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【キリストに躓かないためには】240407礼拝メッセージ

「キリストに躓かない人の幸い」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 23節
私につまずかない人は幸いである。

今日のテーマは躓きです。
躓き。

みなさん最近躓いて転んだことってありますか?
歩いていたら、電気器具のコードや、室内などの段差に躓いて転けてしまうとか、です。
特に年配の方が躓くのは、畳と畳の間の小さな段差だそうです。
大きな段差で転ぶというより、ほんの少しの段差に躓くというのです。
確かに大きな岩に躓くとは言いません。それはぶつかると言います。
小さな石に躓くと言うのです。

この躓くというのは、人に躓くという使い方もあると思います。
あの人は素敵な人だと思ったのに、素晴らしい人だと思ってこれからも関係を続けようと思っていたのに、その人のちょっとした日常の仕草とか言動で躓く、、、こういった経験を私たちはすることがあるのではないでしょうか。

今回の箇所でキリストに躓いた人がいました。
今日は躓きをテーマに3つのポイントで見ていきたいと思います。
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1、
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1つめのポイントは、だれでもキリストに躓く事がある、ということです。

18:ルカによる福音書/ 07章 18節
ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに伝えた。そこで、ヨハネは弟子を二人呼んで、
19:ルカによる福音書/ 07章 19節
主のもとに送り、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせた。

ここで登場する主な人物は、ヨハネと彼の弟子です。
18節の最初に「これらのこと」と書いてありますが、これはキリストがカファルナウムでナインの息子を甦らせたり、百人隊長の信仰をみて彼の僕を癒したりしたことです。
ヨハネの弟子たちは、これらのキリストがなされた全ての出来事をヨハネに伝えました。

このヨハネとはバプテスマのヨハネ、荒野でイナゴやはちみつを食べていたヨハネのことです。ヨハネは自分自身のことをこのように言いました。
ルカによる福音書/ 03章 16節
ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなたがたに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

ヨハネは、自分は救い主ではない。
私よりはるかに力のある方が来られるのだ。
自分はその道備えをしているに過ぎない、このようにヨハネは自分の立場を理解していました。
そしてヨハネは、キリストの道備えをするために、歯に衣を着せぬ言い方で、群衆に向かって「悔い改めよ」と言い続けたのです。
そして多くの人が悔い改めをしました。

しかしです。
19:ルカによる福音書/ 03章 19節
しかし、領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、
20:ルカによる福音書/ 03章 20節
ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、さらに悪事を重ねることとなった。

ヨハネの、歯に衣を着せぬ悔い改めは、当時リーダーであったへロデにも向けられました。
ヨハネに悔い改めを求められた時、多くの民衆は悔い改めましたが、ヘロデはむしろ心が頑なになり、領主という自分の立場を使って、ヨハネを牢屋に閉じ込めたのです。
したがってヨハネは今牢屋にいるわけです。
だからヨハネは、直接キリストのなさった出来事を見ることはできないため、自分の弟子達を通してキリストのなさることを聞きました。

ヨハネは使いをよこしてキリストに尋ねました。
20:ルカによる福音書/ 07章 20節
二人はイエスのもとに来て言った。「私たちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』とお尋ねするようにとのことです。」

来るべきお方、、、これは、当時の人々が待ち焦がれていた救い主メシアの呼び方です。
ヨハネは問うのです。
私は今まで、私よりもはるかに力あるあなたが来られる、履き物の紐を解く値打ちも無いほどのお方が来ると信じて道備えをしてきました。
様々な癒しと教えをなさるイエス・キリストよ、本当にあなたは私の待っていた救い主なのですか?
あなたを信じ続けていいのですか?
このようにヨハネは問うたのです。

ヨハネほどキリストを来るべき救い主と確信をもって伝えた人はいません。
しかしそんな彼でもキリストを本当の救い主ですかと、問わざるをえなかったのです。

もし私もヨハネの立場だったら同じように思うかもしれません。
自分は今まで救い主キリストのために仕えてきた、捧げてきた人生であった。
しかし今や自分は牢獄に入れられている。
いつ死ぬか分からない身である。
しかもこの状態から助かる見込みが見えない状況になっている。
このような状況を思う時に、私は本当にキリストに仕えてきてよかったのだろうか。
この方に人生を捧げてきて正解だったのだろうか?
それとも他の救い主、他の宗教を信じていった方がよかったのだろうか?、、、このように悩み、疑うのではないかと思うのです。

