【聖書の語る死後の世界とは?】240929礼拝メッセージ
「聖書の語る死後とは?」
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イントロ
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聖書は言います。
42:コリントの信徒への手紙一/ 15章 42節
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、
43:コリントの信徒への手紙一/ 15章 43節
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、
44:コリントの信徒への手紙一/ 15章 44節
自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
今日のテーマは「復活の体」です。
私が21歳の頃、クリスチャンであった母が急に倒れました。
精密検査の結果、肺がんステージ4であることが判明しました。
肺全体に癌が広がっていたため、手術は不可能。
抗がん剤治療をするしか手段はありませんでした。
今から約20年前の話です。
現在のように、医学が進んでいたわけではありません。
今も抗がん剤を服用すると色々と副作用はあると思いますが、当時はもっと酷かったように思えます。
母の髪の毛が抜け、肌も急激に老化し、歯が抜け落ちていき、目に見えて痩せ細っていきました。
母は当時50歳でした。
それまで元気だった母が著しく衰える姿を目の当たりにし、私は愛する家族を蝕む病、そして死を非常に憎く感じました。
母が亡くなる数日前、病院で痙攣を起こし、ナースコールをしましたが、看護師さんは何も処置するわけではなくただ見守だけでした。
なぜなら、痙攣が改善したとしてもそれは一時的なものにすぎず、死を迎えるしかない状態だったからです。
どんなに医学が発達しても、肉体はやがて衰え、死は必ず訪れます。
では、人は死んだらどうなるのでしょうか。
一般的に考えられるのは、大きく三つだと思われます。
一つ目は、「死んだら無になる」という考え。死んだら何も残らないという考え方です。
二つ目は、「輪廻転生」、つまり死んだら他の者に生まれ変わるというものです。
そして三つ目は、「天国と地獄」があるという考えです。
キリスト教では、この3つの分類で言うと、3つ目の天国と地獄が死後の世界にあることを教えています。
他の多くの宗教もまた、自分たちが信仰する神を信じたら天国に行けると教えています。
しかし、聖書をよく読むとキリスト教の死後の世界は、他の宗教と違ってかなり独特なものです。
その代表的なものの一つに、死んだ者には「体の復活」があるということです。
本日は、「体の復活」について、聖書を元に3つのポイントで見ていきたいと思います。
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1つ目のポイントは、体の復活は、朽ちない体になる、ということです。
聖書は言います。
コリントの信徒への手紙一/ 15章 35節
しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
私は母が亡くなった時、すでにクリスチャンでしたが、信仰者は死ぬと魂だけが天に上がっていき、半透明の姿になって白い服を着て、天使の輪っかを頭に付け、雲でできた広大な場所で幸せに過ごす、、、そんなイメージを持っていました。
ですから、聖書の「体の復活がある」と聞いても、正直あまりピンきませんでした。
みなさんの中にも、死後の世界に天国と地獄があると信じていても、死後は魂だけが残る、このように考えている方もいるのではないでしょうか。
実は、この第一コリントの信徒への手紙が書かれた当時の人たちも、似たような考えを持っていました。
ギリシャ哲学といって、人間には魂と肉体があり、死んだら魂だけが生き続けると信じられていました。
ですから、人々は聖書には魂の復活だけでなく、肉体の復活もあると聞いた時に疑問が生じたのです。
「体の復活がある?そんなことが本当にあるのか?もし復活するなら、その体とは一体どのようなものなのか?」と。
この問いに対して、聖書はこう答えます。
コリントの信徒への手紙一/ 15章 36節
愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を与えられることはありません。
37:コリントの信徒への手紙一/ 15章 37節
あなたが蒔くものは、後にできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
ここで「愚かな人」とは、相手を軽蔑しているのではなく、「体の復活なんてあり得ない」という当時の常識に対して、そうではないことをはっきり示すための表現です。
聖書はここで、復活した体がどのようなものになるのか、種のたとえを用いて説明しています。
種を土に蒔くと、しばらくして芽が出てきます。
蒔いた種の形と、その後に土から出てくる芽の性質は全く違います。
種が土に埋まって死んだら、新しい命の芽が出てくるのです。
種から芽が出てくる光景は、私たちにとって当たり前のように見えますが、よく考えると実に不思議なことです。
小さい一粒の種から、やがて大きな木に育つ。
なぜ種から全く違う性質の芽が出て実がなっていくのか、これは神秘ではないでしょうか。
このように、種だけを見ていても、まさかこの種から全然違う芽が出るというのは想像がつかないように、信仰者も死んだ後、復活した時の体は全く違う性質のものになる、そう聖書は語っています。
では、どのような体になるのか。
聖書は言います。
42:コリントの信徒への手紙一/ 15章 42節
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、
