見出し画像

サーデグ・ヘダーヤト『藁屋の人形』の神経症


 サーデグ・ヘダーヤトは、1903年にイランの首都テヘランで生を受け、以来ベルギーやヨーロッパへ遊学し、短編集を中心に作家として名を馳せていくが、1951年、パリに滞在中に練炭自殺によって自ら命を絶った。彼の作品は、イランの伝承や民話からはっきりとした影響を受けつつも、そうした物語の中の「不条理さ」、日常的な違和感ーある時不意に現実がこれまでと同じようではない風に表出し、しかしそれが何によるものなのかわからないというイリュージョナルな体験-が主題化され、その作品の一部はシュルレアリスムの騎手アンドレ・ブルトンにも感銘を与えたという。さて、今回不慣れながらも分析する短編「藁屋の人形」はこうした日常的に突出する不気味さ、そしてシュルレアスティックな「私」を超えた体験、いわば「運命づけられたストーリー」の語り得ない魅力を代表する彼の作品である。この物語における二人の人物の悲劇は、自我と欲望、幻想というタームを取り巻く神経症的なもつれによって引き起こされている。私がただいま勉強中のラカン理論を踏襲することでこのことを解き明かしていこうというのが本稿の目指すところである。


あらすじ(がっつり結末まで)
 主人公の男であるメヘルダードは、6年にわたるフランス留学を終えようとしていた。かれは学校ではその勤勉さと礼儀を讃えられ、友人たちが賭博や情事に耽る中、黙々と自身の勉強を進めていた。彼は幼少期から厳格な家庭で大事に育てられ、母親以外の女性と触れ合うことはなく、両親による箴言と訓戒を叩き込まれてきた。それゆえに、性格は陰気で、女性に対する大きな恥じらいから、恋愛に身を投じることもできなかった。それ上メヘルダードには、両親によって許嫁として決められた女性がいた。その名はダラフシャンデ。しかし、彼は彼女に愛を感じることはなく、留学に出かける際にダラフシャンデが涙を浮かべて見送りに来ようと言葉をかけてやることさえしなかった。
 さて、イランへの帰国を前にして彼は有り金をバッグへ詰めて初めてのカジノを経験しようと家を出るが、どういうわけだか通りがかった仕立て屋のショーケースの中にいる「マネキン」に猛烈に魅了された。あっという間に彼にとってそのマネキンは、単なる物質ではない「美の天使」とも言える存在になってしまった。結局メヘルダードはカジノで使う予定だった金を叩いてそのマネキンを買い取り、イランへ帰国するのだった。
 帰国後も、彼のマネキンに対する思いは変わらない。毎日夜になると部屋に閉じこもってマネキンを前に酒を煽り、酔いが回ってくると静かにマネキンの胸や頸を愛撫するのだった。やがて哀しき許嫁であるダラフシャンデは、マネキンの魅力に興味を持つ。そこで、自分の髪型やメイクを少しずつマネキンに寄せていくようになった。メヘルダードは、そんな許嫁に困惑しつつも、相変わらずマネキンに愛を語りかけるのだった。ある夜、いつものように酒を飲みながらマネキンの肌に触れようとすると、彼は語りようのない違和感と不気味さを感じとる。次の瞬間マネキンは彼に微笑みかけながら、彼の元へ歩いてきた。メヘルダードは咄嗟にピストルを向け、3発の弾丸を放った。地面に血が広がり、メヘルダードが恐る恐る「彼女」の頭を上げると、それはマネキンではなくダラフシャンデだったのだ。

 さて、この物語における「狂気」とはなんだろうか。あるいは、この悲劇を生み出している「症状」はなんだろうか。物語を辿ると、2人の主な登場人物それぞれがどこか不気味さを抱えていることがわかるだろう。一つは主人公のメヘルダード。彼は生身の女性には興味がなく、その代わりとしてマネキンに熱烈な愛欲を抱く。そしてもう一つの症状はその許嫁であるダラフシャンデである。彼女は取り憑かれたようにマネキンと同一化しようとし、しまいには一見見分けがつかないくらいにまで至ってしまう。ではこの二つはどのように説明することができるだろうか。

