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230430礼拝メッセージ【言葉とは何か】

https://youtu.be/O7fjDlv1ySw


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・言葉とは何か レーマ 語源的には話す
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今日のテーマは「言葉」です。


今はSNSなどの発達によって誰でも気軽に言葉を発信できる時代になりました。
でも気軽に、ということは裏を返せば、よく吟味しなくても発信できる時代です。
だから時に、誰かの発言が問題となり炎上する、ということもあります。
多くの場合、軽率な、あまり考えずに言葉を発したから大きな反応になってしまうことがあるのです。

でも古来、言葉というのは非常に大切に扱われてきました。
特に重視されていたのは、発した言葉がきちんと実現されるかどうかということです。
それによってその人の信頼がある程度分かるからです。

◯◯時にどこで待ち合わせよう、と約束する。

そして実際その時間に指定した場所にいる、それはその人の言葉が現実になる。
そうすると私たちは、その人の言葉はきちんと現実になる事を知り、あーあの人の言った言葉なら信頼できるね。だから今度もあの人の言葉を信頼しよう、そのように私たちは関係を築いていくのです。

では私たちは最近を振り返っても、どれだけ自分の発した言葉が実際になったでしょうか。
今度こそ1ヶ月で5キロ痩せよう
もう子どもにイライラしない
あの人を赦そう
こういった自分の言葉がどれだけ実現しているか。

以前私と妻が結婚前に交際をしている時のことです。
妻と会う約束をしていたのですが、会社から急に連絡があり何回かその約束が果たせなかったことがありました。
そうなったことには私の仕事の見通しの甘さもありました。

その時妻は私に言いました。
「期待をしてしまうとそうじゃなかった時にガッカリしてしまうから、できない約束はしないで」
言い換えれば、実現できるかわからない言葉を私に発しないで、そう言うのです。
それから私は反省し、妻にも子ども達にもできるだけ下手な約束はしないようにしています。

ただそれでも、どんなに意識しても、想定外のことが起これば約束が果たせないこともあります。
変更しざるを得ないことがある。
そう、人間の言葉には限界があるのです。不完全である。

しかし聖書は言います。
お言葉どおり、この身になりますように。

この、お言葉とは誰の言葉か。
それは人間のではありません。
神が発せられる言葉です。
神の言葉は、私たちの言葉のように、時に変更をしたり、実現しなかったりすることがあるのでしょうか。
いや、神が発する言葉は、確かになる、この私の身に実現するのです。
だから私たちはどの言葉よりも信頼できるこの神の救いの言葉を聞くために、今日もこうして共に集まり御言葉を聞くのです。

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・誰が神の言葉を受けるのか
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今回の聖書箇所で、神の言葉を受けた人はマリアでした。

ルカによる福音書/ 01章 27節
ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。

彼女はヨセフの許嫁、いわゆる婚約期間中の女性でした。
当時、一般的に女性が婚約したのはおそらく10代真ん中、大体14歳位と言われています。
なのでマリアも大体同じくらいの年に婚約をしていたと考えられます。
今でいう中学生くらいの年齢です。

もちろん今の私たちの社会における感覚とは違うと思いますが、14歳くらいの女性ということは、様々な体験を積んだ大人の女性ではありません。
また彼女は、ガリラヤという田舎の、ナザレという名もない街でもなく村に住む、さらに家柄も特に良いわけではない、なんの変哲もない、普通の女性です。

私たちはマリアというと、聖母マリアのように特別な存在をイメージしますが、実はそうではなく普通の10代半ばの女性であったのです。
しかし神は、そのようなマリアを救い主イエス・キリストの母と選び、用いられたのです。

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・神の言葉を受けた時の反応
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そのようなマリアに神の使いが現れ、このように語りかけました。
ルカによる福音書/ 01章 28節
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

このおめでとう、は元々喜びなさい、という意味です。
マリヤよ喜びなさい、恵まれた方。主があなたと共におられる、と。

急に喜びなさい、と言われても一体何のことなのか。
ヨセフと婚約し、結婚することに喜びなさいということなのか。
でもそれなら、「おめでとう、恵まれた方。ヨセフと共になる人よ」そう言うはずではないか。
では何がおめでとうなのか、何が喜びなのか。
それは主があなたと共におられる、ということ。

