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【来るべきお方は誰か】231203メッセージ

「来るべきお方は誰か」
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イントロ
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本日から待降節、アドベントが始まります。
アドベントとは「到来」を意味する言葉から来ており、キリストの到来を待ち望む期間を指します。
このキリストの到来を意味するアドベントには二つの意味があるのです。

まず1つ目は、神の子イエス・キリストが約2000年前、この地上に来られたこと。
私たちを救うためにこの地上に来られたことの意味を思い巡らせ、祝い待ち望む準備期間です。
ただしもう一つ重要な意味があります。
それはいつの日かまたキリストがこの地上に来られる再臨を待ち望む期間でもあるのです。

旧約時代の人は、神が救い主が来られることを待ち望んでいました。
そして実際にキリストが来られました。
初めて神が人となってこの地上に来られたことから、2000年前の出来事を初臨と言います。
そしてキリストはこの地上の生涯を歩まれ、十字架にかかり死に、そして三日目に復活されました。
復活された後、キリストは天に昇っていかれ、今は神の右におられ、私たちをとりなして下さっています。
キリストは目には見えませんが、確かに今日も生きておられ、聖霊を通して私たちと共におられるのです。
ただし、キリストはずっと神の右におられるわけではありません。
キリストはいつの日か、またこの地上に来られ、その時、様々な苦しみ、痛みがあるこの世界を全く新しい世界を造り直されます。
キリストが再び来られる日が来る、、、だからそれを再臨と言うのです。

その日がいつになるかは私たち人間には分かりません。
父なる神のみが知っています。
しかし必ず再臨の日は来る。
だから、待降節、アドベントで私たちは、2000年前に初めてキリストがこの地上に来られたことを思い巡らしながら、それと同時に、未来に対して、キリストがまた再び来られる再臨に向けてキリストを待ち望むのです。

さて今日の箇所は教会の歴史の中でアドベント期間に昔から選ばれてきた聖書箇所です。
マタイによる福音書/ 11章 03節
「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

私たちはこの世界で生きていく中で、喜びの時もありますが、理不尽なこと、痛み、悲しみを経験することがあります。
その時私たちは思うのです。
来るべきお方はキリストあなたですか?私たちはあなたを信じて待っていいのですか?
それともあなたではなく他の者を待った方がいいのですか?

この問いに対する聖書の答えを今日共に聞いていきたいと思うのです。

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来るべきお方はあなたですか、と誰が尋ねたのか。ヨハネ
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聖書は言います。
2:マタイによる福音書/ 11章 02節
さて、ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3:マタイによる福音書/ 11章 03節
尋ねさせた。

来るべきお方はあなたですか、と問いを発したのはヨハネでした。
このヨハネは、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれていたヨハネのことです。
ヨハネはキリストと同じ時期に生まれた人です。
キリストが生まれる少し前にこの世に生まれ、荒野で人々の罪を責めて、悔い改めを求めた人です。

しかしヨハネは今や荒野ではなく、牢の中にいます。
なぜ彼は牢の中にいるのでしょうか。
彼自身何か悪いことをしたのでしょうか。
彼が牢にいる経緯はマタイ14章1節以下に書かれています。
当時の領主ヘロデが、自分の兄弟の妻ヘロディアを自分の妻としていたのです。
不倫という罪を犯していた。
このヘロデとヘロディアの過ち、罪について、誰もはっきりと言えなかった時に、正面切ってヨハネは彼らの罪を指摘したのです。
「その女をめとることは許されない」と。
当時の権力者にはっきり断罪をした。
このことによりヨハネは捕まえれ、牢の中にいたのです。

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた、と書いてあります。
この「キリスト」という言葉を使うのはマタイでは実は大変珍しいのです。
マタイで「キリスト」という言葉を記すことは数えるほどしかありません。
マタイではいつも「イエス」と書くのです。
しかしここではマタイはキリストと書いている。
キリストとは、名前ではなくメシア、救い主という称号のことです。
マタイはわざわざここで、「キリストのなさったこと」と救い主のみわざとして書くのです。
なぜならキリストがなさっておられるみわざや、言動が、ヨハネが思い描いていたものとは違っていたからです。
ヨハネは、今までイエスが救い主であることを信じてきてたとは思うのですが、彼が牢の中に入れられ、そしてイエス・キリストのなさることを弟子たちから聞いているうちに、本当にこの方イエスが救い主なのだろうか?と疑う、ぐらつくようになったからだと思うのです。

