疲れてしまって消えたいきみへの手紙
愛するきみへ
すっかり、疲れきっているんだよね。
もう、生きているのが嫌になるくらいに。
かと言って、消えることも簡単じゃない。
生きることって消えることよりも難しいってボクも思う。
だけど、簡単に消えられないものだよ。
ボクもね、生きていたくないって思うことがあるよ。
実際に消えようと思ったこともある。
でも、できなかった。
ボクにそれを思いとどまらせたのは、
恐怖でもなければ、生存の本能でもなかった。
無くすものも何もなかったし、家族もね、何もかも、消えて失うものもなかったよ。
確かに消えてしまえば、
今の苦しみから、悲しみからは逃れられるかもしれない。
それは人間に残された最後の自由なんだから、
消えてもいいじゃないかと思った。
すぐに楽になれると思った。
最善の選択だと真剣に思った。
でも、できなかった。
ボクにそれを思いとどまれせたものは、ボク自身だった。
ボクの思念と意識だったんだ。
「我思う、ゆえに我あり」さ。
デカルトの言葉だけど、きみはこの言葉どおり、今の瞬間に存在しているんだ。
もちろん、きみは今の瞬間にボクのこの手紙を読んでいるからね。
世界の全ての存在を疑ったところで、
きみが考えているという存在ははっきりしている。
つまり、きみは生きているんだ。
消えてしまうと、きみの意識も存在なくなり、全ての存在も消えてしまう。
あの世があるって人が考えたのは、消えてからもなお、その意識という存在を失いたくないからだね。
でも、あの世なんて存在しない。
生きていたくないって考えているきみも今、確かに存在し生きているんだ。
そして、時計の秒針は一秒、また一秒と刻んでいる。
時間は止まらない。
その一秒、一秒の中に
きみの思念や意識は共に存在して記憶として刻まれていくんだ。
それが生きているということなんだね。
考えてみて。
今、きみがこうやってボクの手紙を読んだり、
考えたりしている自分がいるってこと。
たとえ、逃れられない苦しみや悲しみの渦中に
存在しているとしても、
時計の秒針は止まることはない。
消えてしまったら、きみの意識は消滅し、
きみの意識が抜け落ちた体だけ残され、世界のみがずっと存在するんだ。
想像しただけでも恐ろしいじゃない?
きみの意識がなくなった身体が動かなくなって残るんだよ。
ボクはきみにそんな選択はしてほしくないんだ。
きみの体に思念や意識があれば、
きみは泣き、笑い、怒り、また愛することもできる。
ボクはそういうきみを見ていたい。
ボクの友人で生きるのが嫌になって消えることを選んだ人がいるよ。
もう二十年くらい前だ。
彼女が消えてからボクは二十年も生きてきた。
その間には苦しみも喜びもあって、
そりゃあ、もうめまぐるしいほどの変化があったよ。
それを彼女は体験できないまま、意識も身体ももう存在していないんだ。
さっき、時計の秒針の話をしたよね。
この瞬間にも時は流れているんだ。
一〇分先には何が起こるかわからない。
いいことも、わるいこともあるだろう。
でもね、生きるのをやめない限り、きみの心は生きているし、
喜びを感じたり、悲しみを感じたりできる。
喜びも永遠じゃないけど、悲しみも永遠じゃないよ。
喜びを感じるために、きみの思念や意識は失わないでほしいんだ。
今、どうしても、苦しみからどうしても逃れられないときは
ボクはまた手紙を書くよ。
今、疲れていても必ず元気が戻ってくる。
だって、きみは確かに存在して生きているからさ。
そのことがボクにはとっても嬉しいことなんだよ。
がんばらなくてもいいんだよ。
ただ今は、時の流れの中で
これからやってくる未来をいっしょに待ってみよう。
また、手紙を書くよ。
それまで、元気でいてね。
いつも、きみの幸せを祈っているよ。
心から愛するきみへ
🌻
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