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自分にとってのワインを造る、ということ

最近になって考えることが増えた。いや、実際にはこれまでにも考えなければならないことだったのに、何となく先送りし続けていたあれこれがついにこれ以上先送りできなくなって、今、「考えなければならない」ことになって目の前に横たわっている、というのが正解なのだろう。

考えなければならないこと、と書いてみたけれど、何となく違う。本当は「決めなければならないこと」が正解だ。考えるだけだったらいくらでもできる。あれでもいいし、これでもいい。そこに決断が伴わないのであれば、それは遊びと同じ。頭の中でああでもない、こうでもない、と言い続けていればいいだけならこんなに悩むことはない。悩むのは決断をしなければいけないから。

自分が今、決めなければいけないことはいくつかある。その中でも大きなものが、「日本に帰るのか」「帰るのであればいつなのか」だ。

自分は今はドイツでワインを造りながら生活をしているけれど、別にドイツで生活がしたくて、もしくはドイツでワインを造りたくてここに来たわけではなかった。このビールとソーセージとジャガイモばかりが思い浮かぶ国に来た理由は、ここでワイン造りを学問として学ぶため、大学に行くことだった。ここでワイン造りを学問として学び、その後はまた別の場所に行くことを考えていた。大学を出た後もドイツに残ることなんて、実はまったく考えていなかった。

それにも関わらず、大学を卒業した自分が今もドイツに残り、ワイナリーに就職し、そこでワインを造っているのはたぶん、流された結果だ。
大学で専門的にブドウの栽培やワインの醸造を学び、いくつかのワイナリーで研修をし、ワイン用ブドウ栽培の現実やワイン造りの実際に触れるといやでも知ることになることが多くある。そうなると、言い訳が増える。どこそこはワインを造るには向いてない、どこでは自分が造りたいワインは造れない。そんな、ある意味で真実であり、ある意味で頭でっかちな言い分が、それなりの根拠をもって口にできるようになる。さらにそこには「経験を積む」、なんて耳触りのいい、周りも自分も何となく納得してしまうような言い訳まで追加できてしまう。しかもそうして流された結果でも、実際にこの競争社会の中でそれなりに実績を積んで勝ち残れてしまっているから質が悪い。「次」を決断することを先延ばしにすることのできる余裕が持ててしまっているのだから。

どこにでも行ける、ということは、どこにも行けないのと同じだ。

自分はどこにでも行ける、と公言することは、結局は、自分はどこにも行けないと言っているのと同じなのだと最近思う。どこかに行くためにはその「どこか」を特定し、決めなければいけない。でも「どこにでも」と言ってしまうことは暗に、この「どこか」の特定を避けていることと同じなのだろう。気が付けば、結局はどこにも行けないまま、そこに在る。今の自分がまさにそうなのだと、皮肉を込めて自覚する。

物事を決断するのは難しい事じゃない。いや、むしろ簡単なことだ。実際にドイツに来ることを決めたのは本当にあっさりとした決断だった。ならまた日本に帰ることを決断することも実際には難しいことではないのだろう。よし、帰ろう。そう口にするだけでいい。

今の自分が日本に帰って出来ることなんて、結局、ワインを造ることなんだと思う。いや、やろうと思えば別に他のことでも出来る。別にワインに拘らなければならない理由はない。ちょっとこの歳にしてここ数年のキャリアを捨てることになるけれど、それも言うほど大したことじゃない。何をするのも自由だ。大成は出来ないかもしれないけれど、そんなの今更だし、何より生きてはいける。

でも、きっと、自分はワインを造ろうとすると思う。
日本の生産者の方々には申し訳ないけれど、日本がワインを造るのに適した土地だなんて今でもこれっぽっちも思っていない。畑をビニールで笠掛してまでブドウを作る意味は、正直に言えば、理解できない。そこまでしてワインを造って、それでも品質が満足に上がらないなんて、そもそも向いていないことの証明で、合理的に判断すれば労力の無駄でしかない。かなり本気でそう思っている。その労力を別のものに向けることが世の中的には無駄がなく、意味のあることなんじゃないかと。そこまでの熱意をもって頑張っていらっしゃる方々には本当に申し訳ないのだけれど。

そんなことを考えている人間が、日本に帰ったとしたらそこでワインを造ろうするのであれば、それに見合った合理的な理由が欲しくなる。なんでそこまでしてワインを造ろうとするの、と。

そんなことをつらつらと考えていると、自分と周りとの違いに気が付く。自分は別に「ワイン」が造りたいわけでも、「ワイン」が好きなわけでもないんだ、と。
この「ワイン」は一般名詞としての「ワイン」だ。
本当に最近気が付いたのだけど、自分はこの一般名詞としての「ワイン」には少しも、それこそ欠片も興味も関心も持っていないらしい。だから、単にブドウ果汁を発酵させて造るアルコール飲料を造れればそれで満足、という心理状態にはどうしてもなれない。自分は、自分の好きな品種を使って、自分の好きなスタイルのものを、いや、むしろそれだけを造りたいんだ、きっと。そしてそれを馬鹿みたいに追及して、研ぎ澄ませたいんだ。最高に美しいものを生み出したいんだ。そこだけに、集中したいんだ。

