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【救い主の系図】231217メッセージ

https://youtu.be/ibfTV65nguk


「救い主の系図」
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イントロ 系図について
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聖書は言います。
マタイによる福音書/ 01章 01節
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。


アドベント3周目を迎えています。
今日のテーマは系図です。
私たちが待ち望んでいる、救い主イエス・キリストがどのような血筋の流れで生まれてきたのか、それを共にみていきたいと思うのです。

聖書に興味を持った方や、信仰生活をする方が聖書を読もうとすることがあります。
そこで多くの人は、聖書を読むなら、旧約聖書はちょっととっつきにくいから、まずは新約聖書から読もうとするのです。
しかし、いざ新約聖書から読もうとして開いてみると、いきなり系図が書かれています。
日本人の私たちから見たら単なるカタカナの羅列であり、一体何が書かれているか分からない。
せっかく聖書を読み、通読しようと意気込んでいるのに、出鼻を挫かれるのです。
なぜ新約聖書の最初に系図が書かれるのか。
それほどまでに系図というのは重要なのだろうか。

ある小説で、自分の祖先を探し出す旅を記した本がありました。
その人は奴隷の身分として生きていた。
今みたいに人権など無いような時代です。
いつも自分がモノ扱いされ、果たして自分は生きる価値などあるのだろうかと考えるのです。
自分が一体何者であるのか、どこに自分の足場を固めていったら良いのか、そう問う時に自分の過去、生い立ちを知ろうとする。

これは現代の私たちにも通じることだと思うのです。
今の時代は自分の血統とか、血筋、系図というのはあまり重んじられていません。
自分たちの過去がどうであろうと今を大切に生きようとする。
確かにそうです。
親がどんな生い立ちだろうが、祖父母がどんな職業であろうが、今自分が何をしているかが大切であると。
しかしそれと同時に、自分が一体何者なのか、自分の魂が帰るべき本当の故郷はどこか、それらを考える時に系図というのは大きなヒントになると思うのです。

先日私は、父親ミニストリーという講座にオンラインで参加しました。
そこで講師に質問されました。
「あなたは自分の父親にどんなイメージがありますか?
あなたは父親のことをどのくらい知っていますか?」
私自身、父親とは比較的良い関係であり、仲が良いと思っていましたが、改めて父のことをどのくらい知っているかと問われると、実はそれほど父のことは知らない、まだまだきちんと会話をしていないなぁとその講座を通して思ったのです。
その話を妻にしたら、妻から「そこまでお父さんのことを知ってなくても、あなたはお父さんそっくりの性格をしているわよ」と言われました(笑)
父の、ミニマリストで、さっぱり、サバサバした、こうと思ったらすぐ実行してしまう性格はそっくりだそうです。
私は講座を通して、自分の家族を辿っていく時、自分自身をより深く知れるなとその時実感しました。
このように系図というのは自分が一体何者なのかを知る足がかりになると思うのです。

マタイがこの福音書を書いた時に想定していた最初の読者はユダヤ人です。
ユダヤ人は特に系図を大事にした民族です。
キリストが生まれた頃のユダヤの領主と伝えられるヘロデ王は、自分の血筋に異邦人、外国人の血が混じっていることを好まず、それを隠そうとして、登録所の役人を殺してまで証拠隠滅をはかってまで、系図にこだわったと言われています。
それほど当時のユダヤの文化では家系図というのが重視されていました。
だからマタイは、系図、血統を重視するユダヤ人たちにイエス・キリストのことを伝えるために福音書の最初にまず系図を記すのです。

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どのような系図なのか この系図の特徴 4人の女性の名前、罪の系図
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では私たちから見たら、単にカタカナばかり並んでいるように見えるこの系図にどのような意味があるのでしょうか。
この系図で特に特徴的なのは、イエスの母マリア以外に4人の女性の名前が登場するということです。
救い主の系図には、女性が記されている。

