は母校に結ばれ、半ば運命のような形で私はこの地に来たのかもしれません(こじつけすみませんと言いたいところですが、偶然にしては出来過ぎているもので・・w)

応援に来たOBの方の中には私がキャプテンをやっていた時から知っていらっしゃっていて、

「蒔いた種が実ってよかったじゃないか」

と仰っていただいたりなど、とても印象的な一日になりました(めっちゃ泣きましたw)。

最後に

初回のnoteなのにエモい話になりましたが、11月3日の本戦は応援に行く予定です。駅伝シーズンは関東の大学ばかりに注目が行きますが、それぞれの大学にもドラマがあります。

大学駅伝も少し違った角度で観ると、また違った面白さがあると思いますよ。駅伝ファンのみなさま、ぜひ新潟大学の応援をお願いします!

そして改めて、新潟大学の後輩のみなさん、全日本大学駅伝出場おめでとうございます!!

そしてそして、色々支えてくれた同期、特に全体の主将だった田中健太、コーチの竹石さん、後輩の板垣さん、伊田さん、村井さん、小林さん、伊藤(悠)さん、現役時代も含めて支援をいただいているOBみなさま、会場でお会いしたOBの長友さん、関野さん、中村さんなど、色々な形で礎をつくっていただいたみなさんに感謝です。

あの時があるから今がある。
真摯に、本気でやっていたことはいつかは報われる。

私のビジネスにおける源泉です。

(全日本出場を決めた後輩たちと)

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