⑴「女は存在しない」

 「女は存在しない」というのはラカンの言葉である。そして、特にフェミニズム界隈からは大きな批判を呼ぶ言葉でもある。しかし、これはあくまでその項が交換可能であるような構造という理論形式上のものであり、現実における性差(体の作りや最近よく言われるような脳の作り)とはなんら関係がないと言ってしまっても良いだろう。つまり、身体的な性差は存在するにしてもそれをどのように認識してどのように自我構築において位置づけるかというものは人それぞれの特異性に根ざしているために、たとえラカンの理論が見かけ上は「男根主義的」だとしても、それは決して男根という身体的な特徴による決定論であることを意味しない。そうした了解あるいは過程のもと論を進める。
 「女は存在しない」というテーゼの根底には、そもそも女の欲望(あるいは享楽)と男の欲望(あるいは享楽)の根本的な不一致という問題がある。男の欲望はいわばファルスの追求と結びついており、その享楽はファルス(伸び縮みするもの、硬くなったり柔らかくなったりするもの、目に見える変化があるもの、ある特定の価値軸に根ざしてその価値の増減が確認可能なもの)に根ざしている。というのも、エディプス・コンプレックスを経て男性は(母)なる超自我の根源的欠如を埋めるようなものを持つ存在になろうとするからだ。つまり、ファルスになることからファルスを持つことへの移行が経験される。しかしファルスとは本質的に欠如のシニフィアンであるから、それは常に主体の欠如を埋めてくれはせず、一時的な代替物としてしか機能しない。それゆえ、ファルス的なものは常に移り変わる。もちろんラカン理論の中では、欲望はファルスというよりは不可能性としての現実界における原初的享楽の痕跡、あるいは残り滓としての対象aの幻想によって方向づけられるという風な形へシフトしていくが、そうした理論的変遷においても、男の欲望自体の構造は変わらない。男の欲望は幻想に支えられているのである。
 一方で女の欲望はどうか。この点では私も語れるほど知識がないので詳しく断定することはできない。それどころか、このようにも言えるかもしれない。女の欲望は語ろうとすれば逃げていく性質を持つ、と。男の欲望するものが、欠如を代替しようとするような、享楽の残り滓によって形作られる幻想でしかないのに対して、女は欠如それ自体を欲望する、あるいは欠如それ自体から享楽を得るとされる。女性はエディプスコンプレックスにおいて、「ファルスを持つことができない」という根源的な経験を経て、ファルスを持つものを持とうとする。そのためにどうするかというと、ファルスを持とうとする欲望の対象になるために、「仮装としての女性性」を纏うようになるのである。ファルスとは先ほども述べたように、ある種の幻想であり、決して事物的な完璧なるファルスが手に入ることはない。手に入ることはないという神秘性を纏うからこそ、ファルスは欲望の原因になりうるのだ。ファルスへの欲望とは、そうした神秘性への欲望に他ならない。そして、(いわゆる家庭的だとかセクシーだとか美容に気を遣っているだとかの)女性性とはそうした神秘性の存在を暗示するための「擬餌」なのである。そして、女性の女性性の欲望は、このように主体自身の欠如が神秘性を帯びているということに発する享楽を求めているのである。それゆえ、男が女に関係する時に欲望する女の対象は、正確に言えば女そのものではないのだ。男が欲望する女は、「欲望する男の視線の中にしかいない」のである。だから、私たちが女であると思っているものは常に幻想である。女は常に、その欲望の外にいるのである。これが、「女は存在しない」という言葉の真意であると考えている。女と名指されるものは男の中にしかいない。
 さて、以上の論を踏まえると、「藁屋の人形」が第一にそうした「女の不在」を表象するものであるがわかるだろう。メヘルダードは女性が苦手である。話そうとすると顔が赤くなってしまう。そんな彼がマネキンに対して、あれほどの愛欲を抱いたのは、マネキンという自分を何か魅力するものの「ただの物でしかない存在」が、彼の幻想を投射するものとして欲望を掻き立てたからに他ならない。ジジェクがある本の中で、「ブラックハウス」という小噺を用いて論じているように、「日常的なつまらないもの」は、しかしながら、いや、むしろそれゆえに、欲望を掻き立てる幻想が投影されるのに最適なのだ。それによって、主体は自分の欲望を表現できるようになる。そうした欲望の発現を促す対象は、常に細部として現れる。その細部が、つまらない「ただの物」を神秘的でエロティックな対象に変えるのだ。ラカンはそうした「些細な細部」に対象aという名前を与えた。メヘルダードは、「ただのもの」でしかないマネキンに、物的な何かの細部(それは皮膚の質感だったかもしれないし、金髪の人工的な髪の質感、目かもしれないし、もしくはマネキンを物理的に構成している陶器かもしれないし絵の具かもしれない)が与える神秘的な幻想を投射することで、愛欲を発現することができたのである。だから彼は物語の中でマネキンを「完璧な女性」と揶揄する。しかし、そこにあるのは実はマネキンであり、「女はいない」のである!彼のマネキンへの歪んだ愛は、実は私たちの日常的な「性的関係の不可能さ」をこれ以上ないほど具象化しているのである。だいたいの男は、自分のパートナーという生身の人間を「女として欲望」し、その幻想に閉じ込めておこうとすることを考えれば、マネキンを愛することはむしろ社会的には害の少ないことかもしれない(笑)しかし、なぜマネキンを「撃ち殺した」のだろうか。本来であれば、幻想が打ち砕かれた時、その崇高な対象はリビドー経済から除外され、つまらない日常的なものに堕ちる。だから、わざわざピストルで3発も弾丸を撃つ必要もないはずだ…。その幻想を解いたのが、私でもその崇高な対象でもない、象徴的なものであったなら、、、、。しかしこれに関しては、次のダラフシャンデの議論の後に戻ってくることにしよう。