マタイによる福音書/ 01章 03節
ユダはタマルによってペレツとゼラをもうけ、
このタマルは女性なのです。

マタイによる福音書/ 01章 05節
サルモンはラハブによってボアズをもうけ、ボアズはルツによってオベドをもうけ、
ラハブとルツという2人の女性が出てきます。

マタイによる福音書/ 01章 06節
エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
ここでは名前は記されていませんが、ソロモンの母親、バトシェバという名前を私たちは聞いたことがあると思います。
それがこの「ウリヤの妻」のことです。

この4人の女性が系図に記されている。
今の私たちから見たら、系図に女性の名前が記されているというのは普通のように思えるかもしれません。
しかし系図に女性の名前が出てくるというのは、当時のユダヤ人から見ると驚くべき、異常なことでした。

なぜならユダヤ人が自分たちの系図、血統を語る時、その血筋は男性が作るものであり、女性が作るものではないと考えられていたからです。
今の時代から見ると男尊女卑のように思えますが、当時の文化としてはそれが当たり前だったのです。
男性の血筋が絶えないように、そして男性の血統がどのように続いているかを記すのが当時の系図だったからです。
なので、当時は男の子が生まれそうもない時は、2人、3人と奥さんをめとり、なんとしても男の子を産むようにしたのです。
それほどまでに、当時の系図では男性が生まれることを重要視し、そしてその母が誰であったかということはほとんど重要視されていませんでした。
しかし救い主の系図では、女性の名前が登場するのです。

最初に登場する3節のタマルという女性。
彼女の夫はユダでした。
しかし夫との間に子どもが生まれなかったのです。
そこでこのタマルは、わざと道端に立つ遊女、売春婦の姿になって、その道を通りかかった自分の舅、夫の父に自分の体を売ったのです。
そして子どもが与えられました。
それは、夫との間に男の子を産むことができない嘆き、悲しみの中で、夫の父と関係を持ってまでもして、男の子をつくろうとする異常な行動です。

今ではもし仮に様々な事情で子どもが生まれなかったとしても、不妊治療などがあります。
しかし当時はそのような手段はありません。
タマルは、妻の務めとして、この家の血を絶やしてはいけない、しかも他の家の血を混ぜてはいけないと精一杯考え、それならば自分の夫の父を受け入れようと思い、遊女になりすまし、子どもをつくったのです。
それがタマルという女性です。

5節のラハブ、、、これはヨシュア記に登場する遊女です。
ユダヤ人ではありません。
ルツはルツ記の中心人物であり、この人は正しい行いをしましたが、ユダヤ人ではなくモアブ人です。
モアブ人は、ユダヤ人が最も忌み嫌っていた民族の一つでした。
もしもモアブ人がユダヤ人の仲間入りをしたいと思っていても、共にユダヤ人と神を礼拝をすることができるためには、10代を経なければいけないほどでした。
ルツは、ユダヤ人から見てそれほどまでに嫌われていた血筋の女性です。

そして6節の「ウリヤの妻」バトシェバは、ダビデ王の権力に任せた欲望によって犯された人とも言うことができます。
ダビデにとって部下であり、バトシェバにとって夫であったウリヤが戦争をしている中で、水浴びをしているバトシェバをダビデが見て気に入り王室に呼び出してそのまま寝たのです。
そしてダビデはバトシェバが孕ったことがわかり、それを隠すためにウリヤを激しい戦場に送り込んで殺してしまいました。
そしてその後ダビデはバテシェバを王の妻として向かい入れます。
孕った子は死んでしまいましたが、その後に産んだ子どもがソロモンでした。

このように考えていきますと、この系図に出てくる女性たちは、当時のユダヤ人から見たら、救い主イエス・キリストの系図には相応しいとはとても言えないと思うのです。
ただでさえ系図では男性が中心に書かれていた時代です。
その時代に女性の名前が記されること自体異常であり、しかもその女性達はユダヤ人から見て、救い主の系図にはふさわしくない生涯を歩んだり、民族であったりするのです。
もし仮に系図に女性の名前を入れるなら、信仰的な女性の代表的存在として、例えばアブラハムの妻であったサラなどを記すのが普通ではないでしょうか。

