【子供の自立に必要なこと】

「神さまイメージと恵みの世界」から思わされた事です。

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自立するためには、既存の価値観を客観的に評価することが欠かせません。
それにもかかわらず、クリスチャン・ホームの子どもたちの中に、自分の親に対して「ノー」と言わない子どもがいるのはなぜでしょうか。


親の価値観があまりに強い場合には、子どもは自分の考えていることを表現しないでしょう。
また、「ノー」を言うこと自体が親への反抗であるという価値観があれば、「ノー」を言うことは罪になります。
親が、子どもが自分の考えや気持ちを素直に表出する能力を奪ってしまっている場合もあります。


この場合、想定できる神さまイメージはネガティブなものです。
感性の豊かな子どもであれば、自分が「ノー」を言うことで世間からの親の評価が下がると感じるかもしれません。
また、心の深いところで、実は親から愛されたいというものを抱え込んでいて、もし自分がここで「ノー」と言ってしまったら、永遠に親からの愛をもらえなくなるということに恐怖心を覚えているケースもあるでしょう。


さて、ここで問題になるのは、皮肉なことにキリスト教的価値観です。
たとえば、「親を敬いなさい」という言い方はどのような意味か。
その内容について論じられることはほとんどありませんでした。
ただ単に、親に「ノー」と言ってはいけないという程度の意味だと思っていました。


しかし、よく考えてみると、もう少しいろいろな要素が含まれているように感じます。
そもそも「ノー」を言うこと自体、罪なのでしょうか。
そのようなことはありません。
なぜなら、聖書によれば、人間には神さまのかたちが組み込まれ、自由意志と尊厳が与えられていて、神さまに対しても、「イエス」・「ノー」を言う権利が保障されているからです。


この選択権が少しでも制限されていたら、それはもはや、神さまによって創造された尊厳ある人間の姿ではありません。
ロボットかペットです。
もちろん、神さまに逆らうことを推奨しているのではありません。
しかし、聖書がめざしているのは、人間が神さまの奴隷になることではなく、神さまとの間に、愛と信頼に基づく大人の関係をつくることです。


聖書では、「神の子とされる」という言い方をします。
考えもしないで、相手の言いなりになってしまうのは、聖書が示す関係ではありません。
これも神さまイメージの問題です。
「ノー」と言わせない神さまは、「王」であり、「裁判官」です。
しかし聖書の神さまは、愛にあふれた父なる方であり、私たちは神さまの子です。

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クリスチャンホームでは時に信仰が、健全な親子関係を阻害することがあります。
子供にNOと言えない空気を作ってしまうことがあるからです。


親側も聖書に書かれていることを一生懸命従おうとする分、より、NOという空気を出さなくなってしまうのです。
そしてそのような空気のある家庭の元で育てられた子供達は、親の姿がそのまま神様のイメージをつくっていきやすくなります。
それが裁判官など冷たいイメージになっていくことがある。


安全にNOと言える空気を作っていきたいと思わされます。


今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大



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