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個人的義経北方伝説の謎と解釈

北海道の、特に日本海側を旅していると否が応でも意識してしまうのが「義経北方伝説」です。
義経は奥州平泉で死なず、北に逃れてジンギスカンになった…というあのお話。

原発廃棄物処分場で色々話題になっている寿都町にはその名も「弁慶岬」という、武蔵坊弁慶が味方の船団を毎日待っていたことから名前がつけられたという岬がありますし、北にある岩内町には「弁慶の刀掛岩」と呼ばれるシンボル的な岩があって、水上勉さん原作の映画「飢餓海峡」でその岩がしっかり撮られてますし、積丹町は義経に捨てられたアイヌ人の女性が海に身を投げたことから女性が通れなくなった、なんてことになったりしてて、後世に生きるkinaは「…義経、いったい何人の女を泣かせたんだ…」と遠い目をしちゃったりしてます。

個人的な見解を言うと、義経北方伝説の多くはアイヌ語から連想を膨らませた誰かが作った物語じゃなかったのか?と思ってます。

寿都町にある「弁慶岬」はアイヌ語の「ベルケイ=風の裂けるところ(風が裂けるだけ強いところ、実際寿都は風が強い)」と呼ばれていたところで、アイヌ語で「ペンケ・パンケ」というのは「下・上」という意味があり、「ペンケ」が弁慶だ!となったのはわかりますが、「パンケ」は義経が「判官(ハンガン)」だったことと、弁慶の主人(立場が上)だったことからつけた…という苦しい説もありますσ^_^;
そういう地名や言葉から誰かが想像を膨らませたのではないか?と。
あるいは、アイヌ民族の失われた民話の中に義経と弁慶の話に似た人物が出てきて、それと混同させていったのかもしれないし。

問題は、この話をいったい誰が作ったのか?ということで。
北海道に和人が本格的に入植したのは15世紀で、そのころにはとっくに鎌倉幕府は滅亡しています。
頼朝の直系の子孫なんて、それ以前に滅亡してますしね。
もし話を作ったとしたら、15世紀以降という可能性が高いんじゃないかと思ったり。
頼朝に恨みがあるにしても、鎌倉幕府が滅亡してから100年くらいは経過しているのに話を作るか?と思ったのですが…よくよく考えてみたら、頼朝は義経を始めとする自分の異母兄弟と親戚、有力御家人のいくつかを滅亡させていました。
その子孫や家来の子孫がこういう話を作って伝えることで恨みを晴らそうとしてもおかしくはないかもしれません。
そういえば、江戸時代に蝦夷地を領土としていたのは松前藩ですが、その松前藩主は武田氏、つまり源氏の血をひいてましたね…。

とはいえ、「義経北方伝説は全部嘘か?」と言われたらそうでもなくて、流石に「義経がジンギスカンになった」というのは色々無理がありすぎなんですが、歴史小説家の亀松さんによると、北方の民族の武将の中に義経と思われる人がいたそうです。

今となっては何が真実かはわかりませんが、義経北方伝説の真実は道産子としては気になるところです。

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