三つの夜に溺れる





第一夜   『 音楽に溺れる 』



曲を作る。やめる。歌詞を書く。やめる。好きな曲を歌ってみる。やめる。目的なくギターを触る。やめる。好きな曲を聴く。やめる。


今日この夜が音楽を消費する夜なのか、もしくは生産する夜なのか。はたまた美味しいご飯を求め、夢現ふらふらと理想を彷徨うだけの夜なのか。そんなの知ったこっちゃない。今夜に適した最善策などもっと分からない。

好きなもの、憧れてやまないものに、今在る自分の存在を脅かされている。

とりあえず思い立ったことからやっていると、朝日の昇る頃にはストンと落ち着いているなんて(それはそれはごくごく稀な)こともあれば、そうでないこともある。勿論そうでないことがほとんどだ。

もし今夜が前者ならば、それは紛れもなく気持ちのいい夜明けになるだろう。このために生きてきたような気さえするだろう。


音楽に触れる時というのは無慈悲を感じる瞬間でもあった。いい音楽をつくろうと思っている時に誰かのいい音楽を聴くと腹が立つし、好きな曲の歌詞を知らなかったり理解していないこともまあまあある。それに、数分間に纏まった誰かの言葉と音はとても無責任だ。身勝手だ。だけどそう強く感じるほど音楽は身に染みた。

人間とはよく分からない。

誰がどんな夜を過ごそうと、私がどんな夜を過ごそうと、一度は暗闇に飲み込まれた街でさえも何食わぬ顔で明け始める。その瞬間にしか昨日この夜の最善策を知ることができない。ならば、気持ちのいい夜明けに可能性と一片の希望かけ、何度でも今日みたいな夜を過ごしてみればいいのではないか。とことん沈んでみればいいのではないか。


そんな当たり前を考えることだけが 最善策 の夜だった。


そう夜明けが告げた。




第二夜   『 酒に溺れる 』



初めて居酒屋でお酒を呑みながら泣いた。

理由は割愛するがそれはどうしようもないことだった。哀しい。苦しい。やりきれない。腹が立つ。結果、涙。情緒、感情がカオス。カシスオレンジは呑みません。


果たして、この世の中にお酒を呑みながら涙を流したことのある人はどれくらいいるのだろうか。

これからの人生を想って。上手いこといかない恋愛や人間関係に業を煮やして。そんなどうしようもなく不器用な自分を慈しんで。

もしこの世に滴る涙が全て喜びや感動だけで調合されていたとしたら、そもそもお酒は不具合を確かめ慰め合うためのものではなくなってしまうのか、とそれはそれで少し寂しい気もする。だがそれは人間の身勝手な甘え、杞憂にすぎない。迎え酒なりなんなりしてればいい。


反動で変に落ち着いた帰り道、呑み足りずにコンビニでお酒とアイスを買い家で呑みなおした。

いい感じになった真夜中、煙草を吸いながら住宅街を余韻と散歩する。コンビニは相変わらず眩しくて目の奥をツンとさせる。三月の夜はまだちょっと寒かった。

なんとか家に戻る。暖かい空気が優しい。何故かまた訳も分からず泣く。いつのまにか就寝。

朝九時頃、目が覚める。起き上がるのがだるい身体を真上に向けぼんやりとした脳内でこう考えていたような気がする。


'' 自分がいつ死んでもいいように遺書を書いておこう 始まりはこうだ 「この手紙が読まれているということは、私はもうこの世にはいないのですね。」、いかにも、すぎて思わず笑ってくれたらそれでいい 人生で一度は言ってみたい台詞ランキング上位っぽい 今の年齢も書いておこう 言葉では伝えられなかったこととか書いてみよう あとは何を書こう あえて長文はやめよう 短くシンプルがかっこいいかな ''


遺書にかっこいいもクソもあるのか?


かろうじて気分も回復し部屋を出ると、財布と眼鏡が階段に散乱、スマホは玄関の外に落ちていた。いっきに全てが馬鹿馬鹿しくなって笑けてきた。もし誰かに、あなたの一部始終を撮っていたから見る?と言われたならば、私の死期が近付いたら見せて、とついさっきまで遺書に書く内容を考えていた私は言うかもしれない。

いつ死ぬか分からないのにね。いや、いつ死ぬか分からないからだよ。矛盾してんな。


結局、遺書は書いていない。

いつ死ぬかなんて分からないのと同じように、遺書に書いた自分の言葉に自信が持てなくなるそんな日がいつくるのかもまた分からない。死ぬ間際になってああ、こう書いておけばよかったな、これも書いておけばよかったな、とそう思ってしまうことがなんとなく嫌だった。

走馬灯はスローモーションのようで一瞬だからきっと。




第三夜   『 会ったことのない誰かの人生に溺れる 』



画像1



全てを抱きしめろとは言わない。

豚の角煮が作れるなら、

世界は救えなくても誰かの人生や価値観を愛おしいと許容できるはずだ。

そうあの人は笑っていた。




第零夜   『 追記 』



タイトル 『三つの夜に溺れる』ここでいう、溺れる、を違う言葉で形容するならば、曖昧になる、ということだと思う。

曖昧にしたいこと。曖昧でいいこと。もはや自分自身の存在を曖昧にすること。曖昧こそ救済。日本人は曖昧が好き。イエスともノーともつかないその間のこと。その間にある無数の揺らぎのこと。そこで漂っていたいだけの夜があること。

説明のできない、若しくは説明なんてしたくない、誰にも分かってほしくない、そんな曖昧な時間を存分に過ごすことが何より大切なんだと思う。


ここでは三つだけだけど、この世には無数の誰かの夜がある。無気力にボーッとしてしまう夜にこそ違う誰かの夜を想像してしまうもので、私はそれが愛おしくて好きな時間でもある。


いつだって訳もなく溺れていい。必死に悪足掻きすればいい。答えなんて出ず曖昧なままでいい。いつか誰かにとっての美学になれば幸い。溺れて失う夜があり、溺れて知る朝がある。


これら全部、そう思いたい私の勝手な曖昧さだ。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?