②ヒステリー、そして「知っていると想定される主体」と転移

 ダラフシャンデはなぜ、あれほどでに熱狂的にマネキンに同一化しようとしたのだろうか。もちろん、自分のパートナーとなる男性が、生きている女性としての私ではなく、ただの陶器製の人形にすぎないマネキンを欲望するのは不快なことだろう。しかし、通常私たちはそのような時に一方では嫉妬し、気を引こうとするのかもしれないし、他方「こいつ頭おかしいんじゃないの」と「引く」のではないだろうか。しかし、ダラフシャンデは彼の行動に不気味さを覚えるというよりは、その人形に純粋な興味を覚えはじめるのだ。しかも、彼女が容姿を似せていくことに対してメヘルダードがそれを無視し、なにも反応しないことが、ますます彼女の熱狂を掻き立てるのである。これはなぜか。ここで、「転移」と「知っていると想定される主体」という概念を導入しよう。この概念は、ラカンによれば精神分析を行う分析家とその対象である分析主体(患者)の関係にみられるものである。分析主体は、分析家をどのようなイメージとして描くか。それは、ある意味で「全知の存在」というイメージである。少なくとも、「私の知らないことを知っている主体」としてイメージする。精神分析の自由連想法において、分析家は決して分析主体の話すことに対して解釈や意味づけを行わない。そして、分析主体が自身の意味の全体性の中で用いる言葉に対して、不可解な反応をする。例えば、分析主体が意味があると考えて発した言葉に反応せず、何気なく発した言葉を突然問い返してくる、などである。そうすることで、分析主体の閉鎖的な全体性にヒビが入る。すると、分析主体は考える。
「どうやら、私の知らない「意味」の体系、「知」が存在するのではないか。」
そしてさらに、
「分析家が不可解な反応をするのは、この私の知らない知の体系を知っているからだ。」
と考える。つまり、「知っていると想定される主体」を、分析家に転移するのである。簡単に言えば、分析家は「大文字の他者A」として振る舞う。
 このことがダラフシャンデの行動をどのように説明するだろうか。実はここにはダラフシャンデによる、「知っていると想定される主体」のメヘルダードへの転移が見られるのである。そしてこれは、ヒステリーの症例としてよく見られることとされる。
 ヒステリーの根本的な問いは、「私はなぜあなたがいうような私なのか」言い換えると「何がわたしをあなたのいうような私にしているのか」。そして、もし、私がどのように私として象徴的秩序に登録されているかということが、わからない、あるいは納得いっていないならば、私は私が理想とする誰かが、どのようにしてある象徴的秩序においてその誰かとして登録されているのかを知りたいと欲望するのである。つまり、私のパートナーであるメヘルダードが、私ではなくマネキンという他者を欲望しているのは、私が知らないメヘルダードの欲望の対象となる「何か」をマネキンが持っているということになる。つまり、メヘルダードの欲望を喚起するものは、私が知り得ない「知」であり、メヘルダードはその「知」を知っているからマネキンを愛すのだ、と考えるのだ。つまりここでは、メヘルダードが「知っていると想定される主体」として認識され、ダラフシャンデは自分では認識できない魅力、その「何か」を獲得するためにマネキンを真似ることに熱狂するのである。そのため、ダラフシャンデのこの行動は決してメヘルダードの木を引くためのものであるとか、自分の美意識を高めようとしているのではない。彼女は、自分がマネキンに「なる」ことで、メヘルダードという「象徴的秩序」あるいは「大文字の他者」のうちでマネキンが占めていた位置に登録されようとしたのである。それゆえ、マネキンに自らの容姿を似せようとするダラフシャンデに対するメヘルダードの冷たい反応は、彼という「象徴的秩序」の中でまだ彼女が、マネキンと同じ位置に位置づけられていない、つまりその「何か」を得られていないことを強調させるとともに、よりいっそう同一化への願望が掻き立てられるのである。しかし、結局その何かは彼自身の幻想であり、実際に彼の幻想を具現化するような女は「存在しない」。そのため、彼女のヒステリー的な願望は欠如しかもたらすことはない。まぁ簡単に言えば、フロイトのかつての患者であったドラのように、「女性らしさとは何か」という問いがダラフシャンデの関心にあったということだ。彼は何を以て私を女性として見てくれるのか、そしてマネキンが持つ「女性らしさ」とはなにか?