では彼が思い描いた救い主、メシアとは一体どういうものか。
マタイの3章を見ると、ヨハネは自分の後に来られるメシアであるイエス・キリストは、麦打ち場で麦をふるい分けて、殻を消えない火で焼き尽くすように裁きをなさると言いました。
罪を裁き弾糾するメシアの姿です。

ところが実際にキリストがこの地上に来られても、決定的な裁きを語ったり、ヨハネのように厳しい悔い改めをするようにはしませんでした。
むしろ罪人と一緒に食事をしたり、病気を癒したり、律法学者たちには問答で厳しいことを言うことがあっても、ヨハネがヘロデにしたような罪の弾糾をイエス・キリストはなさらなかったのです。
そう、ヨハネにとってキリストは、自分が思い描いていた救い主の姿ではなかったのです。

さらに、ヨハネ自身は、救い主メシアの道備えとして、人々から悔い改めを呼びかけて、道筋をまっすぐにするようにしていきました。
その使命に生きたのです。
彼はイエス・キリストのために生きた。
しかしその結果彼は、時の権力者ヘロデに捕えられ、今や牢獄の中にいる。
ヘロデの私生活の乱れを率直に批判して自分は捕まえられてしまった。
ヨハネはやがて自分が殺されることを知っていたでしょう。
命をかけて自分が信じるメシア、キリストのためにこの世の悪と命を賭けて戦ったのです。
しかしその結果今や1人になって獄中にいる。

ヨハネの描いているメシアであれば、罪を犯すヘロデたちを消えない火で裁いてくれるはずではないか、そして今自分が牢の中にいるところから助けてくれるのではないか、と思う。
だから問うのです。
ナザレのイエスは私が本当に期待していた救い主キリストなのだろうか、と。
なぜこの救い主が来られる道を整えるために生きた自分が今、こうして獄中で苦しまなくてはいけないのだろうか。
自分の信仰は本当に正しかったのだろうか。
イエスが真の救い主なら、事態は好転するはずではないか。
このまま私は本当にイエスを救い主として信じ続けていっていいのであろうか、と。

今年ももう早いもので1ヶ月を切りました。
皆さんは今年一年を振り返ってみてどのような年だったでしょうか。
この一年は感謝であった、、、そのように言えたら素晴らしいことです。
しかしある人から見たら、なぜ私にこんなことが起きるのだろう、キリストを信じているにも関わらず、祈っているにも関わらず、なぜ苦しみがあるのか、むしろ苦しみが増えるのか、事態は良くなっていないではないか、と思うこともあるのではないでしょうか。
ヨハネのように「牢の中」とは言わないまでも、「病の床」に繋がれているような経験をする人もいます。
また今年新たに戦争が増えてしまいました。
世界は平和に向かうどころか、争いが増えているそんな状態にあるのです。
その時私たちは思うのです。
私たちは本当にこのイエスキリストを信じていっていいのか。
自分の信仰は正しいのか、と。

ある人が言います。
「ヨハネは、他の誰よりもキリストに自分の人生を全て賭けていたために、キリストに対して誰よりも真剣な問いを発せずにいられなかった」と。
私たちが聖書の言葉をいい加減に受けとめて、キリストのことを適当に考えているのであれば、このお方に自分の全てを賭けていいのか、と問うことはしなかったかもしれません。
しかしイエス・キリストこそが私たちの唯一の望み、唯一の祝福であると真剣に考えるからこそ、ヨハネの問いと重なるのです。

「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と。

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来るべき方の答え
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この問いに対して、イエス・キリストは答えられます。
4:マタイによる福音書/ 11章 04節
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5:マタイによる福音書/ 11章 05節
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

