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自分で誰かの靴を履いてみることがエンパシー。それを養うってどういうことなんだろう。

6月からようやく娘の幼稚園は分散登園が始まり、1日おきに登園する日々を過ごしてもうすぐ1ヶ月。

4月5月よりは仕事に向き合える時間が少し増えたけれど、コロナ前と同じというわけにはいかず、「娘と全力で遊ぶ」日々のスキマ時間で「これからの仕事」のために学んだり考えたりする、6月はそんな1ヶ月でした。

一方で仕事面で4月と5月に起きた出来事は、多くの人との嬉しい出会いと新しくワクワクする仕事への向き合い方を発見できてとても有意義だったので、そのことについてもまたnoteに書いていきたいと思っています。

それから、 Black Lives Matterについても自分が知らないことを学んだり、対話する会に参加してみたり、アメリカ社会の差別問題をふまえて改めて日本にいる自分は日本の問題をどう捉えていくのか、どんなアクションができるのかしらと考えを巡らせています。

人権や差別の問題はNAGOMIの活動にも直結する話なんだけれど、自分自身もまだまだ勉強するべきことがたくさんあるし、活動とか仕事という枠組みのそのもっともっと前に、まずは私自身、その学びを自分の経験やこれまで感じてきた想いと一緒に噛み砕いて理解して、腹落ちさせたい。でないとアクションにうつせない。まずはその腹落ちが必要だなという直感があるものの、いまいちまだ完全に落とし込めていないんだなと実感する毎日だったりもします。


こんな感じで色々インプットして発信もしていきたいという思いだけが募りつつ、現実の生活は朝から全力子育て(3歳時の楽しみに付き合う)&家事が終わった夜の自分に、もうそんなパワーが残っていなくて、情けないけれどなかなか進みません(^^;  

差別や人権の話題と同時並行で、娘のお弁当メニューもちゃんと考えたいし、幼稚園に毎日持っていくハンカチだって(せっかく張り切って布もミシンも買ったから)ちゃんと作ってあげたいし、という思いも常にあるし。

まぁ、頑張りすぎると「今、ここ」を楽しむことができなくなってくるので、ワクワクできる範囲で前進したいなぁと感じる今日この頃です。

コロナでホームビジットが停止してしまったのはとても残念な出来事だけれど、強制的に活動ストップするくらいのことがないと、日々のTodoリストが長すぎて、未来に向き合う時間は正直取れていなかったというのも事実。

ということで、自分の学びや、共感したこと、考えていることなどもボチボチnoteで発信していこうと思っています。

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今日はエンパシーの話題でnoteを更新してみます。

自分で誰かの靴を履いてみることがエンパシー

差別とか人権の話を自分なりに考えていると、結局エンパシーが必要なんじゃない?ということにたどり着くので、まずはエンパシーについて自分の経験を振り返ってシェアしてみたいと思います。

最近読んだ本の中でもすごく学びが多かった本に「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」があるのですが、ここでもエンパシーにまつわるエピソードが何度も登場します。

エンパシーとは、「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの経験や感情を分かち合う能力」(ケンブリッジ英英辞書)だそうです。

本の内容の一部は上記のリンクから試し読みができるようですのでもしまだ読んでいなかったらぜひに。

私自身は、エンパシーの概念は異文化コミュニケーションの文脈で知っていたことだったのですが、この本から「エンパシーは能力だから、養うことができるものだ」ということを再認識しました。

能力を持った一部の人だけがエンパシーできる(=自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの経験や感情を分かち合うことができる)ということではなくて、誰でもその気になって養えばできるようになる、ということです。

ただ、「じゃあどうやって養うの?」ということがとかく難しいと感じていて。自分と違う人の立場を想像するのって、簡単なことじゃないよねと。もちろん、人種や国籍や文化に限らずいろんな多様性の側面で、あらゆる人が「自分と違う人」ですから。

この本の中でもそうなのですが、結局は何かを経験して、そのときの自分の考えや相手が言ったことを反芻して、何が起きたのかを想像して理解しながら、「自分はどうするのか?」と自分なりの答えを見出していくっていう一連のプロセスがあって、それを繰り返していくことで誰かの経験や感情をわかち合うことができるようになる、それが「エンパシー能力を養う」ということなのかな、と。

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去年、夫が同僚からのお誘いで家族連れのポットラックパーティーしようという会があり、娘と3人で参加した日のこと。5〜6家族のほかに独身組も集まり、参加者の出身は中国、アメリカ、台湾、ベトナム、デンマーク、日本という顔ぶれでした。

私はその日初めて会う人ばかりだったのですが、おもちゃで遊びたい当時2歳の娘に食べ物をすすめつつ、ベトナム出身で5年前から日本に住んでいるという女性と会話が盛り上がりました。

その時の彼女との会話は、日本語と英語がほどよく混ざっている状態。

私自身は英語で基本的な会話は楽しめるのだけれど、言いたいことのすべてを的確なニュアンスで伝えられる英語力が足りないと自覚していて、会話をするうちに彼女が日本語もわかると知ったので、英語と日本語も混ぜていました。

一方の彼女は日本に住んで数年たっていて、日本語での会話も堪能。日本語で会話をしているなかで、時々出てくる知らない表現は部分的に英語にして補足する、というような感じで。

もちろん、彼女の正確な言語レベルはわからないけれど、感覚的には私の英語力と彼女の日本語力が同じくらいなのかなと。そんなわけで、お互いに日本語と英語を混ぜて会話するとちょうどいい塩梅でした。

