見出し画像

近況、堆い電子媒体の山

言葉に出来ないこと続きだ。
だから小説もnoteも書いていなかった。何かを書こうとすれば形容し難いこれじゃない感に包まれて、書く以外のことをしているのになんとなく書くことが浮かぶ日々だった。
面倒だけれどもこれが自分なのだと思う。書くことから逃げられない。結局書く姿勢になれば、否が応でも書くことになる。書くことがそこまで決まっていなくてもつらつらと書ける。そういうものになっている。

昔はエッセイめいたものを書くことによる忌避感があった。自分のことを洗いざらい書くようになっても、きっと自分の中には目立ったものがなくて、病んだ自分しか存在しないのではないかと思っていたからだ。まあ、その推測は合っている。健康に書けたと思った日があっても、結局病んでいるという第三者からの感想を頂いてしまっている。
自分が病んでいることについて悲しむことはもうほとんどなくなったのだけれども、たまに自分が健康じゃないことに気がついてあ〜あ、と落ち込むことはある。悲しむことと落ち込むことは同義ではないと思っている。悲しむことは自罰ではないし、落ち込むことは自罰だと考えている。
エッセイめいたものを書くことによって、自分の思考が明瞭になるのはかなり嬉しい。
多分声に出すよりもキーボードに向かっているほうが素直なのだと思う。多分そう。結構そう。
アナログに書き出してもいいのだけれど、ブレインストーミングにしかならない。まとまった散文(それはもう散文ではないのでは?)を考えると、やっぱりキーボードと向き合っている時の自分が一番素直なのだ。

お腹が減った。

ここ最近の創作活動はおとなしい。文章が思いつかないのではなくて、リメイクであったり推敲であったりを繰り返しているから、書いた気がしていないのだ。普通の人は創作をしないんだから、もっと誇れ、みたいなことを言われても、書いていない日々は書いていない人にしかならない。作品単位で繰り出される出席票なのだ。
何もしていないことを、素晴らしいと讃える文化には慣れないと思う。何かをしていないと落ち着かない。けれど体力がない。倒れる。這えない時もあるけれど、たいてい這ってでも何かをしようとする。すごく辛い。でも成果物が目の前にできると、感動する。
馬鹿げた幸せだな〜と思う。自分の身を削ってでもすることなのだろうか? いや、そんなことはきっとないのに、必死になってそうしているから面白くて仕方がない。面白いと思わないとやっていられない。自分の選択だから、と言い訳を差し置いて。

コメダ珈琲店(やっぱりnoteはコメダで書いている時が一番捗る)で少なめに注文をしたら、思ったより食べれてしまって困っている。

最近は成果物をさらに役立てるにはどうするべきなのかについて考えている。
役に立つというのはお金にする、という意味もある。自分の文章が売れる、とは常々思ってはいなくて、けれどしっかり役立てられる酔う体裁を整えられたのならばいいなと思っている。
というのもiPad一式が欲しいからだ。新型にしようとしたらペンシルとキーボードまで買い替えることになり、20万は軽く吹っ飛ぶ計算になってしまった。え、なんで? 円安。あ、はい……
こういう時に社会だとか算数だとか、当時学んでいてもどうするべきかわからなかった知識が総動員されていることに気づく。学び直しという文字が浮かんで、やりたいことにストックされる。
話が戻って成果物を役立てることについて、やっぱり公募かなあ、と考えたので最近は推敲作業に精を出していた。自分の文章が基本好きなので、私の推敲はあまり役に立たない。けれどどうにか読み直し、修正点を見つけ出してひたすら削除と加筆と整合性をみる日々だった。一番整合性が気になるところではあるけれど、これは自分じゃ限界があるのではないかと思う。
うまくいったらいいな〜と思う。思うだけ。

追加で注文をしようとして、自制心が働いている。

勉強もしたい。やりたいことにストックされている数々の中で、最もお金がいる作業な気がする。資格用のテキストと問題集、受験費用。
YouTubeに情報があると言われているけれどもやっぱり文字で何かを追いたい人間なのだと思う。そのせいでちょっと面倒かつややこしい方法である物理媒体をとっているのは言うまでもない。結局ながら勉強にするくせに。
浪費の癖をどうにかしないといけない。
節制の日々にしたい。

定期的にここも更新しようと思っているのだけれど、やりたいことの最後尾に近いのでおざなりだ。
ゲームが楽しい日々です。

よろしければサポートお願いします! サポートは紅茶・活動のために使われます。