私たちも信仰を持ち、キリストに仕えていきます。
礼拝を守り、奉仕や捧げ物をしてキリストのために自分の人生を捧げていきます。
しかしそれでも私たちの人生には予期せぬことが起きることがあります。
大きな問題、、、それは事故にあったり、病になったり、人間関係のトラブルに巻き込まれたりすることがあります。
しかもそれらが一向に改善しない、出口が見えない、むしろ悪い方向に進んでいくような状況になることがあります。
その時私たちはキリストに問う、いや問いざるをえないのではないでしょうか。
あなたは本当に救い主なんですか?私はこれからもあなたのこと信じ続けていいのですか?と。
このようにヨハネの問いと重なることがある。

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2、
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ではなぜキリストを疑うのでしょうか、躓くのでしょうか。
2つめのポイントは、キリストの姿に躓く、ということです。

使いを通して問うたヨハネの疑問に、キリストは答えました。
21:ルカによる福音書/ 07章 21節
その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる大勢の人を癒やし、大勢の目の見えない人を見えるようにしておられた。
22:ルカによる福音書/ 07章 22節
それで、こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

22節の、目に見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、、、これらの言葉は、実際にキリストがこの地上に来てからなされた事実であると共に、旧約時代の預言者の言葉でもあります。
昔の人々は、目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人は歩くようになり、病を患っている人は清められていく、、、このような奇跡が起こることは、神がまさにそこにおられることのしるしである、そのように信じていました。
それが今やキリストが来られたことによって、これらの奇跡が現実に起こっているのです。
だからキリストはヨハネに対して、「ヨハネよ、あなたが待ち焦がれていた救い主、神の子がこの地上に実際に来ているではないか。数々の奇跡が起こっているのが何よりの証拠ではないか」
このようにキリストはヨハネの弟子達に告げたのです。

しかしこのキリストのなさった実際の出来事の中に、ヨハネの躓きの原因がありました。
ヨハネですらも躓く小さな石があった。
彼はこう言っていました。
ルカによる福音書/ 03章 16節 後半
その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。
17:ルカによる福音書/ 03章 17節
その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。

来るべきキリストは、火で焼き尽くすお方、大きな剣をもって、この世を裁くお方、、、そのお方こそ、救い主キリストである、このようにヨハネは、救い主とはこうあるべきという自分なりのイメージを思い描いていたと思われます。
だからヨハネはキリストのことを力強い裁き主として民衆に語り、悔い改めを迫りました。

確かにこのヨハネが語った裁き主なるキリストというのは、キリストの真実な姿を表しています。
王の王である神、その御子がこの地上に来られる。
やがてこの世界に裁きを下す権威と力を持っているお方が来る、、、これは正しいです。
何も間違えていない。
しかしそれを固く信じていたからこそ、躓くのではないでしょうか。
なぜなら自分のイメージしていた救い主の像と、キリストがこの地上で実際になされたことには大きな差があったからです。

キリストが来られてこの地上でなされたことは、悪い者を力強くバッサリと裁くのではなく、むしろ病の人を癒し、貧しい人に福音を告げ知らせていったことです。
そこにはヨハネの思い描く、力強い裁き主の姿は無かったのです。
悪をやっつける姿ではなく、弱さをもった人に憐れみを示し、癒しを与える救い主の姿でした。
だからそれを見て、ヨハネは問わざるを得なかった。あなたは本当に来るべきお方ですか?と。

私たちも一緒に生きる親しい人に対して似たような感覚をもつことがあります。
例えば一組の夫婦ができると、夫は自分の妻について、妻は自分の夫について期待をこめて理想のイメージを抱きます。
自分の妻には、夫には、こうあってほしいと多かれ少なかれお互い願うのです。
しかし実際に一緒に生活していくと、相手は自分の思い描いたものとは、随分と違うということに段々と気付くことがあるのではないでしょうか。
思ったよりも素晴らしい時もあれば、そうではなくがっかりすることもある。
初めに抱いた期待が大きいと、現実に触れて失望することが往々にあります。
私が今まで、妻をどれだけ躓かせてきたことか、、、妻が心の中で「思ってたんと違う!」と何度も叫んだことかと思います(笑)
これは夫婦だけではありません。
親子関係も、友人でも、憧れの人も、好きな芸能人でも自分の思い描く姿に裏切られ躓いてしまうことがある。
そう、人は理想と現実とのギャップ、段差に躓くことがあるのです。
それはたとえキリストに対してであっても。

先ほどいったように、偉大な預言者ヨハネでさえ、キリストに対して彼なりの救い主の像を思い描いていました。
キリストは火をもって裁くお方であると。
確かにキリストはこの世をいずれ裁くお方である、そのような権威を持っておられるお方。
しかしその面だけでキリストを見るなら、キリストを真実の姿をとらえ損ねます。
なぜならキリストは、神であり人、王であり僕、裁き主であり赦しを与えるお方、、、とこのように私たちから見たら一見相反する、両極端な性質を同時に併せ持つお方、それがキリストだからです。
ヨハネはキリストに裁き主の姿を見ていました。
今の時代は、ヨハネがイメージしていたのとは逆で、キリストを愛の神、憐れみの神ばかりが強調されていて、キリストの裁き主という側面を見る時に私たちは躓くことがあります。
愛の神ならなぜ人を裁く必要があるのですか?こんな厳しい神ならいらない、ついていけないと裁き主であるキリストの姿を見て失望するのです。