③現実界の表れと殺意

 さてこれまで、男の欲望に潜む根本的な欠如を具現化したものとしてのメヘルダードと、ヒステリー的な転移と同一化への願望というダラフシャンデの「症状」について長々と述べてきた。最後に、メヘルダードの3発の弾丸の意味を分析しよう。
 なぜ、幻想が剥ぎ落ちた対象が「ただの陶器」であったのにも関わらず3発も弾丸を放ったのだろうか。1発の弾丸なら、象徴的な意味のみしか持たなかったであろう。つまり、幻想が剥ぎ取られ、愛欲を感じていたものがただのものでしかないことに気づいた馬鹿らしさとそれを嘲笑するという意味での弾丸である。しかし、3発の弾丸が意味するのはその発砲が象徴的な意味にとどまってはいないということだ。裏を返せばそれは極めて「現実界的な発砲である」。
 ジジェクは、映画における「宿命の女」の悲劇について、それは女の魅力というものが、幻想であったこと、そしてそれが仮装としての「女性性」でしかなく、そこにはやはり空虚が広がっているということに気づいた主人公の男の絶望といまや空虚であった女の拒絶とであるとして論じている。男が魅力を感じていたものが、女によって作られた女性性であること、女はその仮装としての女性性によって男の幻想を「支配していた」ことに対する恐怖なのである。つまり「存在のない女の存在」は、男にとって外傷的な、語り得ない空虚の穴、もっと言えば言語と幻想によって代替できない現実界の穴として現れるのである。「藁屋の人形」の話においては、いつもと同じように幻想を投影して愛撫しようとしたマネキンが、人間的な表情や質感、動きによってもはや「ただのものではない」ことを、つまり彼が投影してきた「女」が存在しないことを示す。最後のシーンでこのマネキンは実はダラフシャンデである。しかし、ダラフシャンデはメヘルダードという「大文字の他者」における「女性とは何か」という「何か」をいまや自らの仮装として身につけてしまった。メヘルダードから、その幻想を奪ったのである。そしてその時点でその何かは何かであることをやめる。メヘルダードにとってのマネキン(の姿をしたダラフシャンデ)は、彼の象徴的秩序において、幻想によって隠されていた空虚の穴ー現実界の穴となって襲いかかってくるのである。もちろんメヘルダードは倒れたマネキンの頭を上げるまで、それがダラフシャンデだということには気がつかない。しかし、そのマネキンが今や彼の思い通りになる幻想の対象ではないと言うことが判明した時点で、現実界が彼の方を見ているのである。だから、彼の発砲は1発の象徴的な弾丸でマネキンという「ただの物」を「壊した」のではない。そうではなくて、突如幻想が拭われて現れた現実界の異形のラメラを、3発の過剰な弾丸で「殺した」のである。
 ダラフシャンデは殺されたが、マネキンはやはり無傷のままである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?