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機動戦士ガンダム F91のエンディングに見る、富野由悠季監督の技術への祈りとニュータイプ観の変容

「機動戦士ガンダム F91」は1991年に公開されたガンダムのオリジナル映画だ。当時企画されていたTVシリーズのプロローグとして制作され(その為終わりに「THIS IS ONLY THE BEGINNING.」というテロップが表示される)、シーブック・アノーの戦いがスピード感を持って展開される。ストーリーの情報量を畳みかけつつ飽和寸前で見せていくのは富野由悠季の真骨頂だ。

シーブックの成長劇を軸に、貴族主義などの題材を惜しげ無く盛り込んだ濃厚なドラマや、大河原邦男さんによる画期的なMS、安彦良和さんのシンプル故に演技が光るキャラクター、「メタルマックス」シリーズの門倉聡さんによる豪奢なフルオーケストラBGMなどの数々の魅力を持った本作であるが、白眉はエンディングだ。

結末を振り返る

「質量をもった残像」という名文句を残したラフレシアとの激戦を制したシーブックは、ラフレシアを駆ったカロッゾ・ロナに乗機ビギナ・ギナを討たれ、一人流されたセシリー・フェアチャイルドを見つけようともがく。それを見た母モニカ・アノーはサイコミュセンサーをレーダー代わりにすることを提案する。その助言に最初は戸惑うシーブックだったが、母の言う通り「命の鼓動だけに感覚を開」き、無事シーブック「だけを呼んでいる命」、セシリーを見つけ出す――

モニカの技術者としての矜持と、親としての叱咤が混じった重みのある言葉や、セシリーの手がかりとなる花を見つけたシーブックの、それまでの迷いが吹っ切れた喜び(バーナード・ワイズマンでも知られる辻谷耕史さんの名演技がもう聞けないと思うと寂しいばかりである)、それを支えるエンディングテーマ「ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜」(「君を見つめて -The time I'm seeing you-」が使われる予定だったが、このシーンなら当然の判断だ)と、名シーンたる条件がこれでもかというほど揃っている場面。アドレナリンあふれる戦いで終わらせなかったことも素晴らしいが、このエンディングにこそ、富野監督の思いが詰まっているのではないか。

「人の英知が生み出したものなら、人を救ってみせろ!」「∀ガンダム」でロラン・セアックが核を使ってコロニーの入り口をこじ開けた際のこの名言こそ、あのシーンに富野監督が込めた思いだ。これはビルギット・ピリヨの名言「人間だけを殺す機械かよ!」と対をなしていると言える。

それはダイナマイトの生みの親であるアルフレッド・ノーベルが、ダイナマイトが殺りくに使われることに心を痛め、科学の発展のためにノーベル賞を設立したのと同じ精神である。富野監督はそれを自らが得意とする戦記物の中で描いていくということへのジレンマを感じながら仕事をしているのは直近のインタビューでも伺える。

ニュータイプの描かれ方

「F91」までのガンダムでは、ニュータイプ関連技術は人を傷つけ、ニュータイプの素質あふれる人物はその力に翻弄され続けた。年を経てからその力に目覚めたゆえに、周囲の期待と圧力の中で苦しんだ元祖木星帰りの男シャリア・ブル(そしてニュータイプの特異点でもある。彼の存在を捨てたことでニュータイプ像が確立されたと言える)。その力に身をゆだね亡くなったララァ・スン。感応能力で心を通わせたララァを自らの手で殺すという「取り返しのつかないことをしてしまった」アムロ・レイ。戦いの中で神経をすり減らし、その共鳴力ゆえに最後に宿敵パプテマス・シロッコに精神を道連れにされたカミーユ・ビダン。これまでのニュータイプ観は基本的にペシミスティックだった。

その中でニュータイプ能力に翻弄されることなく武器として使い倒したシャア・アズナブルは流石だ。そして、そのおおらかな性格ゆえに心病むことなくしぶとく耐え抜いたジュドー・アーシタ(鈍感力の持ち主と言えよう)の生き方は、富野監督がニュータイプがどうすれば幸せになれるのかを考えた結果ではなかろうか。

余談だが、人間の感覚の進化とその代償というのは80年代のニューエイジ的なジレンマと言え、同時期の名作「AKIRA」のナンバーズ達が超能力と引き換えに子供のまま年老いていくだけでなく、多くが障碍を抱えてしまう(五体満足なのはタカシのみで、キヨコとマサルは身動きもままならない)という過酷な運命も思い出す。漫画版で彼らの運命を「お前たちの力は不仕合わせしか生まなかったのか!!」と嘆いた金田は、ガンダム世界での「ニュータイプの修羅場」をも言い表していると言える。

