【罪を赦された者の生き方】メッセージ
先日メッセージをしました。
シェアします。
「罪を赦された者の生き方」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 47節
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
今日のテーマは「罪の赦し」です。
私がこれまでの人生の中で様々なキリスト者と話してきた中で、時々このような話題が出ることがありました。
「クリスチャンホームで育った人は、劇的な改心があまりない」というものです。
初代のキリスト者、いわゆる「初穂」と呼ばれる人達は、キリストに対して熱い信仰を持っている人が多いです。
無神論者として育ってきた中、不思議なきっかけでキリストと出会う。
そうすると、それまでの罪深い生活から180度の転換を遂げ、信仰の道を歩むようになります。
そのため、今までの悲惨な生活からキリストによって救われたことを非常に強く感じ、熱い思いを持って信仰生活を送ることが多いです。
一方、クリスチャンホームで育った人達は、小さい時から教会に通うのが当たり前。
幼い頃からキリストについて知っています。
成長していく過程で、多少道を外れたり、反発したりすることがあっても、多くの場合、初代のキリスト者ほど劇的な変化を経験することは少なく、比較的「真っ当」に信仰生活を送っていくことが多いように感じます。
そのため、救われた時の「ビフォーアフター」のギャップが、初代のキリスト者に比べて少ないと感じ、涙を流して語る劇的な変化の証などを聞くと、どこか羨ましく思う、、、このような話を、私の友人や周りの人から耳にすることがありました。
私自身は「カタクリコ」、これは「片親クリスチャンの子ども」でカタクリコです(笑)
母親はキリスト者でありました。
確かに、私自身救われたのは嬉しいです。
洗礼を受けた時の喜びは、今でも覚えています。
しかし、親がキリストに対してまっすぐな信仰を持ち、喜んでいるのを見ていると、少し羨ましいく思うこともありました。
罪が赦されたことを心から喜ぶ人を見ると、心のどこかで、今の自分には何か足らないものがあるのではないか、と感じることがあるからです。
同じ罪の赦しを受けているのに、なぜこうも違うのか。
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今回一緒に聖書を読んだ箇所、それは、ルカによる福音書7章の物語です。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 36節
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
ここではファリサイ派の男性が登場します。
彼は神への信仰を大切にし、律法を忠実に守ってきた人でした。
生活態度も模範的だったことでしょう。
「ファリサイ」という言葉は、「分離する」という意味があります。
彼らは、自分たちは他の人達とは違い、信仰を厳格に守る者であると考えていました。
そのため、罪人とは距離を置き、接触を避けることで自分たちが汚れるのを避けていた、分離していた人達です。
この男性の名前は、後にシモンであることが分かります。
その彼が宴席を催しました。
キリストと一緒に食事をしたいと願ったからです。
おそらくシモンは、これまでにキリストが行った数々の奇跡や説教を見たり、聞いたりして興味を持ったのでしょう。
ぜひともキリストと一緒に食事をしたいと願った。
ファリサイ派というと、私たちはしばしばキリストと敵対するイメージを持ちますが、シモンの場合は少し違います。
彼は「キリストと一緒に食事をしたい」と願い、この後キリストに対して「先生」と呼んでいることから、少なくとも明確な敵意を持っていたわけではないように思えます。
しかし、そこに予期せぬ出来事が起きる。
37:ルカによる福音書/ 07章 37節
この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38:ルカによる福音書/ 07章 38節
背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
39:ルカによる福音書/ 07章 39節
イエスを招いたファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
当時の食事は、現在のように椅子に座ってテーブルの上に食べ物をいただくスタイルではありませんでした。
食べ物を並べた低いテーブルを囲み、体の片側を下にして寝そべり、もう片方の手で食事をとっていたのです。
そのため、食事をしている時の足は、今の私たちが食事をするようにテーブルの下にあるのではなく、外側に投げ出された状態でした。
