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善をするには勇気が必要だった

偽善という言葉が嫌いです。とても。

寄付やボランティアをした著名人に向けて
よく発せられるのがこの言葉。

それで擁護する方も
「やらない善より、やる偽善」
と膿を含んだフレーズをあてがう。

「フォローになってないよ!」
と言って差し上げたい。



偽善と言われるのは
欲や下心が見えるとき、感じたときらしい。

「ボランティアをすることで
私の知名度信頼性アップにつながる!」
「優しくしておけばデートに誘いやすくなる」

こういう裏を感じるとモヤモヤするみたいです。
本当にその人がそう思っているかは別として。

目の前に見えている段階では
純粋な善も、偽善も、詐欺もよく見えます。

たとえば著名人が募金活動をして
そこからだいぶくすねていたとしたら
完全に偽善で、詐欺っぽいですが

自ら身銭を切ったり汗水流したりして
行動することには、疎ましいのか眩しいのか。

善意を素直に受け取れない濁った視線が
世の中の見え方を濁らせている部分もある気がする。

「善意に裏切られた経験がある人」が
そういう疑念を抱いているとしたら
結構、闇は深い気がします。



善意って出しにくい。

これを書いている僕も説得力はなく、
優先席にいて、前に年配の方がいて
寝ているふりをした経験があります。

譲りたい気持ちはあるのに
「どうぞ」と言えない。

なぜだか勇気が出てこない。

それでどんどん自分の中で
やるかやらないかせめぎ合って
切り出すタイミングを失っていき
時間と罪悪感ばかりが積もっていく。

パチっと目を開けて
できるなら今気づいた小芝居をして
「どうぞ」を言えばいいのに。

いや、小芝居なんか考えている暇があるなら
すぐにも「すみません、よかったら」と
声をかければいいのに。

「私はまだそんな歳じゃない!」と
言われたっていいじゃん。カッコつけたっていいじゃん。
譲った方が周りの人もホッコリするかもしれないのに。

優先席を動かない悪事には無自覚で
善意を行動に移す勇気がありませんでした。

「勇気」に嘘はなくて、
そこに一部の人が劣等感を抱いているのかも。

勇気がない人が、
勇気を出して動いた人に嫉妬している。
自分の隣で席を譲った人を羨ましく思っている。

(先を越された!)
と思ってしまう。

自分も寄付したらいいのに。

道端に転がった空き缶を
放置したり蹴飛ばしたりするのは自然だけど、
それを持ってゴミ箱を探そうとする自分はなく、
「ゴミ拾い」を任せられた時にしかできない。

泥酔して路肩で寝転んでいる人を
哀れんで通り過ぎたことは何度もある。

要するに僕は、
「優しいけど勇気がない人」だったのかもしれません。

・・・本当に優しかったんでしょうか?



いったいいつから善意を遠慮するようになったのか。

いじめを傍観していたころ?
学級崩壊を止められなかったころ?
それとも善意が裏目に出るニュースや映像を見たころ?

明確にコレというタイミングは見当たらず、
本当に気がついたら遠慮するようになっています。

子どものころには結構できていた気がするけど
上京してから二の足を踏むか、
通りすぎるようになったかもしれません。

とにかく原因を探っても意味はないので
善意を行動に移す勇気を持たないといけない。

100円でも良いから誰かに手を差し伸べる勇気を
僕らは持たないといけないと思うんです。



そんな僕を過去に置き去りにすべく、

先日、熊本の豪雨災害について
初めて寄付をしてみました。

東日本大震災のときにも
その後の災害時にも傍観していましたが
勇気を振り絞りました。

熊本には一度も行ったことないんですけどね。

それでも僕にとっては
「誰かの力になれた実感」は大きくて
自尊心を得られた経験でした。

たくさんの売上を出したときや
感謝の言葉をいただいたときとも違う
なんとなく手に力がこもるような喜びです。

ステージを登った感じ、とでも言いましょうか。

今風に言うと、自己肯定感が高まる経験。
少し、勇気のある人になれたでしょうか?

僕は、本当に優しくなれたでしょうか?


nagatouch


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