この言葉はイザヤ35章5節を反映していると言われます。
見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳が聞こえるようになる、というのは、神ご自身が来られていることの印です。
神の代理者でも神の使いの天使が来ているというわけでもない。
神ご自身がもう来られている、と。

ただ、この5節において、教会の歴史の中で疑問を抱く人が一定数いました。後半の
死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
この順序についてです。
なぜ疑問に思うのか。
それは、死者は生き返る、という言葉が最後に来ないのか、という疑問です。
死者が甦ることこそ、決定的に重要ではないか。
だから文章の順番としては、死者は生き返ることが最後になる方が正しいんじゃないかと主張するのです。
つまりこの文章を、「貧しい人は福音を告げ知らされ、死者は生き返る」この方がいいのではないかと言うのです。
確かに死人が甦ることは決定的に重要であるように思えます。
しかし長い教会の歴史において結局そうは理解しませんでした。
死人が生き返るよりも、もっと大切なこととして、貧しい人々が福音を聞くこと、こちらの方を大事にしたのです。
福音を聞かされることの方が重いというのです。

この福音とは「喜びを告げる言葉」という意味です。
喜び、解放を告げる言葉。
ではなんの喜びなのか、なんの解放なのか。
それは、イエス・キリストの十字架と復活を通して、今まで罪の奴隷であった私たちがキリストによって買い戻され、神の子となり、永久に神と共に生きる喜びです。死から解放です。
キリストはヨハネから、あなたは来るべきお方ですか?と聞かれた時、神ご自身がこの地上にきて、すでに福音が告げ知らされていることが始まっている、救いが始まっている、ということをヨハネに伝えたのです。

キリストは獄中にいるヨハネを解放することはできたはずです。
そのような奇跡、問題を解決することができる力をキリストは持っていた。
しかしキリストはそのようなことをしませんでした。
ヨハネがそのまま死ぬことを良しとされたのです。
そのなかでキリストはヨハネに語られたのです。
「ごらん、あなたの弟子たちが私のところで見聞きしていることをよく聞いておくがいい。
神の子である私がこの地上にきた。
十字架と復活による、人の命を永遠に生かす救いがもうすでに始まっている。
ヨハネや、もしあなたを今牢の中から解放してもあなたはいずれ死ぬ。
どんなに今目の前の問題を解決しても、死という牢からは逃れることはできない。
この死に勝利をするために、解放するために私がきたんだ。
その勝利のわざがもう始まっている」と。
そのようにキリストは答えるのです。
そう、来るべきお方キリストは、福音を告げ知らせるため、福音を実現させるために来られるお方なのです。

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どのように来るべき方を迎えたらいいか
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では私たちはどのようにこのキリストが来られるのを待ち望んでいけばいいのでしょうか。

聖書は言います。
マタイによる福音書/ 11章 06節
私につまずかない人は幸いである。

この「つまずく」という言葉は、気分を害する、腹を立てるとも訳せる言葉です。
道を歩いて何かにつまずく。
せっかくこれから何かをやろうとしていた時に意外なものにつまずくのです。
つまらないものが自分の仕事を妨げる、、、それに対して私たちは腹を立てるのです。
こんなはずではない、こんな厄介物があるから自分の思うようにいかないのだと気分を害する。

イエス・キリストが「私につまずかない人は幸いである。」と言うのは、裏を返せば、キリストに腹を立てる人がいるということです。
「神のみわざというのは、こんなものではない。
神の救いとはもっと違うものだ、力強いものだ、私たちの問題を解決するはずだ」と。

当時の民衆は、救い主メシアというと、自分たちを苦しめていたローマを圧倒的な力でやっつけてくれるそんな力強い救い主を期待していたのです。
しかしキリストは、ローマに革命を起こし、ひっくり返すことはしませんでした。
民衆の直接的な問題を解決するわけではなかったのです。
だから民達は、自分たちの生活の問題に対して一見何もしていないように見える、自分たちの困っていることに対して何の役に立たないように見えるイエス・キリストに対して、こんな救い主ならいらない、役に立たない、と腹を立てるのです。つまずくのです。
そして民達は、イエス・キリストを見捨て十字架につけました。
十字架は、人間がキリストにつまずいて、腹を立てた憤りの象徴なのです。
悔い改めをせまったヨハネを殺し、そしてイエス・キリストをも殺してしまうような人間の罪がここにあらわれるのです。

