閉鎖病棟日記「外泊をする」

 早朝からやっている喫煙可能店へと歩く。その一キロ程度の道のりは不慣れな故か携帯のマップがてんで方向違いな方向へと導く故か、酷く自分を苛立たせる。ようやく辿り着くとそこの喫茶店は気難しそうな店主が、その短く刈り込んだ白髪を輝かせながら忙しそうにしている。入るのにも躊躇し、入ると喫茶店のBGMとして最適解のFMラジオが流れていて、否が応でも今日は平日だということを伝えてくる。アウトロに被せるように入るDJの嘘っぽいハスキーボイスが僕の居心地を悪くさせ、夜を明かしたバーとの距離が一キロ以上にも感じられる。
 僕は頼んだモーニングセットを前にしながら、文章を書いている。あまりにも冷めると怒られるのではないかと、時折暖かいアメリカン(だったと思う。僕はコーヒーに関して、名前がたくさんあるという以外の知識を持たない)を啜る。煙草も吸えるのに、もうバーで吸ってきた一箱のことを考えると吸う気にはなれない。


 前日、僕は美容室に行くだとか洗濯だとかの用事をでっち上げて、外泊の予定を取り付けた。外に出る権利というものがあるのを知れるのは病室と刑務所だけではないか。幸いにも僕は前者しか知っていないけれど。
 そのさらに前日はカウンセリングがあり、エイプリルフールに託けて本当のことを嘘というていにして誤魔化しながら語ろうと思っていたのだけれど、カウンセラーが体調不良らしく先延ばしになった。それを伝えに来た看護師に「僕はいつも体調不良ですけどね」と言った。四月から病棟に入ってきた新米看護師は曖昧に笑って、それを答えとした。
 甘い嘘も苦い嘘もつきたくない。ただ、それが本当であれ嘘であれ、自体のリズムが雨だれのようにビートを刻む語りで喋れたらいい。僕には幸いにも──不幸にも?──嘘をつくのに言葉を弄するのが苦手なたちだ。だから僕は小説家にはなれない。僕が嘘をつく時は下手に言葉を使わない。ただ、曖昧に笑う。それをどう捉えるかは僕の知ったことではない。
 本当のことを言うのも苦手だ。カウンセラー相手なら尚更。分析されるのだと思うと気恥ずかしくて嘘だと言うことにしないと喋れない。その悪癖によって、カウンセラーにも医者にも本当の自分を当てられたと思うことはない。ただ、僕によく似た人の似顔絵を描いていると思う。それ故に僕はなんとか通院できている。

 午前九時半に病棟を出る。一キロ程度歩いたところで電話がかかってきて、薬を持って行き忘れているので戻ってきてください。と言われる。まあ、そういうこともある。日々そんなことばかりのような気がしないでもない。その度に押す岩もないのにシーシュポスの気分になる。病棟を出た時には高くなった陽が僕の身体を照らした。汗をかいた。

 自分のアパートに戻ると、そこはひどい有様で、右にダンボール、左に薬の瓶、下には酒の缶が転がっている。よくもまあこんなところで生きれたものだと、二ヶ月程度前の有様を思い出す。それが生きていたと言っていいものなのかはよくわからない。ただ、今生きているのなら過去も生きていたという理屈では生きていたんだと思う。死んだ方がマシだと思いながら意識を恨む日々を、生きていたとすることは生への冒涜ではないか? そんなことを口を尖らせて思う。誰かにそう言われたわけでもないのに。
 部屋を片付けるのに、薬の力がなくてはやっていられないと思い、そうした口実によってまた簡単に薬を酒で流し込む。簡単に焦燥と狂気を引き出すそれはとても量の調整が難しい。一錠。プラス一リットルの酒。寝ない為のエナジードリンク。そうして流し込んだ薬の焦燥感──人によってはそれをアッパーと呼ぶ──のおかげで、どうやらここは部屋らしいと呼べる程度に部屋を片付けることができた。なんとなく、スーツを買いに行こうと思った。格好いいスーツがあれば、きっと僕は人前で歌える。それは飛躍した考えのようだけれど、その時の僕には真理に思えた。
 金もないから、中古服の量販店へと行き、適当にスーツを眺める。これがよかろうと思う。よし、試着だ。そこで可愛らしいワンピースが目に入る。これも試着だ。
 ワンピースはとても可愛らしく、そして僕が着てもまあ許されるだろうと思えた。これはいくらだっただろうか? 値札を見ようとする。おかしい。脱げない。
 その服はどうしても脱ぐことができないのだ。服というのは最も小さい牢獄である。と、自作の名言さえ飛び出る始末。そしてこう続く。服という牢獄から出た時だけが本当の自分なのかもしれない。
 そんな名言が飛び出ようと、服が脱げないことには違いがない。スーツは試着さえ出来ず、そのままレジに行き、
「すみません。脱げなくなったので、これ、買います」
と店員に伝える。店員は平静を装い、「ああ、そんなことはよくあるんですよ」みたいな顔をして値札を切り、レジを打ってくれた。
 僕はすっぴんのまま、ボサボサの頭でワンピースを着たまま歩く。バーに行こうと思った。こんな笑い話を陳列できるのはあそこしかないのだ。僕には憂鬱な時に笑い話が飛び込んでくる幸運があるのかもしれない。桜の木で首を吊りたいのに、周りにはクリスマスツリーしかないというふうに。
 家に帰り、メイクをする。家には都合よく、ワンピースに合う革ジャン(フェイクレザーだが)があり、羽織るのに適していた。心が弾むような心地になりながら、僕は喉が渇きコーラを飲む。鼻水のような味がした。午前飲んだ睡眠薬のせいだ。