だからキリストの片面の姿だけを見て、たとえそれがどんなに正しいことであっても、それだけでキリストを判断し、思い描くといずれ躓いてしまうことがある。

このことは、当時の民衆についても同じでした。
彼らは今自分たちの国を支配しているローマに、革命をもたらしてくれる力強い救い主を期待していました。
彼らの期待していた救い主は、戦さに使われる力強い馬に乗り、大きな剣でローマを倒す救い主だったのです。
しかし実際にキリストがエルサレムに来た時に乗られたのは、ロバでした。
馬に比べて足の遅い、小さな小さなロバに乗ってエルサレムに入られたのです。
その結果、民衆達はキリストを見て自分たちの思っていた救い主ではないと後から失望し、躓き、その怒りがキリストを十字架にかけることになりました。
彼らの躓きの原因は、キリストの力の無さ、弱さでした。
自分達の思ってた強さではなく、思ったよりずっと力が弱く貧しかったからです。
だから躓くのです。
そう、私たちはキリストの小さな小さな貧しい姿に躓くのです。

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ではどうすればいいのでしょうか。
3つ目のポイントは、わたしたちは、福音を受け入れていく、ということです。

招きの言葉で読みました。
22:コリントの信徒への手紙一/ 01章 22節
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
23:コリントの信徒への手紙一/ 01章 23節
私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
24:コリントの信徒への手紙一/ 01章 24節
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

十字架につけられたキリストの姿、救い主の無惨な姿は、ユダヤ人を躓かせる一番の象徴です。
なぜなら神の御子が、この世界を支配する王なる神が、ご自分が造られた人間なんかに殺されるはずはない、十字架で死ぬはずはない、、、だからこのキリストは本当の神の子ではありえないと、このようにキリストの十字架に躓いていきました。

しかし、一見無力と思える十字架にかかった救い主の姿の中に、本当の神の力が、神の知恵がありました。
なぜなら神の本当の力強さとは、単にローマを倒すことでは無く、またヨハネを捕まえて悪事を行っているヘロデを裁き倒すことでも無く、私たちの最大の敵である死を打ち破るための力だからです。
それが敗北、無力に感じる十字架の上に現れました。

だからキリストは言われます。
23:ルカによる福音書/ 07章 23節
私につまずかない人は幸いである。

私がこの地上で示した十字架と復活による福音につまずかない人は幸いである、と。
この福音にあなたがたを救う正しい道がある。
死を打ち破った命の道が開かれている。
だからあなたたちの思い描く救い主のイメージに頼らないで、まっすぐ福音を受け入れてごらん、、、このように私たちを招くのです。

この福音は、たとえ私たちがキリストにつまづいたとしても、それを十字架によって赦す愛の招きです。
洗礼者ヨハネも、民衆も、そして12弟子もみんなキリストに躓きました。
しかしそれでも、キリストは十字架によってあなた達を赦すと言われたのです。
悪い権力者を裁くことによって力を現されたのでは無く、敵を赦すことによって、神の力が現されました。

この十字架と復活の福音を受け入れていく中で私たちは幸いを得るのです。
なぜなら私たちが躓いても決して見捨てない、キリストの愛の中で生きていくことができるからです。

このように、私たちがどんなにキリストに躓いても、それでも私たちを赦し、憐れんで下さるキリストの愛の中で生きていく、、、これが幸いな者、私たちキリスト者の姿なのです。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 23節
私につまずかない人は幸いである。

今日は躓きをテーマに3つのポイントで見てきました。
1つめ、だれでもキリストに躓く事がある
2つめ、私たちはキリストの姿に躓く
3つめ、私たちはキリストの福音を受け入れていく
です。

キリストは今日も私たちに語りかけられます。
「あなた達の目の前の大きな問題に対して、私はあまりにも無力だと思うか。
力が貧しいと思うか。
しかし私は、力が一番無くなったように見えた十字架で死に勝利した。
この私の福音の力を信じて今日も生きよ」

だから私たち教会は、自分の思い描く救い主のイメージに囚われることなく、キリストの十字架と復活という福音をうけとめていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちはこうあるべきだという自分勝手な救い主の像を作り上げてしまうことがあります。
そしてそれとは違うあなたの存在につまずいてしまうことがあります。

しかしあなたはそんな私たちを赦し、十字架で死に勝利してくださいました。
どうぞこの福音、良い知らせを改めて受けとめていくことができますように導いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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