お互いに子供同士が同じ年齢だったので、通っている保育園の話とか子供がどんな遊びが好きかとか、子供のごはんどうしてる?話とか、ママ同士のあるあるネタで盛り上がり。

ひとしきり楽しく会話をしたところで、私はふいに、彼女に「日本語上手だよね」と言いたくなりました。だって彼女と日本語を使っての会話が楽しかったし、本当に上手だと思ったから。私は彼女が日本語で会話できる人でよかったと感謝していたのもあったし。

でも待てよ、それ大丈夫?もしかしたら言わないほうがいいかもと考え直して、結論から言うと、私は彼女に「日本語上手だよね」と伝えないことにした。

迷った理由は、夫の経験談を知っていたから。
デンマーク出身の夫は日本に15年以上住んでいて、日本語が達者。初めて会う人には、それが交流を前提にしている場かどうかに関わらず、例えばお店とか、配達の人とかも含めていろんな場面でかなりの確率で「日本語お上手ですね」と言われることが多いのです。

そして彼はそれにうんざりしている、という話。

相手は褒めているつもりだということはわかるけれど、その言葉の裏には「日本人の顔をしていない人は、基本的に日本語が上手なわけがない。にも関わらず、あなたはまさかの日本語ペラペラで驚きましたよ」というステレオタイプが透けて見えてしまうから、ということ。そこには「我々日本人と、外国人は違う」という前提があります。

ちなみに「お箸使うの上手ですね」も同じです。

私は過去に夫と何度もこの話をしたことがあって、この事を十分に理解しているはずだと思っていたのに、ベトナム人の彼女に「日本語上手だよね」と言いたくなってしまった。あまり深く考えて出てきたものではないんだけど、あえて言うならば「純粋に、すごいと思ったから伝えたい」という瞬間的な気持ちでした。

でもちょっと待てよ、と。

これって、今目の前にいる彼女と、同じママという立場で初対面だけどお互いに同じ年の子供を持つ「ママ」としての共通点で盛り上がったのに、その後で私が「日本語上手だよね」と言うとしたら、やっぱりそこにある私のステレオタイプも伝えてしまう可能性がある。それって必要なの?と。

相手はその一言で、もしかしたら夫と同じように「ああまたか、やっぱりあなたもそうやって分けるのね」とがっかりするかもしれない。場合によっては傷つくのかもしれない。けれど、そのリスクを取ってでも自分が「日本語上手だよね」と思ったことを伝えたいのか?言いたいという欲を満たすのか?

というような感じで、ちょっと立ち止まって考えた結果、私は彼女に「日本語上手だよね」と伝えないことにした、という経緯です。

実際のところ、それが彼女との関係性において正解だったかどうかは正直わかりません。彼女の感じ方は夫とはまた違うはずだから。

ただ、私自身はこの日の「自分のアクション」としてはいい感じだったんじゃないかなと感じています。

というのは、人として楽しく会話をして、これから友人になれそうと感じている相手に、嫌な気持ちにはなってほしくないから。少しでもその可能性があるのであれば、それは避けたい。

夫の経験に一度エンパシーを感じていたことがフックとなって、この日にエンパシーを発揮することができて、自分が納得できるコミュニケーションができたんじゃないかなと感じた出来事でした。(実際には「言わなかった」のでコミュニケーションは発生していないのだけれど、意識的に「言わない」というのもアクションの1つだと思っています)

それから、もうひとつ。

後日、さらにこの日のことを振り返った時に、彼女にあの場で「日本語上手だよね」と伝えることもできたかもしれない、ということも発見しました。

だって私が「彼女日本語上手!」と思った本質は、単に「外国人が日本語堪能なのは珍しいね」ということではなくて、

「私もデンマークに住んでデンマーク語を勉強した経験がある。今も家族とデンマーク語で話すようにしていて、新たに言葉を学んで使うのってなんて大変なんだろうと実感してるし、だからこそ母国語以外の言葉で会話するのってすごいことだと思う」という自分の経験に基づくことだったから。

もしもあの日、この話とセットで彼女に「日本語が上手」と伝えていたら、それは単なるステレオタイプから発しているとは伝わらないはずで、そこからまた楽しい会話につながった可能性もあるな、と。

エンパシーの積み重ねで育んでいくしかない

この日の出来事に直面した私の中には、たまたま似たようなケース(夫の話)で一度エンパシーを感じて自分の中に落とし込んだ経験があったから、ベトナム出身の彼女との会話の中でもエンパシーベースで考えることができたのだけれど、もしも私のなかにそのベースがなかったら、「言いたい」と思ったことを何の疑いもなく言っていたと思います。それがまさか自分のステレオタイプとセットで伝わってしまうなんてことは気づかなかったんじゃないかな、とも。

正解がない話なので、この話を聞いて「それは違う」と思う人もきっといるはずなんだけれど、それはいて当然だし、いろんな考えがあるという状態でいいんだと思います。

自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの経験や感情を分かち合う能力、エンパシー。

相手の立場に立って想像してみるのって、やっぱり本当に難しい。

振り返ることで発見があるし、気づきが成長につながるなぁと感じるのだけれど、正直こんな振り返りを毎回するのかと思うと、気が遠くなります。

それでも「能力だから養える」ということに救いを感じるし、同時に私自身も含めて、1人1人が養っていく努力をしないとハッピーな未来の社会にはつながらないから、やっぱり1人1人にその責任があるよね、とも思います。

こういう経験を積み重ねていくのがエンパシーを養うひとつの道なのかなと感じた出来事でした。



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