【なぜ他人の喜びが素直に喜べないのか?】証

◆状況
昔、母教会で日曜朝から晩まで奉仕をしていた時期がありました。
同年代の青年たちと、教会学校や中高科、委員会、役員会、賛美バンドチームの練習などをして日曜を過ごしていたのです。
夜になると体力的にはクタクタになります。

でも奉仕がとても楽しく、礼拝も喜びをもって捧げていたのです。
主に仕え、教会に仕え、奉仕すること、また日々のデボーションやお祈りをしていました。
そのような中で、祈りの時にまだ救われていない家族の事を思うのです。
「主よ、どうぞ私の大切な家族が救われますように」と。

◆葛藤 他人の家族の救いが素直に喜べなかった
そのようなある時、教会学校で何十年と奉仕をしているベテランの方のご主人が救われた話を聞きました。
とても嬉しかったです。
そして思いました。
「主は生きておられる、私も諦めずに希望を捨てずに家族のために祈り続けよう」。

でもその数ヶ月後、今度は違う方、その方は奉仕をあまりやらない方で礼拝だけ来ている人の家族が救われた話を聞きました。
私はその時、素直に喜べなかったのです。

信徒の方の家族が救われる、そういう意味では同じです。
でも私は、奉仕を何十年とやっている人の家族の救いは嬉しかったのに、奉仕をあまりやらない人の家族の救いは素直に喜べなかったのです。

その後もまた、他の人の家族で救われた人がいても、依然として自分の家族は救われない現状を見て、なんだか自分は取り残されているような気がしていました。

そして段々と神様に不満を抱くようになったのです。
「主よ、私の家族が救われるのはいつですか?なぜあの人の家族が私より先に救われたのですか?納得がいかない」と。


◆出会い 「放蕩する神」
そんな時ある本に出会いました。
「放蕩する神」という本です。
放蕩息子に関する信仰書で、特に兄の焦点を当てている本です。
そこにはこういう事が書いてありました。

「もし、あなたがすべての道徳的基準を満たすなら、あなたは「権利」を手に入れることができる。
それは、神があなたの祈りにこたえ、良い人生を与え、死後、天国行きの切符を与えてくれるという権利。
実はあなたは無償の恵みによって、すべての過ちを赦してくれる救い主など、必要ない。
なぜなら、あなた自身が自分の救い主だから。

これこそ、兄の心の姿勢ではないか。
なぜ彼は、あんなにも父親に怒りを覚えたのか。
それは、着物や指輪や家畜など、家の財産の使い道について、彼も意見する権利があると感じていたから。
同じように、道徳的規準をことごとく守る信仰熱心な人たちの多くは、実際のところは神の上に立ち、神をコントロールし、いつか返してもらえるように、神に借りをつくらせようとしている・・・

もしあなたが兄のように、こんなに一生懸命神に仕えて働いて従ってきたのだから、神は私を祝福し、助けるべきだと考えているとしたらどうなるか。
そうするとイエスキリストは、あなたの救い主ではありえない。
なぜならあなたの救い主としての役割は、あなたがすでに、良い行いをすることによって自分自身で担ってしまっているから。」

私は愕然としたのです。
私は当時朝から晩まで奉仕をしていました。
そしてそれは喜びによってでありました。

でもいつの間にか、自分の奉仕や礼拝などが、神に自分の願いを叶えるための権利になっていたのです。
「私はあなたにこれだけ仕えているのだから、これだけ祈っているのだから、神よ、今度はあなたが私の言うことを聞く番だ」。

奉仕や礼拝というそれ自体は良い行為ですら神と取引し、そして自分が神を支配しようとしていた、自分が神となっている自己中心の罪に気付かされたのです。


◆気付き 間違えていた二人、でも父から愛されていた二人
この本では、イエスキリストは放蕩息子の例えによって罪を再定義したと言います。
罪とは何か。
神から離れることか、悪いことをすることか。

それもありますが、本来罪とは、自分が神になろうとすることです。
そしてその方法は二つある、と。
父なる神から離れ、反発し自分自身の善悪に基づいて生きていく弟の生き方。
そしてもう一つ。
それは父なる神に忠実に仕え、神に借りを作らせ、後で神を支配しようとする兄の生き方。
どちらも神から離れている。
兄の方が気付きにくい分、実は弟より神から遠くいるのかもしれません。

日本語の聖書では放蕩息子というタイトルが有名です。
そしてすぐに弟の姿を思い浮かべます。
でもある人はそれは誤訳だとはっきり言います。
なぜなら外国語の聖書の多くは、そのようなタイトルではないからです。
日本語に訳すとこうなります。
「失われた二人の魂」。

弟も兄も父なる神から離れていたのです。
神に反発することによって、そして神に忠実に仕えることによって。
しかし父なる神はその二人を愛されている。
父なる神は、救われてもなお、自分は神になりたい、神を支配したいという私を知っていて、それでも神は私に御子キリストを送って下さった。

そもそも私が救われた時どのような状況だったか。
「神なんていらない、私は自分で自分の人生を生きていく」と神から離れいった生活は惨めで悲惨な生き方でありました。
でも神に立ち返った時、何よりも喜んで下さったのは父なる神ではないか。

そして私が救われた時、父なる神は大きな声で
「私から離れていた長瀬雄大が私の元に戻ってきた、みんな一緒に喜んでくれ」
とすでに救われた人を招いてその祝宴を開いて下さっただろう。
私はそれほどまでにこの神に愛されている者ではないか、と。


なぜ私は神に仕えることをするのか?
神から祝福されたいからか。
神に愛されたいからか。
自分の願いを叶えるためか。
いや違う。

すでに神は私を祝福し、愛して下さっている。
愛して下さっているのだから、父なる神はイエスキリストを私のために捧げてまでにして、私を救って下さった。
私はすでに神に愛されているから、その喜びとして奉仕をするのだと。


そして私の家族についても、私が家族を愛する以上に、父なる神は私の家族を愛して下さっている。
放蕩した弟が帰ってくるのを毎日待ち続け、弟が帰ってきたら遠くの方でも気付き、走り寄るほどに、私以上に私の家族の帰りを待ち続ける父なる神がおられる。
そして今日も私の家族を救いに導こうと働いておられる。
だから私は、家族の救いもタイミングもこの父なる神に委ね続ければいい。
そのように変えられていき、今も家族の救いを神と一緒に待ち続けています。

◆結語
私はこれから献身をしていきます。
でももしこの献身の中の思いに、「これだけ献身しているのだから神は祝福して下さるだろう」という思いがあるのなら、その思いによって私は他の人の伝道の成功を妬み、素直に喜べない事があると思うのです。

自分が神となり、今まで自分がした奉仕を権利として神を従わせようとするからです。
でもその生き方は苦しいのです。
人が神になろうとするからです。
そんなどこまでも自分が神となろうとしている私をも知っていて、父なる神はキリストを私に送って下さいました。

だから改めて私は自分に問い続けたいと思うのです。
神が私を救うためにどれだけのことをして下さったのか。
私が神の元に帰ってきた時、父なる神はどれだけ喜んで下さっているのか。
そして他の人が救われ神の元に帰った時、父なる神はどれだけ私と一緒に喜んでほしいかを願っておられることを。
神はすでに私を祝福し、愛して下さっている、この神の愛に信頼し歩んでいきたいと思わされています。



今日も最高の1日を😄
God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)
長瀬雄大

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?