これから結婚することに対して、喜びなさい、と天使は言ったのではないのです。
なによりの喜びは、神である主があなたと共におられることである、と。

私たちは喜びなさい、おめでとう、というと何か良いイベントが起きたりすることに対して喜ぶことだと思います。
でも聖書は、これから結婚すること、それももちろん良いことですが、何より、神があなたと共におられること、そこに私たちの喜びがある、そのように語るのです。

実際マリアはこの後、私たちが考えるような喜ばしいことが起こったわけではありません。
結婚前に身籠ることによって、多くの試練が続きます。
夫になるヨセフはマリアと密かに離婚するように考え、結婚前にお腹が大きくなっていくことによって、周りの目も時に厳しかったこともあったでしょう。
しかしそういった事がある中でも、おめでとう、なのです。喜びなさい、なのです。

それは私たち人間にとっての喜びは、何か良い事が起こったから喜ぶのではなく、なにより神が共におられること、それが私たちにとっての喜びであることをここで示すのです。

この神の言葉を受けてマリアはどのような反応をしたでしょうか。
ルカによる福音書/ 01章 29節
マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。

戸惑う、というのは悩ます、困らせるという意味があります。
マリアは、おめでとう、という喜びの知らせに対して彼女はひどく困ったのです。
これは一体なんの事だろうか、と考え込む。
様々なことを思い巡らして、神の言葉に対して悩むのです。困るのです。
そう、私たちは、神の言葉、聖書に触れる時、実はすぐには喜べない、戸惑うことがある。
なぜなら、神の言葉を受け取った時、自分の頭で考えると、どうも辻褄が合わない、今までの自分の常識では理解することができないから。

聖書では、「初めに神は天と地を創造された。」と書いてあります。
でもそこで多くの人たちはひどく戸惑う。
え?この世界ってビッグバンからできたんじゃないの?
聖書は言うのです。「神は人を自分のかたちに創造された。」
え?人はアメーバから進化してやがて人になったのではないの?
そうやって私たちは神の言葉に出会うときに、ひどく戸惑うのです。
この世で聞いてきた常識と神の言葉では、あまりにも違うから。
しかも「神が人となり、十字架にかかり死んで、その後甦られた」と書いてある。
そんなの誰かが創作したんじゃないの?
人が生き返るなんてほんと?
そのように多くの人は考え込んでしまうのです。
だから聖書に書かれている神の言葉と私たちが出会う時、ひどく戸惑うのです。

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・なぜ神の言葉がなるのか
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マリアはひどく戸惑っていました。
しかしそんなマリアに天使は再び告げるのです。

ルカによる福音書/ 01章 30節
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
30:ルカによる福音書/ 01章 31節
あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
31:ルカによる福音書/ 01章 32節
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。
32:ルカによる福音書/ 01章 33節
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

天使は今でいう中学生くらいのマリアに、あなたは子供を授かる、、、その子は、偉大で、いと高き方の子、これは神の子と呼ばれるようになる、そう告げました。
実際マリアが授かったイエスは、神の子でありました。
この神の子イエス・キリストは、昔から預言者を通してダビデの子孫として救い主を現れるという神の約束が実現するものです。
その救いは、ヤコブの家、神の民たちを永遠に支配されるお方。
この救い主が、マリアあなたを通して生まれてくる、そうやって天使はマリアに告げるのです。

マリアから見れば、結婚前に子どもが与えられる、それだけでも奇跡なのに、自分を通して生まれてくる子が人ではない、神の子であり、昔から待ち望まれていた救い主その方が自分の身に起こるのです。
そんな大層な事がこの私に起こるなんて果たしてありえるだろうか?
そう思ってしまうのではないでしょうか。
神の子である救い主が生まれる、、、でもそれは私ではなくもっと違う、家柄も良くもっと信仰深い特別な人に与えられるものではないだろうか。
そのようにマリアは考えたかもしれません。
だからマリアは、天使に言いました。

33:ルカによる福音書/ 01章 34節
「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」

私はまだ結婚していません。
そんな自分が子供を授かるなんてありえないです。
そのように、マリアは神の言葉を受け取れなかったのです。

しかしそんなマリアに天使は言います。

ルカによる福音書/ 01章 35節
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
35:ルカによる福音書/ 01章 36節
あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

天使はマリアに、
「あなたが結婚する前に身籠ることができるのは、聖霊によって働く神の力によって身籠ることができるのだ。その証拠にほらエリサベトも、年老いながらも孕ったではないか。
彼女はもう妊娠6ヶ月、それはお腹がもう大きくなってきて、今や誰の目から見ても妊娠がわかっている。そうやって神の力が働かれて、神の言葉が本当になっている」
そのように天使は未だ信じられないマリアに対して告げるのです。