また考えさせられることは、もしこれらの女性の名前がこの系図には無く、男性の名前のみだったとしても、果たして救い主として立派な系図が成り立つのかということです。

マタイは6節に「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父」と明記しています。
バトシェバは、ウリヤの妻であって、ダビデの妻ではないとここではっきり書いてあるのです。
もしダビデが生きていて、この系図を見たら反論したかもしれません。
「私がウリヤの妻を奪ったことは、本当に申し訳ないと思っています。
しかしそのことを激しく悔い改めをし、バトシェバを王妃として迎えたではありませんか」と。
実際ダビデには何十人と妻がいましたが、その妻の1人としてバトシェバを王家に迎えいれています。
しかもその息子ソロモンが次の王になったのです。
ダビデから見たら自分は正式に妻を王家に迎えたのだから、この系図には「ダビデはバトシェバによってソロモンをもうけ」と書いて欲しいところです。
しかし聖書ははっきり書きます。
いやそうではない、バトシェバはあなたの妻ではない、別の男の妻ではないか。それをあなたは奪ったではないかと。
マタイはここでダビデ王の姦淫の罪をはっきり示すのです。

さらにこの系図は、特にダビデ以降の王は、ダビデとは違って女性に対する節操の過ちはなかったとしても、列王記や歴代誌を読むと、聖書の神を拝むことをしなくなり、偶像に心が傾いていきました。
預言者の告げる神、主を第一に愛していくことができなくなっていく。
この系図には、女性についての不倫だけでなく、信仰として不倫、浮気の歴史も書かれているのです。
そしてその果てに、
マタイによる福音書/ 01章 11節
ヨシヤは、バビロンへ移住させられた頃、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。

とあるように、イスラエルの民達が敵国バビロンに移されるようになってしまうのです。
神に背き続け、他の神を愛し続けた結果、敵国に故郷を奪われるようになっていくのです。
そして12節以降に記されている名前は、旧約聖書のなかでさえ名前を見出すことが難しくなります。
なぜなら、歴史の書物にさえ記されることのできないほど無名に、このダビデの王家血筋は落ちていくからです。

このように見ていくと、この救い主系図に記されている男性も女性も、罪深い姿が現れていると思うのです。
男女の結びつきの中でこそ見えてくる、人間の自分自身では制御できない罪が見えてくる。
たとえ王でさえも、実に愚かな姿を表すのです。
最も優れた英雄と言われているダビデ。
彼でさえ罪を犯しました。
それがイエス・キリストの系図の真ん中あたりに出てくるのです。
このように考えていくと、ダビデは、イエス・キリストの栄光を輝かせるための王というより、まず罪人の代表者として名が記されていると思うのです。

マタイによる福音書/ 01章 17節
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロン移住からキリストまで十四代である。

どんなに優れた血筋を引いていると思う人であっても、14代、14代、さらに14代と辿っていけばいくほど、どこかでとても誇ることができないような人が系図の中に含まれているのです。
自分は素晴らしい系図、血統書をもっていると誇っている人でも、丁寧に見ていくならどんなに汚れているだろうか、どんなに愚かなものであろうか。
私たちから見てどんなに素晴らしいと思う人、成功者でも、そして私たち自身も何十代と辿っていくなら皆誇れない罪のある血筋、系図があり、自分もその中に含まれていることを知るのです。

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なぜキリストが系図に記されているのか
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しかしこの罪人の血筋の中に、天から降りてきて下さった方がいました。
神が私たちの罪人の血筋の中に救い主を入れてくださったのです。