43:コリントの信徒への手紙一/ 15章 43節
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、
44:コリントの信徒への手紙一/ 15章 44節
自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
私たちの今の体は朽ちていくものです。
日々、私たちは年老いていきます。
子どもの頃は、年を重ねるごとに背丈が伸び、できることが増え、成長していきます。
しかし、ある年齢を過ぎると、だんだん体が動かなくなっていきます。
肩が上がらなくなり、何気ない段差でつまずいたり、シミや白髪が増え、目が見えなくなり、耳が遠くなっていきます。
そう、私たちの体は徐々に弱っていき、衰えていく存在なのです。
しかし、土に蒔かれた種は、全く違う性質の芽になるように、信仰者の体も死んだ後、今とは全く違う朽ちない体として復活する、と。
44節に「霊の体に復活します」とありますが、これは半透明の体を意味するのではありません。
この霊の体とは、聖霊、神の霊によって完全に生かされている、触れることのできる、実体のある体のことです。
私の母の場合であれば、病によって次第に髪の毛が抜け、歩くことができなくなり、車椅子を使わなければ移動できなくなっていきました。
最後には、ベッドから起き上がることもできなくなりました。
そのように弱っていった体も、復活の時には、もはや朽ちることのない体として甦るのです。
足の痛みで歩けなくなることはなく、髪の毛も抜けることもありません。
もはや病に苦しむことも、痛みで涙することもないのです。
このように、信仰者は神の力によって、全く新しい朽ちない体が与えられると聖書は語っているのです。
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復活する体の性質はわかりました。
それでは、復活した姿形はどのようになるのでしょうか。
種が蒔かれて芽を出す時、全く異なった姿に変わるように、故人の姿も全く違う姿に変わってしまうのでしょうか。
2つ目のポイントは、復活の体は、それぞれの姿形になる、ということです。
聖書は言います。
コリントの信徒への手紙一/ 15章 38節
神は、御心のままに、これに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39:コリントの信徒への手紙一/ 15章 39節
どの肉も同じというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40:コリントの信徒への手紙一/ 15章 40節
また、天上の体もあれば、地上の体もあります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
コリントの信徒への手紙一/ 15章 41節
太陽の輝き、月の輝き、星の輝きと、それぞれ違いますし、星と星との間にも、輝きに違いがあります。
38節の「神は、御心のままに死んだ人に復活の体を与える」と書いてあると、神は気まぐれに、この人は気に入ったから復活させよう、とか、この人は気に入らないからやめよう、そのようなイメージを持つかもしれません。
しかし「御心のままに」と訳されている元々の言葉は、神が過去にすでに決めたことを意味しています。
キリストを救い主として信じる者を復活させる神のご計画は、その時その時の気まぐれでなさるのではありません。
神は、死んだ信仰者たち全員に朽ちない復活の体を与えることをもうすでに決めておられるのです。
これが神の御心であり、ご計画です。
そしてその体は、「一つ一つの種」、つまり死んだ人にそれぞれに新しい体を与えると書いてあります。
それぞれに与えられるのです。
獣であれば獣のように、鳥であれば鳥のように、また星もギラギラ眩しい星もあれば、優しく輝く星もあってそれぞれ違うように、復活した時の体も全員が同じ顔形ではなく、神は一人ひとりに固有の姿形を与えて下さるのです。
ですから、いつの日か私たちが復活し、故人と再開する時、「誰?」とはなりません。
その人だとすぐに分かる姿形をしています。
そして、その人の体はもはや朽ちることはなく、病になることはなく、衰えることもありません。
このような体が、復活する時に与えられることを聖書は示しているのです。
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これらのことを聞くと、聖書の語る死後の世界、体の復活は素晴らしいことのように思えます。
私の場合であれば、母だとすぐに分かる形で甦り、しかももうガンに悩まされることはなく、衰えることもない体で再び会うことができる、、、これは私にとって非常に大きな慰めであり希望です。
しかし、聖書の語る復活の体の根拠は一体どこにあるのでしょうか。
このコリントへの手紙を記した著者は、このようになったらいいな、こうであったら嬉しいという想像や空想で書いているのでしょうか。
3つ目のポイントは、復活の体は、イエス・キリストが証明した、ということです。
この箇所で述べられている、信仰者が死後に与えられる復活の体の性質は、十字架で死なれた後に甦られたキリストを根拠として記されているのです。
聖書は言います。
12:ヨハネによる福音書/ 21章 12節
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。
13:ヨハネによる福音書/ 21章 13節
イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
14:ヨハネによる福音書/ 21章 14節
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
