見出し画像

星の巡りもわからない

最近占いに行ってきた。
将来のことが不安になったというわけでもなく、自分ってどういう星の巡りで生まれてるんだろ~と思って占いをしてもらった。結果はけっこうおもしろく、もらった内容やれ結果やれを話したら友人には「あってるよ!」と言われた。
第三者から見てそうなのだからあの占いは合っているのかも。

スピリチュアルなものが好きなのかもしれない。実感がない。
宇宙が好きだ。星が好きだ。それはスピリチュアルなものなのか? 違うと思う。実在するものだし。けれどホロスコープは実在する星々を基礎に置いたものだと思うし、実在していないとは言い難い。
ホロスコープで占いをしたらスピリチュアルになるのだろうか?
私の感覚からしてみると、それはNOだ。ホロスコープの実在性からではない。星の巡りから考えられているわけでもない。ただそう。私の考えるスピリチュアルとは異なるから、NOを書き出す。

じゃあスピリチュアルってなんだよ、という話なのだけれど、これまた難しい話だ。
精神世界だったらずっと抱え込んでいる創作たちがそれに該当する。ずっと頭の中から出てこないそれらは精神世界として広がり続けているし、収縮する気配がない。だからなのか、もう、いっそのこと、書き出してしまえと思うのだけれど、まあ上手くいかない。精神世界を現実に文章というかたちで固定化するのはなかなか労力のいる作業になる。
スピリチュアルなもの。占いだとか、精神に関与するもの。そういうものだったら、まあ、持ってはいるけれど信じないとも言い切れず、あるのならば素敵だ、と答えるしかないのかもしれない。
けれど自分がスピリチュアルなものを使って何かを掌握する気配もない。ただそこにある、という感覚だけを私のために抱えて生きているだけ。誰かに広め伝えたいという精神世界のことをなんとか文章にする力が欲しい。それさえあれば、頭の中はちょっとだけ静かになるはずなので。
なんだか結局レベル的階層の問題になってきた。スピリチュアルも結局は実力社会なのかもしれない。納得させたら勝ち。そうでなかったら排他される世界なのかもしれない。

占い、よかったなあ。
基本的には自分を肯定してくれるので、気分がよくなる。「こうしたらもっといいよ~」という言い方をするので「やってみっか!」という気持ちにもさせてくれる。
でも占いの本髄は話術なのだと思っている。いかにホロスコープ、タロット、手相の結果を明るくオブラートに包んだりだとか、はっきり伝えられるタイミングを見極める何かが必要なのだ。それはかなり難しい話であるけれど、やってのけるのだから占い師はすごい。
話術について天然極まりないと言われたことがあるのを思い出した。天然らしい。自分は天然らしい。そんなこと、おもったことがなかったのでびっくりしている。う~ん、雲行きが怪しくなってきたぞ。

よろしければサポートお願いします! サポートは紅茶・活動のために使われます。