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ヤマシタトモコ著『違国日記』を読んで

 今年も残すところ2か月となったので、個人的に今年いちばん面白いと思った漫画の感想を書く。感想文を書くなど中学校の課題以来でどきどきしている。わりとがっつりネタバレしているので、ご注意ください。

 ヤマシタトモコ著『違国日記』は、子犬のような中学生(後に高校生になる)の姪・朝が、両親の死をきっかけに不器用な小説家の叔母・槙生との同居するところから話が始まる(ちなみにわたしはコミックス2巻に収録されている回までしか読んでいない)。

 言葉選びや空気感など、好きなところは数多くあるが、この漫画がすごいと思ったのは家族への微妙な感情の描写である。なんでこんなに微妙な機微を表現できるんだろう、と驚愕した。
 槙生は自分の姉、すなわち朝の母をひどく嫌っている。怖がっていると言ってもいい。物語を読む限り、その感情はかつて自分の好きなもの、自分の行為を徹底的に否定された経験に起因しているのではないかと推測するが、その感情のために、朝をかわいいと思いながらも姉の影がちらついて愛することができない。槙生の記憶の中の姉はこんなことを言う。

 「あんたがダメだからいってやってんの 姉として」
 「こんなあたりまえのこともできないの?」
 ヤマシタトモコ(2017)『違国日記①』

 「あんた なにその服 キモ」
 「槙生 あんた 恥ずかしくないの 妄想の世界にひたってて 小説だか何だか
  知らないけどもう少し現実に向き合えば?」
 ヤマシタトモコ(2018)『違国日記②』

 この言い方。身内特有の容赦と遠慮が一切ない言い回し。軽やかに吐き出される暴言。自分の価値観が絶対だと思い込んでる上に、言った本人はあんまり深く考えずに言ってるぞ、絶対。なんなら酷いことを言ったという自覚も薄いだろ。なんでそう思ったかというと、似たようなことを言われたことがあるからだ。それも姉に。のたうつ程に恥ずかしく、ひどく傷ついたことを思い出した。うるせー!!!
 早い話、槙生の姉とうちの姉は似ている。誤解しないでほしいのは、漫画と違ってわたしは姉を嫌ってはいないし、愛している。それは、一緒に成長する過程で彼女の素敵なところやかわいいところの発見を積み重ねたからである。今でも、こいつのこういうとこがな~ということは山ほどあるし、絶対許さんと思うことも多い。
 それでも、彼女の愛すべき点や一緒に過ごした時間と怒りを天秤に掛けたとき、わたしは彼女を愛せるのだ。言葉が強くて、単純で、家族に対する自己主張が激しい割に小心者で臆病。たまに責任感が強くて、少女のようにかわいいものが好きで、妹のことをとても可愛がっている。姉は大人になったし、わたしも多少は成長した。そういうわけで、かつての意地悪で高圧的な姉は20年以上の時間をかけて私の中でこんな姿になった。
 だから、わたしは多分、槙生の姉のことも好きになれるのでは、と思っているのだ。

 おそらく槙生は、姉との交流が断絶していた。嫌っている相手と交流を断ちたいと思うのは普通のことだろう。しかし、それは相手の姿をアップデートする機会を失うということだ。相手の新たな側面を発見する機会を失うということだ。しかも、槙生はその機会を相手の死という形で永遠に失ったはずだった。しかし、そこに現れたのが朝である。
 槙生は朝の後見人として、否が応でもかつての嫌いな姉の姿と、自分の知らない姉の姿の両方と向き合うことになる。それでも、槇生の中の姉は変わらずに高圧的なだけの姉か?そんなことはないんじゃないだろうか。自分の経験から考えると、好印象とまではいかずとも新たな一面を発掘せざるを得ないはずだ。

 わたしは、朝と槙生が悩みながら、現実を必死に消化しようとする姿がとても好きだ。だから読者としてはあまり、槙生の姉の存在は好きではない。一方で、高圧的な「姉」の愛すべき点を発見することを1人の妹として、何よりも楽しみにしている。

 

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