ビジョンクエスト2日目

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おそらく朝が来た。空は曇に覆われて太陽は見えず、時間帯がわからない。
気づけば斜面から落ちそうな位置にいた。思わず笑った。結界ギリギリのところにいたため、ニャッキのような動きで戻った。

予報では今日から雨。今は降っていない。今のうちに雨支度と滑り落ち対策をすることにした。
雨支度は、ブルーシートを寝袋の上から掛けるだけである。他の荷物もブルーシートの中に入れ、内側から重石代わりにした。風は上空をよく通っており、あまり私のいる位置には来ない。被せるだけで十分だと判断した。ブルーシートと枝で屋根を作ろうかとも思ったが、直に掛けたほうが寒さ対策できると思ったのでやめた。
ブルーシートは雨音が響き耳障りになる可能性も考えた。しかし、そのような感情を除いてフラットに心地よく雨を迎え入れたかった。雨は障害ではない。そう思うと、気にしていたことが気にならなくなった。
滑り落ち対策としては、結界の中にいくつか太い枝があったため、それを集めてストッパー代わりにした。いいかんじに体に当たる。これできっと、枝を乗り越えて滑り落ちることはないだろう。

さて、支度も済んだ。少し尿意を感じる。飲まず食わずであっても、出るものは出るようだ。貴重な水分とも思ったが、我慢したところで循環されるわけではない。
意を決して、結界の外に出た。久しぶりに歩く。体が軽い。痩せてきたようだ。枝で体を支えながら、良さげな場所を見つけ、用を足した。
トイレットペーパーはない。落ち葉で拭いてみるものの、なんとも言えない。小ぶりな枝しかなく、ペーパー代わりにはなりにくい。仕方ないのである程度、落ち葉で拭いたのち、おりものシートで拭った。こういうとき、男性であればそのまま仕舞えばいい。しかし女性の場合、かぶれや痒みに繋がるので拭かずにパンツを履くのは避けたい。トイレットペーパーか布を持ってくればよかったかもしれない。ビジョンクエストに現代の物を持ってくるのもどうかと思うが。昔の女性はどうしていたのだろうか。

パロサントで清め、結界の中に入った。まだ雨は降っていない。曇りの山を感じることにした。
風がよく吹いていた。あの音ならあの位置からあの方向へ吹いて…といったように、風から流れを読むようになった。受け取る情報量が変わった。ここに来る前は、風が吹くと涼しさや寒さを感じていただけだった。いろんな風が吹いている。それはまるで、山の声のようだった。
山と喋ると、どんな会話になるのだろうか。パッと浮かんだ言葉は「威厳」「尊厳」「荘厳」「恐れ多い」。だけど友だちのように身近にも感じる。山の神様が人の姿で現れたら楽しそうだなと思った。漫画ならできるのに。

ポツリポツリと、雨が降ってきた。枝葉で覆われているため、そこまで濡れない。ブルーシートを肩あたりにまで被せて、外が見えるようにした。
雨の重さ、冷たさ、音。どれも心地いい。せっかくなのでブルーシートに溜まった雨で顔や体を拭いてみた。とてもさっぱりした。雨で清められ、いただいているような感覚になる。
いっそのこと寝袋の外に出てみようかとも思った。しかしあと2日ある。体が冷えやすいため、温存するべく、心よりも思考に従った。濡れるのは自宅でもできるため、その日まで楽しみはとっておくことにした。

雨脚が強まった。ブルーシートを被る。意外と音は響かない。むしろ心地いい。ブルーシート越しに見る水滴の形が抽象画のようでおもしろかった。たまにブルーシートの隙間から雨が落ちてきた。寝袋の濡れ具合が気になったが、なるようになるだろうと思い、考えるのをやめた。

まだ寒くはない。頭上のブルーシートの縁から隙間をあけ、背の低い動物になった気分で世界を見た。撥ねる雨、艷やかな落ち葉。ザトウムシや蟻がお散歩をしている。
虫たちにちょっかいをかけてみた。そそくさと逃げる。言葉が通じたような、会話してるような。そんな気持ちになった。

ふと、体の異変に気づいた。血の流れが悪くなっている。腕を折り曲げると、数秒でそこから痺れてくる。伸ばすとどんどん血が流れていくのがわかる。たった1日で、こうも流れが悪くなるのかとびっくりした。エコノミークラス症候群のようにはなりたくない。極力折り曲げず、同じ姿勢にはならないように配慮した。

何度寝ただろうか。さすがにお尻や腰、肩が痛い。そして気づけば、寝袋の足側が冷たい。どうやら寝ている間に寝袋が滑り、ブルーシートからはみ出てしまったようだ。おかげで下半身が冷めたい。雨脚が弱まるまで、寝袋内に脱ぎ捨てていた冬用のズボンを足元に置いて、冷えが伝わるのを防いだ。
後々気づいたのだが、これはしないほうがよかった。水を含んだズボンはなかなか乾かなかった。むしろ冷えが増す原因になった。寝袋の中でなんとか履いておけばよかった。また、アルミ製の寝袋も持ってくればよかったと思う。汗をかいてしまうと思い、持ってこなかったのだ。天気予報を確認して、濡れることも想定して、念には念を入れて持ってくればよかった。次への教訓となった。
雨脚が弱まったので、温かいレギンスや靴下、長袖を着た。下山や体温調整のこともあり、1番暖かい服は着ないことにした。太ももを中心に筋肉を動かし、指先を擦り、温める。ミトコンドリアに精一杯働いてもらうことにした。

何時だろう。明るくはあるが、夜だ。深夜にはなってない時間帯だろう。とにかく寒い。寒すぎる。これが雨の山の厳しさか。唇が乾燥して、皮がめくれている。今夜は寝ずに、とにかく温めよう。

夜というのはこんなに長かっただろうか。1分すらも長く感じる。毎秒数えていれば早く感じるだろうか。頭がおかしくなりそうだ。そこにエネルギーを使いたくはない。
言葉をなくし、ただただ感じることにした。

「ギャアッギャアアッ」と苦しそうな鳥の鳴き声がする。トンビもいる。キツツキの音も聞こえる。虫は輪唱し、蟻たちは寝袋に沿って歩き、ときどき触角を動かしていた。
雨。天気としては変わったのに、動植物たちの生き方は変わらない。その点、私は寝袋の中。温めなければ死活問題な状況だ。毛に覆われた動物になってみたくなった。そしたら雨の中でも動けただろうに。

夜が長い。
夜ってこんなに長かったっけ。
そういや、昼間もだ。
昼ってこんなに長かったっけ。
ゆっくり、ゆっくり、月が動いて、
ゆっくり、ゆっくり、太陽が動いていた。
このゆったりとした時間を感じていると、いかに時計の時間で生きてきたのかがわかる。
本当の時間は、とても豊かだった。

そういえば、久しぶりに夢を見た。
苦手なジェットコースターに乗ったり、高校のスクールカースト上位にいる人たちと遊んだりしていた。なんで私はこの人たちと話し遊んでいるのだろうかと不思議になりつつも、どうでもよくなって遊んでいた。
そう、どうでもよかった。
なんだか自由だった。


つづく

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