今の日本のワイン業界では、日本に適した品種を入れるとか、日本に見合ったアプローチでブドウを栽培し、ワインを造る、というのがトレンドになっている。当然だ。それこそが合理的な判断というものだ。そこに対してそんなことを一切合切無視して、自分のやりたいものだけやる、というのは非合理の極致だ。畑をビニールの屋根で覆うこと以上に、何を言っているんだ、と自分自身でも思う。でも、それしかやりたくない。というか、それ以外のことに興味がない。困った。

嫌みなことを言えば、仕事として割り切ってしまえば別にやれる。たぶん、そんな状態でやっても周りよりも高いパフォーマンスを出せるだろう。それだけの知識も経験も持っているし、実績も積んでいる。少しくらいやり方が違っていたって、本質が同じである以上、応用することは簡単だ。しかも割り切ってしまえる分、余計なことに拘らず、仕事としての本質だけにフォーカスするので成果も上がる。ある意味で当然の帰結だ。
本当に自分がやりたいことに集中できないのであれば、逆にそうして割り切ってしまうのはアリだと思う。中途半端にやるよりは、仕事として割り切った上でそこで最高のパフォーマンスを見せた方が価値ははるかに高い。夢だ拘りだといって、中途半端なパフォーマンスで満足するような恥ずかしいことはしたくない。割り切ったのであれば、必要なのは個人の感情ではなく、目に見える成果だ。

ワインを造るだけなら、どこででもできる。このままドイツに残っているのがある意味で一番簡単な選択ではあるけれど、べつにフランスに行ってもいいし、オーストラリアやニュージーランド、南アフリカでもどこでもいい。やろうと思えばどこでも出来る。
なら、同じ理屈で日本でもいいのではないか。最近は、そう思う。

日本に帰ることを考える理由も、それを引き留める理由も、本当にいろいろある。でもすべては言い訳だ。分かってる。ワインを造る、もしくは造らない理由だって、そんな言い訳の一つにすぎないことも分かっている。

やる以上は最高のパフォーマンスを出したいんだ。そしてそのパフォーマンスは「日本としては」なんてちっぽけで、安っぽくて、言い訳がましいものではありたくないんだ。それは今いる、ドイツでの自分のパフォーマンスを下回ることを意味してしまう。やる以上は、自分史上、最大・最高のパフォーマンスを出せなければ意味がない。そこに国境や環境が言い訳になる余地はない。今が世界基準で戦っているのであれば、今後も戦う舞台は世界基準でなければ意味がない。進んで後退するような選択肢を選ぶことは出来ない。

自分がどこでだとしてもワインを造るのであれば、それは少なくともこの自分ルールから逸脱するものであってはいけない。そしてそれを自分自身としてやるのであれば、それは自分が本当に集中できるものでしかできない。地球温暖化に対応した、雨の多い日本に向いた品種で、とか、そんなことを言えない。でも、本当の意味で合理的にパフォーマンスを追求するのであれば、そうした環境要因はなるべく有利なものを整えることが大事なのも分かる。

冷静に判断すれば、本当に本気で世界で勝ちに行くのであれば、残念ながらそもそも日本ではダメなのも事実だ。別に日本の生産者が劣っているとかそういうことじゃない。劣っているのは業界としての環境だ。しっかりとしたプロフェッショナルのサポートがある中戦っている選手と、自己流で暗中模索している選手とで出せるパフォーマンスに大きな差が出ることは自明だろう。なら日本に帰るという選択肢を選ぶこと自体が、矛盾をはらむことになる。

こんな情けない文章をだらだらと書き綴っているのは、きっと、自分自身が背中を押してほしいからなのだろう。あいにくと自分の人生はワインだけでは出来ていない。なんなら、一般名詞としてのワインが別に好きでもなんでもない時点で人生に占める割合なんて、言うほど大したものではないだろう。だから、別のものをすべて切り捨ててワインに全振りした判断をすることは自分にはできない。いや、出来るけれど、したくない。もしくはものすごい戸惑いがある。だから今でも、ここにいる。頭の中では、日本に帰ることを半ば以上に肯定しつつ。

自分自身で一番気に入っている、自分という存在の特徴がある。自分がどんなに気に入らなかったり、戸惑っていたりしても、そういう感情面とは全く関係なく、それこそ二重人格を自分で疑うほどに割り切って、極めて理性的にパフォーマンスを追求できることだ。やるべきことの前では自分自身を完全に殺せる、というのは最高の強みだと思っている。

ただ、今回はこの強みが裏目に出ているのだろう。感情的に選択肢を選ぼうとすると、そんな周辺事情の全てを切り捨てて、合理的かつ理性的にその選択を否定してしまう。そしてそんな自分の理論を自分が論破できないでいる。

自分にとってのワインを造る、ということがどういうことなのかはたぶん、分かってる。では次に分かるべきことはなんだろう。自分はたぶん、そう遠くない未来に日本に帰ることをとても強く検討するだろう。ならその時にそれでもワインを造るとするのであれば、何が必要なのだろう。どうやって、ワインを捨てずに道を進もうとするのだろう。決めるべきことは、決めるべき時期は、もうすぐそこに横たわっている。

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