そして最後に天使はこう言いました。
36:ルカによる福音書/ 01章 37節
神にできないことは何一つない。

神にできないことは何一つない。
確かにそうです。
この世界を、神が言葉を発しただけで創り上げる力を持っているお方。
無から有を造り出されるお方。
それなら確かに、結婚前の乙女から子どもを与えることは確かにできることです。
神は全能であるから。
私たちはこの神にできないことは何一つない、という言葉をそのように理解すると思うのです。

でも原文ではニュアンスが少し違うのです。
原文で訳すとこのようになります。
「決して不可能ではない、神の全ての言葉は」
全てのこと、は全ての言葉とも訳せるのです。
このように訳すと、少しニュアンスが変わります。

単に神がなんでもできる、というより、神が発せられる言葉、聖書の言葉は必ず実現するのだ、そのように天使は語るのです。

そしてこの天使のお告げを受けてマリアは、
37:ルカによる福音書/ 01章 38節
「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」
と言いました。

これはマリアが
「天使よ、私の常識ではとても考えられないことですが、神が発せられた言葉で実現しないことはありません。
必ず実現する神の言葉が、この私の身になりますように」
そのようにマリアは応えて言ったのです。

私たちにも、神の言葉が聖書を通して告げられます。
キリストを主と告白する時、その時あなたは救われる、そのように喜びを知らせるものが。
自分のあの罪が、取り返しのつかないようなあの罪でさえ、キリストの十字架と復活によって赦される、そのような救いの言葉を聞く。
その時最初私たちは、普通に考えたら、常識的に考えたらそんなことあるか?と戸惑う。
でも聖書は言うのです。
神にできないことはない、神の言葉で実現しないことは何一つない、と。

だから私たちはそれを受けて信仰告白するのです。
主よ、聖書に書かれている、あなたの言葉が、この私の身になりますように、と。
私を救い、永遠に生かすあなたの愛の言葉が、この私に起こりますように。
そして実際この神の言葉が本当に私たちの身に起こり、私たちは救われていく。

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・結語
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聖書は言います。
37:ルカによる福音書/ 01章 38節
「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」

結婚前のマリアに天使が告げました。
あなたは男の子を産む。この子は神の子であり、救い主であると。
その神の言葉を聞いた時マリアは、どうしてそんなことがありえましょうか、と言いました。
しかし天使は、神にできないことは何一つない、神の言葉に不可能はない、と伝えたのです。
それを受けてマリアは言いました。
「お言葉どおり、この身になりますように。」

私たちも神の言葉、聖書の言葉に出会う時、ひどく戸惑う事があります。
人間の常識から見たらあまりにも違うことが書いてあるから。
全てを造られ、どの被造物よりも偉大な神が、小さい、一捻りしたら死んでしまうほど弱い一人の赤ちゃんとしてこの地上に生まれてくださった。
また、死ぬことが決してない神ご自身が、やがて十字架で死なれ死を経験された。
しかしその後、死を打ち破り甦られた。
そしてこの神の子イエス・キリストを救い主として信じる時、私たちは永遠のキリストのご支配によって救われる、と聖書は言う。
でもこれは普通に、常識的に考えたら私たちが戸惑い考え込むことです。

しかしこの神の言葉に実現しないものは決して何もない。
本当にこの身に起こるのです。

今日も神は私たちに告げるのです。
「ほら、必ずなる私の言葉。不妊の女がみごもり、処女が孕った。
でもそれ以上の奇跡である、あなたの罪が赦されること、この約束の言葉が本当にあなたの身に起こる。
この事を受けとめ、今日も喜びを持って生きよ。」

だから私たちは、毎週聖書に書かれているこの神の言葉を共に聞き、今日も一緒に信仰告白していくのです。
「あなたのお言葉通り、この身になりますように」と。

祈ります。

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祈り
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天のお父様、私たちは多くの言葉に触れて過ごしています。
それらの言葉で一体どれだけの言葉が実現するでしょうか。
人の言葉を信じても、裏切られ、世間が発する言葉も信じても実現しないことを私たちは知っています。
しかし、あなたの言葉で何も実現しないものは決してありません。
必ず御言葉通りなることを受けとめたいと思います。
そしてあなたの、私たちを永遠に生かす愛の言葉がこの自分の身に起こる、いやすでに起こっていることを信じながら、喜んで歩んでいくことができますように導いて下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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