また、食事は家族内で行うプライベートなものをイメージする人もいるかもしれませんが、当時は特にラビと呼ばれる先生を招いた場合、家を開放してその先生の話を聞けるように、一般にも公開されることがありました。
この時も、シモンの家ではキリストという先生を招き、食事をしながら話を聞く場が設けられており、家族だけでなく一般の人々もそこに集まっていたのです。
そのシモンの家にいた一般の人々の中に、一人の罪深い女性がいました。
罪深い女性、、、具体的にどのような罪を犯したかは聖書は記していません。
性的な罪かもしれませんし、当時は、異邦人と関わることも罪とされていたので、そのような人たちと関わっていた人であった可能性もあります。
どのような罪にしろ、町の人達は彼女を見ると「ああ、あの人だ」とすぐ分かるような存在でした。
そのような彼女が、キリストがシモンの家で食事をしていることを知り、わざわざ香油の入った石膏の壺を持ってきました。
そして、キリストの背後に立ち、涙でキリストの足を濡らし始めたのです。
彼女は自分の髪の毛で涙を拭い、足に接吻し、香油を塗りました。
接吻は、深い敬意を表す行為です。
髪の毛で涙を拭うためには、結ってあった髪の毛を解かなければなりません。
当時の社会では、女性が人前で髪を結わずに下ろすことはありえないことでした。
ユダヤの女性にとって、髪を結びあげておくのが公然のマナーだったからです。
したがって、この罪深い女性がキリストに対して行ったことは、その場にいた人々にとって、非常に衝撃的な光景であったに違いありません。
何よりこの家の主であったファリサイ派シモンはこの状況を見て非常に嫌悪感を感じたことでしょう。
「さあ、これから私の家でキリストに教えを聞こうとしているのに、よりによって悪名高いこの女性が現れ、キリストの足を拭いている。
公の場所で髪をふりほどくとは、なんてはしたないことか。
しかも、なんだ。
なぜキリストは彼女のこのような行為をそのまま受け入れているのか。触れさせているのか。
彼は預言者ではないのか?
そうであれば、彼女がどのような人物か見抜けるはずだ。
何を呑気に彼女の行為を受け入れているのだ。
むしろ、彼女を遠ざけ、その罪を咎めて裁くのが本物の預言者ではないか?」と。
私は今年に入って、新しい趣味として映画を見始めました。
1週間に一回、名作と呼ばれる映画を中心にコツコツと見てきました。
「ローマの休日」「バックトゥーザ・フューチャー」「パルプフィクション」「ショーシャンクの空」など、どれもそれぞれ印象深い作品です。
その中で特に記憶に残っているのが、「戦場のピアニスト」という映画です。
簡単なあらすじを言うと、主人公はユダヤ人ピアニスト。
時代は第二次世界大戦中で、ナチスドイツによるユダヤ人迫害が激化していく中、彼の家族は全員収容所に入れられ、彼はたった一人残されます。
周囲の人々の助けを借りながら、隠れ続けてなんとか生き延びていく、という実話に基づいた作品です。
この映画は、軽い気持ちで見るべきものではありません。
戦争がいかに人間の命を無惨に扱うか、その残酷さが描かれています。
その中で特に私の記憶に残っているシーンがあります。
主人公があるアパートの5〜6階に身を隠していた時、向かいのアパートにドイツ軍が夜襲をかけました。
そして、彼らは順番にユダヤ人の部屋に入り、「起立!」と命じ、すぐに立たなかった人を銃で殺していきました。
ある家族のところでも同様に「起立」と命じましたが、その家族の中に車椅子の方がいました。
当然、すぐに立てることなんてできません。
するとドイツ軍の兵士は、その人を車椅子ごと外のベランダに連れ出し、外へ下げ落として殺したのです。
私はこのシーンを見て、非常にショックを受けました。
確かに、様々な背景から戦争状態になった中では、人は殺し合う状況になることがある。
自分の命が危険に晒され、生きるか死ぬかの場面では、他人を殺しせざるを得ないこともあるでしょう。
しかし、このシーンの残虐な行為は、切羽詰まった状況で行われたわけではありません。
ユダヤ人に対して命を弄ぶような残酷さに対して、ドイツ兵達への強い怒りが湧き上がりました。
しかしこの時、私はふと思いました。
もし、この残虐な行為を行ったドイツ兵が仮に今も生きていたとして、彼がキリストと出会い、涙を流して悔い改めた光景を私が目の当たりにしたら、果たして私はどのような感情を抱くだろうか。
仮に彼がキリストによって罪赦され、その愛に触れて涙を流す場面を見たら、私は彼を素直に受け入れることができるだろうか。
彼が過去にユダヤ人を弄びながら殺した残虐な行為を思い出しながらも、なおそれでも彼を受けとめることができるだろうか。
むしろ、彼を無条件に受け入れるキリストに対して、私は不満を感じ小言を言いたくなるのではないか。
「イエス様、彼にはもっと償いをさせるべきではないでしょうか。
