人が本当に求めているものとは?

「神の小屋」からの学びです。

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「父さん!」
マックは絶叫しながら、息子の顔を見ることもできないでいる父親に飛びついた。

吠えたける風と炎に包まれながら、マックは父の顔を自分の両手ではさみ、強いて顔と顔を合わせさせた。

そして、ことばに詰まりながら、ずっと言いたかったことを伝えた。
「父さん、ごめん!父さん、愛してるよ!」
彼のことばの光は、父親の色に混じっていた闇を切り裂いて爆発し、すべての色を血のような赤に変えた。

二人は泣きながら告白し合い、赦し合い、すべてに増して力強い愛に癒された。

二人はようやく一緒に立ち上がり、父親は、以前は一度もできなかったようなやり方で息子を抱きしめた。
マックはそのとき、父と自分が立っている聖なる場所にうねるような歌声が響き、二人の上に降り注いできたことに気づいた。
お互いの体に腕を回し合いながら、涙で口をきくこともできないまま二人は夜空に立ち上る和解の歌に聞き入った。

鮮やかな色の噴水が子どもたち、とりわけ大きな苦しみを受けた子どもたちの間から弧を描いて吹き出し、それが風に乗って次々に隣の子に渡されていくようにして広がり、ついには草原全体が光と歌の洪水のようになった。

どういうわけかマックには、今が語らいの時ではなく、父との再会もすぐに終わるだろうということがわかった。
そしてこれもまた不思議な感覚によって、この再会の時が自分のためのものであったのと同時に、父のためでもあったことがわかっていた。

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主人公(マック)は父親に虐待されて生きていました。
それが心の奥底の傷であり、どこかで重くのしかかっています。

でも和解の機会がおとずれます。

この場面を見ると改めて、人は無条件に愛されたいという根本的な欲求があることを改めて気付かされます。

特に親にはそうです。
無条件に受けれて欲しいと。


が、親もそして自分も同じ不完全な人間のため、無条件の愛を示すことができず、また、もしそのような愛を示しても受手がその愛を受け取ることができない時があります。
これが現実です。


他人と仲違いになると、自分の主義主張が出て、自分は悪くない、と正当化しますが、でも本当はその相手に自分の気持ちを理解して欲しい、分かって欲しい受け入れて欲しいという単純な動機が奥底にあるような気がしました。



今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大





キリスト教の大きなテーマの一つが赦しです。
神との和解、そして人との和解。

それは品行方正になれとか、聖人のようになれ、という話ではないです。

神が自分を赦してくれた、という事実を受け入れられた時に初めて他人を、そして自分を赦せるようになる。
自分が本当に赦されたというのを体験しなければ相手を赦せないのです。



赦すというのは普通の感情ではできません。
理にかなっていないように見えるからです。

なぜ自分がこんな目にあったのに、相手を赦さなければいけないのかと。

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