【短編小説】ひとつの傘と雨の帰路
げ。
思わず声が出た。
仕事を終えてオフィスビルから出たら雨が降っていたからだ。
傘は持っていない。
ついさっき荷物をまとめながら窓の外を見た時は降ってなかったのに。
きっと、エレベーターを随分待たされてた間に降り始めたのだろう。
駅までこのまま雨の中を歩いたら全身びっしょりになってしまう。
とりあえず、最寄りコンビニまで全力で走ってビニール傘を買おうか。こういう時、ハイヒールが恨めしい。足も痛くなるし、いっそのことスニーカーで通勤しようか。
そんなことを考えていると
「あれ、Sさん。お疲れ」
後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると同期のKさんがいた。
Kさんは都内の難関大学出身で頭が良く、小学生の頃からサッカーに打ち込んできた爽やか高身長イケメンという、絵に描いたようなハイスペックの持ち主だ。
仕事を覚えるのも早く、春に入社してから3ヶ月で既に他の同期達から頭ひとつ抜けて成果を出し始めている。
先輩からの評判も良く、同期の中でも人気。彼のことを狙ってる同期女子社員も多い。
確かに彼は非の打ち所がないほど優秀だし、惹かれる人が多いのもよく分かる。
けど私は他の女子社員のようにきゃあきゃあ言う気にはなれなかった。
もちろん彼のことは尊敬しているし、素敵な人だと思う。
ただ、彼はあまりに出来すぎている。私のように取り立てて優れたところのない普通の人間が騒いだって虚しくなるだけだ。
私は身の程を弁えているし、現実的に生きている。
そのため、彼とはあくまで同期の一人として普通に接する程度の関係を保っているし、今後もこのままの関係でいられたらいいと思っている。
「Sさん、もしかして傘持ってないの?」
そう言う彼の手には大きな黒い傘が握られていた。
「うん、今朝バタバタしちゃって天気予報見てなくて」
「そうか。Sさんって電車通勤だっけ?」
「そうだよ」
「てことは○○駅から乗る?」
「そうそう」
「じゃあ良かったら駅まで一緒に行く?俺も電車通勤で同じ駅だから」
そんな都合のいい偶然があるか。と思ったが、彼が持っている定期を見せてもらったところ、本当に私と同じ駅で電車に乗るようだ。
いや、それどころか降りる駅まで同じじゃないか。
「なんだ、じゃあ丁度いいじゃん。さ、行こ」
そう言いながら彼は雨の中に傘を差し出しバンッと開いた。
成人男性用サイズの傘なだけあって、私が普段使っているものよりもかなり大きい。
それでも、大人二人が相合傘をするとどうしても狭苦しくなってしまう。
彼の肩が少しだけ雨に濡れてしまっているのが見えたが、彼なりのさり気ない気遣いというやつだろう。わざわざそのことに触れて詫びを言うのもなんだか無粋な気がしたので、あえて気付かないふりをした。
雨が傘を打つパタパタという音や、時折水溜まりを踏んでしまって鳴るパシャッという音などに邪魔されながら、なんてことない会話をしながら駅に向かう。
話せば話すほど彼が人気な理由がよく分かる。
物腰の柔らかい話し方、丁寧な言葉遣い、一緒にいて心地良い空気。
いつの間にか駅に着き、同じ電車に乗った。
幸い混み合っていなかったので、電車の中でも色々な話をした。
私からすれば涼しい顔をして仕事をこなしているように見えていたが、実は先輩に着いていくのに必死で、影で色々と勉強してるらしい。
学生時代のサッカーでは高身長を活かしてキーパーとして活躍してたらしい。
家で最近アクアリウムを始め、小さな熱帯魚2匹を可愛がっているらしい。
自分のことを話すのが苦手な私でも、Kさんが相手だと不思議と次々に言葉が出てくる。
平日は一人暮らしのアパートと職場を往復するばかりで、休日は平日に溜まった仕事疲れを癒すだけで終わってしまうこと。
それでも最近は休日に出掛ける余裕が出てきたので、せっかくのお給料で新しい趣味としてカメラを始めてみたこと。
電車の窓から見えるのはどんよりとした曇天と灰色のビル群なのに、彼と話している間はなんだか世界が鮮やかに見える気がした。
気がつけばあっという間に最寄り駅に到着しており、二人揃って電車を降りた。
改札を抜けた。
どうやらKさんと私のアパートは別方向らしい。
Kさんが、よかったらこれ使ってと言って傘を差し出す。
Kさんが濡れてしまうから駄目だと言ったが、彼は大丈夫と言って笑った。
「じゃ、また明日」
そう言い半ば強引に押し付けるような形で私に傘を渡し、Kさんは足早に去っていく。
どうしよう、何かお礼をしなきゃ。
そんなことをぐるぐる考えているうちにKさんの背中が遠くなっていく。
「あの、良かったらお礼に今度食事でも」
そう言おうと息を吸った時
「あっ、Kくんお仕事お疲れ様!」
Kさんの方から女性の声が聞こえた。
艶がありサラッとしたブラウンのロングヘアを後ろで束ね、手足がスラッと長くスタイルのいい綺麗な女性だった。
「あれっ?わざわざ迎えに来てくれたの?」
「うん、思ったより仕事が早く終わっちゃったから。てか傘はどうしたの?」
「職場を出る時は降ってなくて、忘れちゃった」
「しょうがないなぁ。じゃあ相合傘しよっか」
どうやらそんな会話をしているようだ。遠いのではっきりとは聞こえないが。
Kさんは小さな傘の中に女性と身を寄せあって収まると、雨の中に消えていった。
あの人は誰だろう。
姉?妹?友達?
いやいや、あのKさんのことだし、さっきの雰囲気からすれば彼女でまず間違いないだろう。
そりゃあそうだ。彼女がいて当たり前、いなければ不思議なレベルの人なんだから。
だいたい何を考えているんだ私は。
そもそもそんなことを詮索する筋合いはないじゃないか。
私と彼は職場の同期。
ただそれだけなんだから。
黒く大きな傘をバンッと広げて雨の中へ踏み出した。
さっきと同じ、雨が傘を打つパタパタという音。
ただ、さっきよりも傘の中が随分広く感じる。
無論、今は一人きりで傘を占有しているのだから広いのは当然だが。
けれども、広く感じた理由はそれだけではない気がした。
家路に着きながら、Kさんへのお礼をどうしようかとぼんやり考える。
この傘は職場に忘れて帰ったということになっているようだから、明日にでも職場でお返しするべきだ。
お礼の言葉にちょっとしたお菓子でも添えて。
今の時間ならまだ開いているデパートがあるから、寄っていこうかな。
あ、それと鞄に忍ばせておく折り畳み傘も買って帰ろう。
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