これは当時の彼らだけの話でしょうか。
世界を見ると未だに終わらない戦争、争い。むしろ増えている。
その時思うのです。
「神よ、こういう時にこそ、あなたが力強いみわざで平和を実現してくださいよ」と願うのです、期待するのです。
戦争だけではありません。
自分たちの抱えているの家庭の問題も、職場での問題も、あなたが救い主で、来るべきお方ならあなたの力でこれらの問題を解決してくださいよ、と願うのです。
そしてそれに対して一見何もしていないように見える、弱々しい神、自分の問題をいつまで経ってもなかなか解決させない神に対して私たちは怒るのです、つまずくのです。

本来キリストは、ヨハネが信じていたように、聖なる火で焼き尽くす神でもあります。
救い主を殺そうとし、またいつまでも争いを続ける醜い私たち罪人を裁く方でもあります。
キリストは罪人を容赦無く裁くことができる権威を持っているお方。

しかしイエス・キリストは私たちを裁く道をたどりませんでした。
私たちの罪をご覧になっても躓かなかったのです。
腹をたて、こんな者たちはもういらんと見捨てたわけではありませんでした。
むしろその怒りを全てご自分に向けられ、さらに私たちがキリストに対してつまずいた怒りをも十字架で全て受けられたのです。

このように、私たちがキリストにどんなにつまずいても、この来たるべきお方イエス・キリストは私たちに躓かずに、十字架の上でむしろ愛を示されました。
私たちはこの愛の中で生きることが赦されている。
このキリストが成し遂げて下さった福音によって私たちは今日も生かされているのです。

たとえ私たちが、ヨハネのように信仰を持って正しく生きることを貫き、時の権力者に捕らえられ命を落とすようなことがあっても、また、周りから誤解せれ批判され孤独を感じることがあっても、決して見離さないキリストの十字架の愛が、私たちを永遠に支えて下さるのです。
この愛が、私たちがこの地上で歩む中で直面する厳しい問題にも、痛みにも、立ち向かう力、試練に耐える力を与えてくれると思うのです。

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結語 共同体
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聖書は言います。
3:マタイによる福音書/ 11章 03節
「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

ヨハネは牢の中でキリストの話を聞く時に問いざるを得ませんでした。
自分はキリストのために道備えをしてきた、信仰生活を送ってきた。
しかし今や自分は牢の中にいる、困難の中にいる、物事は悪い方向に進んでいる。
私はこのまま本当にあなたを信じ続けていいのですか?
あなたを信頼し続けていいのですか?と。

キリストはいいます。
私につまずかない人は幸いである。

キリストご自身は、私たちと全く違う形で救いの道を用意してくださいました。
当時の悪を行う人たちを力強く裁いて平和をもたらせたわけではないのです。
むしろその人達に捕らえれ、ご自分の命を捧げて下さったのです。
それによって私たちの最も恐れる罪による死、から救う道を開き、永遠に生きる命を与えてくださいました。

私たちを永遠に生かす道を開いて下さったキリストこそ、来るべきお方。
このお方が、また再び、この地上に来られるのです。再臨されるのです。
私たち教会は、救いを実現してくださったこの来るべきキリストを、待ち望んでいこうでありませんか。

祈ります。

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祈り
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天のお父様、あなたはイエス・キリストをこの地上に約2000年前に送って下さいました。

あなたの救いの力は、悪者を単に裁くということで実現したわけではありません。
十字架にかけられて死ぬという、一番弱いところで現されました。
しかし一番弱いと見えるところで、あなたの力が何も働かれないと思うようなところでこそ、勝利をされました。
死に打ち勝たれたのです。

今の私たちの世界では未だに戦争があり、日々の生活にも問題が多くあります。
しかしあなたの勝利はすでに始まっているのです。
どうか信仰の目を私たちに与えて下さい。心の目を開かせて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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