復活したキリストを見て、弟子たちは誰も「あなたはどなたですか?」と問いただそうとしませんでした。
それは皆が一目でキリスト本人だとわかったからです。
同じように故人も、いつか天国でお会いする時には、本人だと分かるようになります。
さらに、復活したキリストの体は、弱ることも朽ちることもありませんでした。
復活したキリストは弟子達の前に現れた後、天に昇り、神の隣におられ、今も生きておられます。
天に昇られたのは今から約2000年前の出来事です。
つまり、キリストは復活した朽ちることのない体で2000年以上にわたり生き続け、今も私たちのためにとりなして下さっています。
この復活したキリストを根拠に、コリントの手紙の著者はこう記すのです。
復活した体はその人本人だと分かり、しかも朽ちることはもうない、と。
そして、今も生きておられるキリストが再び、いつの日かこの地上に来られる時、それまでに死んだ者の体は一斉に復活をし、再会する時が来るのです。
キリストが復活された後、弟子たちと食事をしました。
この弟子達は、キリストが十字架にかかる時、裏切った人たちです。
しかし、キリストは彼らと食事をしました。
当時、食事を共にすることは和解することを意味していました。
私たちも甦った故人と出会う時、お互い復活した体を通して和解する日が来ます。
「あの時は酷いことを言ってしまってごめんなさい。赦してほしい」と。
その時、相手から「うん、赦すよ」と言ってもらえる時が来る。
そして今度は、相手からも言われる。
「あの時はあなたに悪いことをしてしまった、酷いことをしてしまった。どうか赦してほしい」と。
その時、私たちは「あなたを赦します」と言える。
天国は神の愛で満たされた世界です。
神が私たちの罪を赦してくださった、その赦しの愛が完全にあるところです。
だから相手に謝っても「赦されない」とか、こちらも相手のことを「赦さない」というものはありません。
きちんと相手から赦され、そして自分も相手を赦せる、、、それが天国です。
私は、甦った母に会ったら、真っ先に謝りたいことがあります。
私の実家は目の前に畑があり、私が畑仕事をしていた時のことです。
その頃の母は病でもう歩けなくなり、車椅子で父に押されて遠くから私が畑仕事を見ていました。
私はそのことに気づいていました。
しかし、その時は見て見ぬふりをしてしまった。
草取りを一旦やめて、母のところに近寄って話しかければよかったのに。たった数分のことです。
けれども私はその時、目の前の作業を優先したいがために、その数分を惜しんでしまいました。
母に何か直接酷いことを言ったわけではありません。
母も、私が見てみぬふりをしているのに気づいていたかどうかも分かりません。
そのような些細なことです。
思春期には、無視したり喧嘩することもあったので、むしろそういったことを先に謝るべきなのかもしれません。
けれども、なぜか私の心には、その畑での出来事がずーっと心に引っかかっています。
だから、復活し母と再会した時、まずそのことをきちんと謝り、赦してもらいたいのです。
「あの時はごめんね。みてみぬふりをしちゃった。ごめんなさい」と。
きっとその時、母はこう言っていくれると私は信じています。
「あなたも大変だったね。大丈夫、赦すよ」と。
このようにして、和解の食事を共にする日が来るのです。
食事というのは、味も大切ですが、何より誰とどんな状態で食事をするかが重要だと思います。
たとえ愛する人と食事をしていても、喧嘩をした状態で食べるご飯ほどまずいものはありません。
昔、妻と結婚記念日に評判の良いレストランで食事をしていた時、些細なことで夫婦喧嘩をしてしまいました。
本当は美味しい料理であったと思いますが、喧嘩した重苦しい空気の中での食事は全く味がしませんでした(笑)
しかし、愛する人と和解する、仲直りした後にする食事は、たとえ卵かけご飯であっても美味しいものです。
このように、愛する人と和解をした後に食べる食事は、まさに天国の味です。
そして「美味しいね」と言えば「美味しいね」と返してくれ、「楽しいね」と言えば「一緒にいれて楽しいよ」と笑いながら食事ができる日がくる。
食事をするには、実体のある体が必要です。
半透明の体では食事はできません。
このように、聖書の語る天国は、復活した体で再び会い、互いに愛し合い、赦しあっていくところです。
ある奥さんが、ご主人を亡くされた時こう言いました。
「私の主人は復活を信じていました」と。
そうです、私たちの信仰の先輩は、キリストが復活されたように、自分たちにも甦りの体が与えられることを信じてこの世を去っていきました。
今ある体はいずれ朽ちていき、死を迎えます。
しかし、それで終わりではありません。
種が蒔かれて死んだ後に、新たな芽を出すように、信仰者にとって死は終わりではなく、新しい命の始まりです。
むしろ、朽ちない体に甦り、永遠に生きる出発点になるのです。
そう、信仰者にとって死は終わりではありません。
むしろ、永遠に生きるための入り口なのです。
だからこそ、私たちも信仰の先輩が大切に信じてきた「体の甦り」を信じ、いつの日かまた会える希望を持って、これからも歩んでいこうではありませんか。
祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちの体は日々衰えていくものです。
だんだんと動ける部分が少なくなり、病があればそれによって苦しむことがあります。
しかし、あなたは私たちに復活の希望を与えて下さいました。
その体は永遠に朽ちることがない体です。
この体によって、いつの日か愛する人と再会できることを信じ、この地上の歩みを確かなものとさせて下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
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