いつの間にか好き嫌いがなくなった。普通の大人になっていた。


幼少期はそうであった覚えがある人も多いのではないかと思うが、私もその例に漏れず好き嫌いが非常に多い子供だった。
ほぼ全てのきのこ類、魚卵以外の生魚を筆頭に、あんかけ、柿、モンブラン、あんこ、アボカド、香味野菜全般、お酢の入ったもの、海老の天ぷら…細かいものをあげると正直キリがない。

刺身は父が好んでいたためよく夜の食卓に登場していた。
時折父に勧められ、ほんのかけらを口にしたこともあったが、こんな血生臭いものをよく食べられるなと思っていたものだった。
母も生魚をあまり好まなかった。
父はしょっちゅう家族を回らない寿司屋に連れて行ってくれた。なんと気前の良いことだと思われるかもしれないが、家族のうち2人はたまご握りやかっぱ巻きを喜んで食べているのだから、本人からしたら、相当安上がりで素敵な家族サービスだったことだろう。実際、私も生魚は食べられなくても寿司屋は大好きだった。

20歳を超え、お酒を飲むようになってからだろうか。食べられるものがどんどん増えていった。

これが、いわゆる、"大人になると舌が変わる"というやつなのだろうと思った。
今は、先ほど挙げたものなら大体なんでも食べられる。酸っぱいもの、苦いもの、辛いもの、全部肴にして酒を飲めるようになった。
嫌いな食べ物を聞かれたらシイタケと答えるが、それだって偉い人が目の前にいる会食だったら平気な顔で口に入れることができる。

食べ物の好き嫌いがなくなってよかった。食べ物で幸せな気持ちになることが増えたのは単純に嬉しい。

食べ物の好き嫌いに思いを馳せるとふと心に浮かぶ。
そういえば、好き嫌いがなくなったのは、食べ物だけじゃないなと。
人間の好き嫌いもいつの間にかなくなった。

幼稚園で私を友達の輪に入れてくれない子たちが嫌いだった。健康診断で前年より視力が下がった私に、なんで病院に行かないのとずっと怒鳴ってきた保健室の先生が嫌いだった。知り合いが少ないクラスでみんなと友達になろうとしたら、八方美人だと悪口を言って私をクラスから孤立させた女子たちが嫌いだった。たった一年早く生まれただけで、礼儀がどうと言ってこき使い暴言を吐くテニス部の先輩が嫌いだった。

15歳くらいまで、本当に嫌いな人がたくさんいた。

でも、いつの間にかだんだん嫌いな人の数が減っていった。友達も増えていった。どっちが先なのかはわからないけれど。

誰かに嫌なことをされても、コミュニケーションに何かすれ違いがあったんだろうなとか、相手も何か私に嫌なことがあったんだろうなとか想像して、まあ仕方ないかと思うようになった。

この、仕方ないかという気持ち、食べ物には抱かない感情だ。

好き嫌いがなくなるって、実は一口に言えないんだと思う。
嫌いだったものが本当に好きになることもある。
単純に我慢が上手くなっただけということもある。
我慢を通り越して、諦めてしまっていることもある。

「嫌い」は、本来は激烈な感情で尖った石のようなもの。私はそれを少しずつ削って生きているんだと思う。
「嫌い」というある種の個性を削り川底の石のように丸くなった私は、批判的な目線で物事を見ることの少ない、物分かりの良い人間になってしまった。
何かを嫌いになることは、疲れるし、敵を作ることなんだと、どこかで思い込んで生きている。

仕事で何のためにやっているのかよくわからないような作業も、「頼まれたし」「何かしらの助けにはなるんだろうな」と思ってやっている。
卵をカートンごと投げつけてやりたいぐらい恨みを持っていた人のことも、いつの間にか許していたし、もう忘れている。
もし今嫌いになりそうな人がいたら、もうそれ以上は見ずにそっと離れることにしている。
本能的に嫌だと思っていたものも、少しずつ、少しずつ”理解しようとする”ようになっている。
それが普通で、ニュートラルな人間で、善いことだと思っているから。

「私は私」を隠れ蓑にして、私は「嫌い」から逃げている。
普通の大人になりたかったわけじゃないのにね。

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