脱毛記16
(前回のあらすじ=医療脱毛中の私は、仏と神、そして、量子力学との相似に思い至る)
ドシュ!
私は考える。必ずしも、その私がいる場所は、この世界ではなくても構わないのではないか。
SF的な考え方で、パラレルワールドがある。この世界とは別の世界が、同時に存在し、それは我々の世界とまったく無関係に進行していくというあれだ。平行世界とも訳されるその別世界では、私とほんの少しだけ異なる私が存在し、私とほんの少しだけ異なる生活を送っている。そうした世界が、まるで合わせ鏡のように、無数に存在するという考え方だ。
量子力学では、観測された瞬間に、その量子の位置が決まるということなので、我々の生きているこの世界も、誰かに観察された結果、現在の状況が固定されてたのではあるまいか。世界5分間前誕生説のようだが、そうでないとは誰も言い切れまい。繰り返すが、小さな世界の現象が固定されない限り、大きな世界の位置もまた、固定されないのだ。
ドシュ!
私は村上春樹について考える。
彼の文学を特徴づける「壁抜け」の概念だが、これは、量子のゆらぎによって、こちらの世界とあちらの世界を隔てる「壁」が消失することで起きる現象なのではないだろうか。
小さな世界は、物質と物質との間に膨大な距離がある、スカスカの状態であるのだから、何らかのはずみで、そのスカスカが大きくなって、穴のようになる時だってあるだろう。観測された瞬間に位置が決まるのだから、たまたま、観測した時に、量子の位置が思い切り一か所に固まっているということだって原理的には起こりえるはずだ。
仮にここでいう「壁」がそうなった瞬間にタイミング良くその場所にいたとしたら、壁を通り抜けることだって十分に可能となるはずだ。その場合、元々その世界にいた自分はどうなるのだろうか。ドッペルゲンガーとして交わらずに暮らしているのだろうか。それとも、自らの影として収束するのだろうか。
別世界の私と、この世界の私がほとんど変わらないと仮定する。その場合、Aの私とA‘の私が同時に壁をくぐり抜けて、また違う世界に行ってしまうのだろうか。だとしたら、A→A’→ A”というように、玉突きで順繰りに違う世界へと入り込んでしまうので、新たな世界の自分とは出会わない仕組みになっているのかもしれない。そうなれば、壁の向こうの自分と出会う恐れは無くなる。なるほど、春樹のいう「壁抜け」の成立である。
ドシュ!
私は再び村上春樹について考える。なぜ、彼の紡ぐ物語は、かようにも世界中で支持されるのか。どこに、その普遍性があるのか。
かつては、誰もが感じる都市生活の切なさや寂しさ、喪失感的なサムシングが人気になっていたのかもしれないが、現代のおとぎ話として読むと、かなり寓話的な要素が盛り込まれていることに気付く。
例えば、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」だ。この小説では、壁の内側が描かれる。その世界から出られるのは、死んだ一角獣だけだ。
資本主義は、中心が周辺を搾取する形で成立している。中心が栄えるためには、周辺に矛盾を押しつけるしかない。そのために、資本主義は周辺を求める。この場合、中心が世界の終りであり、周辺は一角獣だ。一角獣は壁の中の矛盾を吸い込んで死んでいく。
主人公の僕は夢詠みとして、その残った矛盾を空気中に解き放つ役割を果たしている。主人公は、異世界から来て、新たに資本主義=壁の中のシステムに加わった存在だ。この場合の壁は、資本主義の壁として捉えられる。
つまり、壁は一つのブロック経済と読み替えることも出来る。壁を構成するのは、文字通りブロックである。ここに私は一つの寓意を見るのだ。
ドシュ!
私の思考は彼方へと飛翔し、もはや、痛みも冷たさも、そして若干の恥ずかしさも全く他人のそれとしてしか認識出来なくなっていた。考えて見れば、全裸で肛門括約筋や大臀筋を押し広げられているのである。恥ずかしくない訳がない。
しかし、その恥ずかしさを感じる主体が存在しなければ、その恥ずかしいという感覚さえ消失するのだ。まさに、今の私は、大宇宙を漂う一つの概念としてしか存在していない。私の肉体は肉体として、医療的な措置を施されているが、そのことと、「私」の間には、直接的な関わりは一切ないのである。これはまさに、思考の革命であり、解脱の境地そのものである。
私は大宇宙そのものであり、宇宙は私なのだ。
私は宇宙が生み出した物質の単なる配置に過ぎない。ちょっとその配列が違っていれば、私はアンドロメダ大星雲を構成する塵だったかもしれないし、または、火星で滅んだ最初の生命体の萌芽だったのかもしれない。いまの私と彼らの間には何の違いも無いのだ。
私はこうして、21世紀を生きる人類として日本と呼ばれる列島の上で生を送っているが、それとて永続的なものではなく、一度肉体が機能を停止すれば、私は焼かれ、大気に放出され、植物の元になるか、砂の元になるか、はたまたカマキリになるか、また違った生物、無機物の構成要素となるに過ぎない。
そう考えると、死はもはや恐れるに足らない。
私という存在の消滅=世界の終わりという前提に立てば、死は確かに恐ろしい。宇宙自体が消滅してしまえば、生の喜びやら、苦しみやら、愛やら美やら、その他全ての価値観がなくなってしまうのだから、恐ろしくないわけが無い。
だが、質量保存の法則を持ち出すまでもなく、その形態が変わっても、全体としての質量が変わらないのであれば、私が死んだところで、何一つ減っていないのだから、存在の消滅という考え方自体が存在しなくなる。ただ、形を変えるだけなのだ。
全ては流転する。
誰もが、幼い頃、食物に感謝をしませうと教わったことだろう。動物も植物も、その命を与えてくれているのだから、と。
また、食物連鎖について、エレメンタリースクールで習ったことがあるだろう。植物から肉食動物まで、全ての生命は捕食者・非捕食者の関係にあり、その輪は循環して閉じることはない、と。
善男子良く之を聞く。では、その輪の中に、私はどう位置づけられるのか。全く同じである。私の肉体は、死んで燃やされると、灰となり、雨の粒となって各地に降り注ぐ。あるいは、落ちた灰は、地面にまみれ、植物の栄養分として吸収される。あるいは、海に流され、魚に水と一緒に吸い込まれる。その魚がまた別の魚に食べられ、鳥に食べられ、動物に食べられ……と繰り返される。
命の循環。無限に続く、命の鼓動。私はすでにその一部なのだ。私は、大きな命の一部分なのだ。命は、命そのものとして、有機物、無機物を問わず、広く宇宙そのものなのだ。
その意味で、まさにその意味で私は宇宙そのもの、そして、宇宙は私そのものなのだ。
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