甘えかしてはいけないんじゃないですか。
もう少し厳しく裁くべきでは?」と。
ファリサ派のシモンは、罪深い女性を見て、彼女のキリストに対する異様な行動を見て強い嫌悪感を抱きました。
彼のその視線はやがてキリストに向けられる。
「なぜ、彼女をそのままにさせているのか、彼女に触れさせているのか、あなたが預言者であれば、そんなこと許すはずがない。彼女を裁くべきではないか」と。
深い女性を見ていたシモンは、やがて罪深い女性を受け入れるキリストをも裁きの目で見るようになりました。
そして、シモン、私たちのこの視線は、裁きの目は、やがてキリストを十字架へと向かわせるのです。
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そんなシモンにキリストは言います。
ルカによる福音書/ 07章 40節
そこで、イエスはその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
41:ルカによる福音書/ 07章 41節
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42:ルカによる福音書/ 07章 42節
ところが、返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43:ルカによる福音書/ 07章 43節
シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、「あなたの判断は正しい」と言われた。
ここでキリストは、人の罪を借金に例えて話しています。
デナリオンという通過は、今でいうと約1万円の価値です。
したがって、ここでは約500万と50万円の借金をしていた人が登場します。
ある人にとっては、頑張れば返せる金額かもしれません。
しかし、二人とも返済能力がありませんでした。
もしかしたら、病や事故などで体を動かすことができず、働くことができなかった状況だったかもしれません。
そのような二人に対して、金貸は借金を帳消しにしてくれました。
ある人によると、この「帳消し」という言葉は、帳簿ごと全て捨て去るという非常に強い表現だと言います。
それまでの借金は、金貸しの完全な好意によって全て無くなくなってしまいました。
この場合、借金をしていた二人のうち、どちらが金貸しをより多く愛するか。
非常に簡単な問いです。
シモンは応えます。
43:ルカによる福音書/ 07章 43節
シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、「あなたの判断は正しい」と言われた。
そしてキリストは続けてシモンに言われました。
44:ルカによる福音書/ 07章 44節
そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。
45:ルカによる福音書/ 07章 45節
あなたは私に接吻してくれなかったが、この人は私が入ったときから、私の足に接吻してやまなかった。
46:ルカによる福音書/ 07章 46節
あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47:ルカによる福音書/ 07章 47節
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
罪深いと言われていた女性が、ある時、自分の罪がキリストによって赦されたことに気付きました。
いつそのタイミングが訪れたのかは定かではありません。
おそらく、キリストが宣教活動をされている中で、他の群衆の中にいた彼女は、キリストの「罪の赦し」の言葉を耳にし、こんな罪深い自分でも赦されると分かったのでしょう。
そして、500万円の借金を帳消しにされた人が、50万円の借金を赦された人よりも深く金貸を愛するように、彼女も自分の多くの罪をキリストが赦して下さったことで、キリストに対して溢れる愛を抱くようになった。
彼女にとってその愛の表現は、涙でキリストの足を濡らし、それを自分の髪の毛で拭う行為に表れました。
その涙はどのような涙であったでしょうか。
今まで自分がしてきた罪が赦された嬉しさによる涙、感謝の涙かもしれません。
または、こんな自分の罪を赦して下さったキリストの愛を知ったからこそ、「なぜあの時、あんな罪を犯してしまったのか」という自分の罪を悔やみ、悲しむ涙だったのかもしれません。
彼女の涙には、様々な感情が込められていたことでしょう。
しかし、彼女はキリストの前で、誰の目も気にせず、そのような涙を流すことができたのです。
この罪深い彼女は、それまで人目に晒されて生きてきたでしょう。
周囲から後ろ指刺されて生きてきた。
「あなたはひどい罪を犯した、とんでもない人間だ」と非難され続けたことでしょう。