 味がわからない状態で飯を食うことはいささか無礼のようにも感じられたが、その時までには治っているだろうという見積りもあり電車に乗る。電車は僕の心に反して遅延し、各駅停車しか走っていない。反対方向の電車には鮨詰めの人が並んでいて、僕はバーというものが夜にやっていることに感謝した。

 バーに着くと、保険屋のバーの客が店主の保険の契約を詰めていて、僕にはそれがいつか来る不幸の予約に思えた。僕は予約してもいない不幸が毎日家を訪ねてくるのだが。
 だが、保険屋の彼はとても好感の持てる人物で、保健というものに悪印象を持っていた自分を恥じた。保険というのはいつか金が入ってくるものなのだ。そして不健康は誰の未来にも予約されている。
 時間が経ち、客も増える。バーで流されている音楽は客がとっかえひっかえに変え、店主もそれを変えに動き、ひっきりなしに人々の脳内BGMが現実においてシャッフルされていくのに不快感はない。そしてTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTで定着する。ここはチバユウスケの声が流れていれば最適解なのだ。そしてそういう場所が世の中にいくつもあるのだろう。天国のチバユウスケにはそのことだけでも知っていてほしい。知っていただろうけど、その数は思ってるより多いですよ。
「いやー、チバ、死んじゃったんだなあ」
 今年に入ってからの店主の口癖である。会ったこともないチバユウスケの不在はそれぞれの胸で大きな穴になっている。アルバートホールを埋めるにはその穴がどれくらい必要なんだろう。天国ではビートルズは聴けるのだろうか。聴けなかったらそこは地獄とおんなじだろうけど。
 ビートルズは当たり前に聴ける天国なバーで、それぞれがそれぞれの話をしている。彼らは確かに奇形で、それを拠り所にしている。奇形で、それを愛撫し合っているような人々。一夜単位で変わるその奇形たちはそれでいて一つの空気を作り出し、モザイク画みたいに美しく見える。病棟とはかなり違うな。奇形であることを誇れること、誇ることのできる場所。世の中が多様性だとか言うことに何か言いたいことがないわけではないけれど、これが多様性であることを理解しない人の多様性の意味と我々の多様性はきっと違っているだろうということだけに留めておく。

 笑い話を披露することができ、安堵した気持ちで飯を頼む。金はなかった。ツケでお願いしますと言った。人に甘えることができる場所というのはとても大事だ。飯を食べると、ちゃんと味がした。美味しいと思い、美味しいと言った。店主は嬉しそうに「凪は死ぬ才能がないんだからさ、生きてくれよ」と言った。店主は僕から口をついて出た「死ぬ才能が僕にはなかった」という言葉が好きで、僕に会うといつもそう言った。「生きてくれよ」と恥ずかしげもなく言える人間が、この世の中にいくらいるだろう。僕は友人が死のうとした時、何も言うことができない。ただ死ぬ才能が彼にないことを祈るばかりだ。「責任は?」とか要らぬことを考えてしまう。でも、死にたい友人に必要だったのは「生きてくれよ」の一言だったのかもしれない。

 客には内面外見問わず、そしてその両立さえできる美しい人々が沢山いて、僕も外見や内面や文章を褒められて満更でもない。インスタを交換した何人かに店主は言った。「凪のブログ読んでくれよ。才能あるから」僕はその言葉を真実だと証明するために、こうして朝っぱらの喫茶店で頑張って文章を書いている。コーヒーは二杯目だ。店に入るなり文章をスマホで延々書き続けるワンピース姿の僕を、店主が視界の隅で捉えているような妄想に陥る。FMラジオは移り変わり、朝陽と呼ぶには青みがかった空が街の上でぼんやりしている。煙草を吸い始めようと思う。それでは、また。

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