アクシズ・ショックの反省のもとに

ニュータイプやサイコミュの一つの帰結が「逆襲のシャア」で描かれた「アクシズ・ショック」だ。「人の心の光」が合わさった結果、コロニーのアクシズをアムロとシャアおよびその乗機ごと消し去ってしまうという強烈な結末はいつ見てもスペクタクルだが、そもそもこれはサイコフレームの未知の作用だ。二人の確執に禍根なくけりを付けつつ、全体としてはハッピーエンドにするというウルトラCを達成するために、技術の暴走というデウス・エクス・マキナに逃げざるを得なかった富野監督の中には忸怩たるものがあったのではないか。

そんな中、新作ガンダムの企画が立った。今までのガンダムを仕切り直しした作品なので、この機会に技術がどうあるべきか語りたいと富野監督は思ったはずだ。人類の革新のはずだったニュータイプはともすると一個性に落ち着いてしまう(今の時代、カミーユはHSPの一言で片づけられてしまいかねない)。そしてそれまで責め具の様でもあったサイコミュを、戦争以外にどう役立てるか。富野監督が描きたかったのはまさにそこだ。

あの結末こそ、ニュータイプが人類の革新たる理由であり、サイコミュが人を救える技術だという証明だ。最初はアムロの主人公補正への説明だったニュータイプに、ようやくその存在価値を描くことができて満足だろうな、富野監督!

戦いの中で自らを磨き上げ、F91のMEPEを意図せず引き出し、サイコミュの感応能力を生体レーダーとして使いこなしたシーブックは、まさにニュータイプの「見本」と言える存在だ。それは過去のニュータイプ達をジュドーの言う「修羅場」に叩き入れてきた富野監督ならではの贖罪でもある。

富野監督が「F91」で示した、ニュータイプへのオプティミスティックな捉え方は、「機動戦士ガンダムUC」にも受け継がれている。高い感受性と人間の業に悩みながらもくじけずに戦い抜いたバナージ・リンクスの生き様はジュドーの強かさとは異質なもので、カミーユからシーブックへの橋渡しと言えよう。この記事のタイトルに入れた「祈り」の言葉は、「UC」のラプラスの箱を踏まえたものでもある。

あえて宇宙世紀批判をする理由

この「技術は人を救えるように使われるべき」という思いが非常に強いものであることは、富野監督の最近のインタビューで、発展順序があべこべなせいで矛盾に満ちた宇宙開発を(半ば自己)批判する姿勢からも伺える。

『G-レコ』は宇宙エレベーターがキャピタル・タワーっていう名称で実用化されている世界なんだけど、経済的なバックアップがあるからレールが引けて物流を成立させているんだよね。物流を成立させるだけの経済的なバックボーンを持っていない限り、絶対に作れないものを、それを考慮せずに作ろうとしてるのは頭悪いよねって、まずそういう人に対する嫌がらせがある。
(中略)
フォトン・バッテリーという絶対的なエネルギー源(中略)があるから交通機関は成立しているけれど、それがなければ成立しないんです。
(中略)
フォトン・バッテリーがなぜ必要になったかというと、地球は石炭も石油も彫り尽くしてなくなっちゃって、人類は絶滅しそうになった。なぜそうなったかというと、かつての宇宙世紀っていう時代に、戦争をやり続けていたからだよね。
(中略)
「宇宙エレベーターなんか作る前に地球を保全する活動をしましょう」って考えられるような大人になってほしいんだよね。

富野由悠季監督が『G-レコ』で描きたかったのは“宇宙開発全否定”の物語。まったくプレイしないというゲームのことも聞いてみた【アニメの話を聞きに行こう!】

自らのライフワークと言える宇宙世紀の歩みすら全否定してしまうのは、常に自らに厳しい富野監督らしいが、技術はやみくもに探究するものではなく、まず地球・環境に優しくあるべきだ、という考え方は「人の英知が作り出したものなら…」に込めた思いと寸分違わないものである。(本家に宇宙エレベーターという題材を横取りされた挙句、このような批判が付いてしまった「機動戦士ガンダムOO」のスタッフを考えると忍びないが…)

そして、この思いの原点と言えるのが冒頭で挙げた「F91」のエンディングなのである。ただの感動シーンでは無い深みと凄みがそこにあったのだ。

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