そして、その周りの声に重なるように、彼女の中にいるもう一人の自分からも「あなたは最低の人間だ」と自らを責める声が何度も何度も聞こえていたかもしれない。
しかし、今やキリストによってそんな自分が罪赦されたのです。
取り返しのつかないことをしてしまった自分の罪が赦される経験をしました。
この罪赦された解き放たれた気持ちは、まさに多く借金を背負い重荷を感じていた人が、突然その借金を帳消しにされた時の感覚に似ているでしょう。
その溢れる思いから、彼女は周囲の目から解き放たれて人前で自分の髪をほどき、キリストに香油を塗りました。
彼女は、自分がキリストにできる精一杯のことを、心をこめて行ったのです。
きっと彼女は、涙でキリストの足を吹く時、シモンなどのファリサイ派の人々、群衆を見て「私はあなた達の誰よりもキリストの罪の赦しを感じているわ」思った訳ではないでしょう。
彼女の目は、ただひたすらキリストを見つめていた。
この私の罪を神の権威によって赦して下さった、そのことにただ涙を流す。
私の罪を赦してくださったこのキリストを心から愛したいと願う。
それゆに、彼女はキリストがシモンの家に来ると知った時、「私に何かできることはないか」と思い、彼女は香油を持ってきたのです。
私は、彼女がこの香油を持ってきたのは、おそらく事前に計画していたわけではないと思うのです。
もし事前に計画していたのなら、油を拭うための布などを用意していたはずです。
わざわざ髪の毛を解いて涙や油を拭うことはしなかったでしょう。
彼女は、キリストに再び会えることを知り、いてもたってもいられず、ある意味衝動的に香油を持ち出したのではないでしょうか。
それほど彼女は、自分の罪を赦してくださったキリストを愛せずにいられなかったと思うのです。
そして、キリストは彼女の行為を受けとめられました。
ある人が言いました。
「罪の認識は、他人と比べている限り分からない」と。
あの人よりは自分の方がまだマシな人間だとか、あの人は涙して証をしているけれど自分はそうではない、と他人を比較して自分の罪がどのくらいなのかを認識しようとしているうちは、罪の認識はできない。
私たちが向ける眼差し・視線は人ではない、キリストです。
そして、キリストを見つめるその目は、キリストを単なる預言者としてではなく、自分の罪を赦すために十字架にかかってくださった救い主としてキリストを見るのです。
今までの自分がしてきた罪が赦され、また、救われてもなお、未だに人を断罪し、時にはキリストをも裁く、そんな私たちを知ってもなお赦してくださるキリストを見つめる。
その時、キリストのこの言葉が響くと思うのです。
「あなたの罪は赦された」
私たちは、この時気付くのです。
実は、私たちがキリストを見るずっと前から、私たちのことを見つめ続けてくださっていたことを。
私たちは、ずっとキリストの愛の眼差しの中で生かされ、赦しを得ていたことを知る。
その時生まれるキリストへの愛は、他人と比較して気にするものではありません。
周りを見る必要はない。
ただキリストを見つめて、自分の罪が赦されたことを感謝して受けとめてキリストを愛していけばいい。
この生き方が平和の道です。
キリストは女性に言われました。
50:ルカによる福音書/ 07章 50節
イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
「安心」とは、平和とも訳せる言葉です。
今日のテーマである「罪の赦し」から言えば、この平和とは神との平和を意味すると思います。
神に対する私たちの借金、つまり罪の負債を全て帳消しにしてくださった今、私たちは神との間に平和を得ている。
だからキリストは今日も私たちにこう言われます。
「神との間に負債を抱えていた者よ。
私があなたのその負債を十字架上で全て帳消しにした。
借金は何も無くなった。
今やあなたは神との間に平和がある。
この神との平和の中で、今日も生きよ」と。
だからこそ、私たち教会は今日もキリストによる罪の赦しの宣言を聞き、救い主であるキリストを見つめて愛していこうではありませんか。
祈ります。
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祈り
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天のお父様、どうか私たちが、あなたが切り開いた神との平和の道を歩ませてください。
あなたが罪深い女性にどんなに深い愛の眼差しを注がれたか。
その眼差しが、今の私たちを生かして下さいます。
ただあなたを見つめ、あなたが私たちの罪を赦すために、あなたが十字架で成してくださったことを受けとめ、あなたをますます愛する者とならせて下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。