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まさに今ここで✗にたい。

まさに申し訳なさで生きて、申し訳なさで死にたくなっていることに気づいたので、書き残しておく。

基本死にたがっている。希死念慮は常に私の影に寄り添っていて、どうしようもない。突然襲いかかることもあるし、静かにしていることもある。割合的には静かにしていることが多い。でも、本当に突然暴れ出して思考を乗っ取る。
こうした一連の流れはだいたい友人を巻き込み、時に心と友情を破壊するのでよろしくない。よろしくないと書いたけれど、どうやって突然やって来るものに対処をしろという話か。でもどうにかしないといけない。大変なことに。もうどう生きていいかわからない。とにかくこんな人間に関わるぐらいなら、最初から関わらないように死んでおいたほうがいいのではないかと思う。
けれど、死んだらまず親が悲しむ。次に友人が悲しむ。死についてやっぱり亡くなったか〜なんて軽いことは誰も言えない。とにかく、人と関わっている時点で何かしらの影響を与えることは確かで、常日頃それをひしひしと感じている。私は、そんな事が起きるのも申し訳ないから、死ぬのをやめる。
具体的な方法を考えて、その方法で誰に影響が出るかを思い、多くは、というか思いついた全てについて誰かに迷惑がかかることを気づいて、やめる。その繰り返しでなんとか生きている。

生きててほしいんだよね、と言われたことがある。
それは些細な会話の中で、特定の人間として私が挙げられたわけではないのだけれど、そう思う人もいるのか、と思った。
私は他人が死ぬのを許していないし、早く死ぬなら私が先だと思っている。私が死ぬ前に死ぬのはやめていただきたい。これはかなり傲慢な考えだ。いつだって平等に、不条理にやってくる死については、誰も予測がつかないのだから。
でもその人は、私でなくても、知り合いの誰かについててぽつりと生きててほしいな、と思っているわけだ。
いい人だと単純に思った。
私が挙げられているわけでもないのに、なんとなくこの人の中で私もそうなのだろうか、と思った。思ったところで私のこびりついた思想は変わることはないのだけれど、申し訳ない気持ちになった。ああ、これは生き永らえるタイプの申し訳なさだ、と気づいて、未だにその人のために生きるのかを考えている。大仰すぎる。でも、そう聞いて、なんとなく嬉しい気持ちに勝手になっていたのは事実だった。

生きててほしいというのも傲慢な考えだと思う。私は常日頃から死にたいので、そんな無理なこと言うなと思う。そんな事を言うのなら私の生存に関わること、面倒を見るのか、責任を負えるのかと重たいことを言いたくなる。
早く、早めに死にたくて仕方がない。不慮の事故がいい。でも死にかけたことがないし、そういった偶然はなかなかやって来ない。
責任を負ってほしいと書いたけれど、その人に支えられないわけでもない。いや、嘘だ。支えられたらいいと思う。誰でもいいのかもしれない。分かち合えたらと思う。私の死にたさと誰かの生きたさで相殺できればと思う。

幸運なことに生きてね、とつくづく言われている。たまに会ったり、話す人にはよく言われる。多分本当に死に近づく行動を、こいつならやりかねないと思われているに違いない。多分変に行動力があるから、勢い余ってころっと死ぬと思われていると思う。間違ってなさそうなのが恐ろしい。
他人に大変依存して、執着をして生きているのに、なんでこんなに手放すようなことを考えて実行に移そうと考えるのか、未だに自分でもわからない。不謹慎なことを承知で、私はぼうっと希死念慮と対話をしている。だいたい口論で負ける。現実でも口論に勝ったことがない。
生きていればいいな、は嘘だ。綺麗で優しい思想だけれど、嘘だ。私にはそんなこと思えない。私はぼんやりと思う。
生き永らえない私が良い。できれば何も予定がない頃、私が追いやるすべてに解放されている頃。私が何もしなくていいと信じられたときに、さくーっといなくなりたいのだ。
それを一言簡単に生きててほしい、なんて、私には思えない。いや、簡単ではなく、信じているからこその言葉だと思うのだけれども。でも、嫌だ。私は責任がほしい。人恋しくなっている。まだ知らない幸せの味を知りたくて、でも知れないから口の中を噛む。ストレス。馬鹿みたいだ。新年早々同じところを四回噛む。ギネス記録かも。そうだといいね。

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