マタイによる福音書/ 01章 01節
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

この「系図」という元々の言葉を別の言葉で訳すと「物語」と訳せます。
物語。
つまり「イエス・キリストの物語」と訳すこともできるのです。

つまりこの系図は、単なる名前を羅列している系図でなく、人間の血生臭い歴史から始まり、そこからイエス・キリストが生まれる救いの物語であると。
そしてこの救いの物語はアブラハムから続いていると聖書は記します。
人類の祖先アダムではなくアブラハムから始まっているのです。
アブラハムは、マタイの福音書の読者であったユダヤ人の歴史の始まりに立つ人物です。
このアブラハムに神は祝福の約束を与え、さらにアブラハムの子孫を通して世界が救われるように約束して下さいました。

招きの言葉で読みました。
1:創世記/ 12章 01節
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ/私が示す地に行きなさい。
2:創世記/ 12章 02節
私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。/あなたは祝福の基となる。
3:創世記/ 12章 03節
あなたを祝福する人を私は祝福し/あなたを呪う人を私は呪う。/地上のすべての氏族は/あなたによって祝福される。」

たとえどんなにユダヤ人の歴史が崩れ、罪によって神に背いたとしても、神がアブラハムに約束して下さった祝福は変わらなかったのです。
神はアブラハムにされたご自分の約束を忠実に果たされ、救い主キリストを私たち人類の系図に入れて下さいました。
神は、私たちの汚れた血筋の中に、天から救い主を入れて下さった。
大工の息子として生まれさせて下さったのです。

そしてこの救い主イエス・キリストの系図、物語はここから続いていきます。
生まれた後、この救い主は十字架の死に至る物語を始めて下さいました。
神が約束して下さった救い主は、人間の罪の歴史、血筋を全て引き受けて、これから十字架と復活の道に向かっていくのです。
そしてキリストが十字架で死ぬことによって、私たちは今まで引き継いできた血生臭い罪から救われるのです。

この救い主イエス・キリストの誕生を改めて待ち望む、、、それが私たちキリスト者なのです。

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結語 共同体
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聖書は言います。
マタイによる福音書/ 01章 01節
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

聖書はイエス・キリストの系図を新約聖書の最初に記しました。
救い主の系図の特徴は、1つ目に、女性が記されていること、そして二つ目に、男女問わず罪の歴史が記されていることです。
ここに記されている名前は、素晴らしい立派な経歴を持った人たちだけではありませんでした。
人々から尊敬されていても、姦淫をした者、子ども欲しさに近親相姦した者、他の神を愛した者などが連なっています。
他の宗教であれば、このような系図は書かないと思います。
もっと立派な人たち、評価されている偉大な人たちを記すと思うのです。
自分たちを救ってくれる救い主はもっと立派な系図でないといけないと思うからです。

しかし聖書の神は、このような血生臭い罪の血筋の中に、救い主をいれて下さいました。
救いの物語を始められたのです。
私たちの罪をそのまま背負いキリストは十字架に向かわれたのです。
このことによって、私たちの流れる血がどんなに罪によって汚れていると思っても、キリストご自身が十字架で流された血によって、罪を清め神の子として迎えてくださるのです。
このお方こそ、私たちの救い主、イエス・キリストです。
この方を救い主と信じる時に、キリストは私たちに言ってくださる。
「あなたも私の清い血によって生き、系図に記す」と。

今や私たちもこのキリストの系図の中に組み込まれ、名前が記されるのです。
信仰によってイエス・キリストと繋がり、キリストを長男として、私たちも神の子として生きることができるようになったのです。

だから私たち教会は、このイエス・キリストが地上に来られたこと、ここから救いの物語が始まることを改めて受けとめて、クリスマスを待ち望んでいこうではありませんか。
祈ります。

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祈り
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天のお父様、私たちはどんなに今の生き方に誇りを持とうと、自分の血筋、系図を辿っていけばそこには罪にまみれた現実があることを知ります。

しかしあなたは私たちの罪の歴史の中に入られ、この地上に生まれ救いの物語を始めて下さいました。

どうか一人でも多くの方があなたを救い主として信じ、あなたの系図に連なる人が起こされていきますように。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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