恋の炎は消さないで【後編】/短編小説
三月初旬、小雨。雨に打たれた桃のつぼみが、春の訪れを待ち焦がれている。
「恥ずかしいから絶対にいや」
「高校最後じゃないか。親孝行だと思って。な、頼むよ」
どうしても、卒業証書授与式の立て看板の横で写真を撮りたいんだと、パパはあたしの腕をつかんで離さなかった。昔っから写真マニアだったので、パパが折れるわけがない。観念するしかない。
親孝行、ね。今日くらいは、パパとママのお願いを聞いてあげてもいいかな。ママが通りすがりの人にカメラをお願いしている。立て看板の横であたしを真ん中にして、パパの傘の中に入り腕を組んで写真を撮った。
気を良くしたパパは「みんなでお昼ごはんを食べて帰ろうと」と、ご機嫌そうに提案してきた。でも、あたしにはどうしてもやりたいことがある。
「高校最後は杏樹と一緒に帰りたい」
本当のことは言えないので、杏樹を理由にした。
「明日香の好きにさせてあげなさい」と、ママはパパの首根っこを引っ張って行った。ありがとう、ママ。ごめんね、パパ。
・・・・・・・・・・
もう一度校舎に戻ると、杏樹がちょうど国数準備室から出てきた。
「先生に挨拶できた?」
杏樹は首を横に振った。杏樹は最後に、仲が良かった国語の先生に一輪のガーベラの花を渡したかったのだ。
「もしかして音楽室かも」
微かに聞こえるギターの音色に引き寄せられるように、杏樹は階段を駆け上がって行った。杏樹の帰りを待つのは野暮だと、あたしはその場を離れて生徒玄関へと向かった。
高校生活最後のがらんとした廊下。高校生活最後の空っぽの下駄箱。高校生活最後の校門を、相合傘で下校するカップルをうらやましく眺めた。あたしは傘をさして、卒業証書と一緒に一輪のガーベラを持って学校の裏の消防署へ回った。
・・・・・・・・・・
三月になったとはいえ、雨の中じっとしているのは寒かった。傘の中は、雨音しか聞こえない。彼に会える当てのない時間を、小さな水たまりの波紋をぼんやりと眺めて過ごした。
どれくらい時間が経ったのだろう。くるぶしの見えるアンクルブーツが、その水たまりを踏んだ。傘を上げて見ると、青い作業服の上に黒いブルゾンをはおった彼がいた。
あたしは何も言葉を用意していなかった。しばらくの間、言葉もなく見つめ合う時が過ぎた。あたしはとっさに「今日卒業しました」と言い、傘とガーベラを左手に持ち直し、卒業証書の丸筒を右手で差し出して見せた。
「もう高校生ではありません。だから改めて、あたしと付き合ってください」
「黒崎明日香さん」
あたしの名前を覚えていてくれたのが、正直驚きだった。彼の口からあたしの名前が発せられ、心が震えた。
「はい」
「名前も知らない、何も知らない男を好きになる君のその情熱が、本気なのかどうか俺には理解できない」
「一目惚れです。あなたのことがもっと知りたい。だからあたしと……」
「俺だって、君のことを全く知らない」
今まで顔すら合わせてくれなかったのに。彼の真っ直ぐなまなざしが、あたしの生意気な口をつぐませる。
「この春、君が就職するのか進学するのか、俺には分かりません。どちらにしても、君は世界が広いことをまだ知らない。そこでいろんな人と出会って恋をする。俺なんかより、もっといい男はごまんといるはずだ」
年下のあたし対し、諭すような丁寧な口調でゆっくりゆっくり話した。
「新しい環境での出来事を、手紙で教えてほしい。新しい出会いをしてもまだ俺を好きだというなら、手紙を送り続けてください」
そう言うと、胸ポケットから一枚の紙切れを出した。
「これはアパートの住所です。断りなく訪ねて来ないと約束できるのなら、このメモを君にあげます」
「はい、約束します」
無造作に破られた跡のあるメモを渡された。お世辞にもキレイな字とは言えない。たったさっき書いたような殴り書きの字だった。初めて彼の名前を知った。
「もし君に好きな人が出来たら、手紙を書くのをやめてもいい。俺にも好きな人ができたら、そこは許してほしい」
冷えた体のせいなのか分からなかったけれど、メモを持つ手が震えていた。
「それと、もうここに来てはいけないよ。君は目立ちすぎる。俺たちは仕事の最中なんだ」
すっと、温かい涙が頬をつたった。
「ごめん、怒っているわけではないんだ。君は素直すぎるだけで、なにも悪くない」
「違うんです。会えなくて、あたしにはこの先があるのかずっと不安で……」
あたしは手の甲で涙を拭って笑って見せた。
「卒業生は、卒業証書と一緒にこの一輪の花をもらうんです」
そう言って、彼にガーベラを差し出した。
「その花を、お世話になった先生や大好きな人に渡すんです。あたしはあなたにこの花を受け取ってもらいたい」
「そうなんだ、卒業おめでとう」
そう言って、ガーベラを受け取ってくれた。不愛想な表情しか見せなかった彼の左頬に、えくぼができた。
【恋の炎は消さないで/完】
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