【説教者の心得とは?】

「エフェソの信徒への手紙」から思わされた事です。

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講演のあとに質疑の時間になりました。
ひとりの若い牧師が、こういうふうに尋ねた。

私は現在の教会に牧師となって10年説教をし続けてきた。
しかし、どうしても自分の言葉を自分の教会のひとたちがきちんと聴いてくれているかどうかについて心許ないところがある。

言葉が通っていないという不確かな思いがあったのでしょう。
私は通訳をしていました。
ボーレンはじっとその牧師の顔を見ておられました。
そして、あまり大きくない声で、どちらかというと静かな声で、こう尋ねられました。
「あなたはそのひとたちのために、いつでも死ぬ用意ができていますか。
死ぬ覚悟ができていますか」。
英語で言うと「アー・ユー・レディー?」と尋ねている。
いつでもその備えができているか。
それ以外に何にもおっしゃらなかった。

自分の説教を聴いているひとたちのためにいのちを捨てる覚悟をしていない説教者は、説教者の名に値しないと言った。
そのひとが自分の言葉をよく聴いてくれるかと、どこかで教会員を疑うようなことを言うことはおかしいのではないかと問われた。
しばらく沈黙が続きました。
誰も何も言わなかった。
そして、このボーレン教授の言葉は、その後、説教塾の集まりのなかで大切なことを語り合うときに、誰かが思い起こして口にします。
あの言葉から遠くなっていないか。

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牧師は聞き手のために死ぬ覚悟ができているか?
これは問われる事です。
ある意味説教をすることは死ぬ覚悟でやる事になります。
何故なら聞き手が聖書の言葉を真剣に求めているからです。

聞き手が日々の生活の中で、苦しみ、争い、困難、打ちひしがれる現実があり、なんとか教会の礼拝に行き、そこで御言葉を聞く姿勢は真剣そのものだからこそ、御言葉を取り次ぐこちらも全力で向き合うのです。

イエスキリストが十字架で死んでまでも自分を救ってくれたように、聞き手にも向き合っていきたいと思わされます。



今日も最高の1日を😄
God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)
長瀬雄大

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