見出し画像

『すばる』2023年9月号に小池水音『息』(新潮社)の書評を書きました。

第36回三島賞候補作品。言葉への強い信頼のなかで、喪失の乗り越えの(不)可能性を思念する小説です。

語り手は幼い頃から喘息を持病として抱えている〈わたし〉。小学一年生の頃には猫の毛が発作を誘発し、窒息死しかけたこともあった。物語はそんな彼女が、大学生のとき以来、十五年ぶりに発作を起こす場面から始まります。

〈わたし〉の六つ離れた弟も喘息持ちでした。彼は十年前にこの世を去ってしまった。十年前。彼が首を吊り自死を遂げたあの日から、〈わたし〉は彼の喪失を胸に抱えながら生きている。いや、死を経験し続けているというべきでしょうか。

穴の空いた砂袋から、少しずつ中身がこぼれ落ちてゆく。この十年のあいだ、わたしの胸のうちに絶えずあったのはそうした感覚だった。(中略)死別とはつまり、死をもっていっぺんに終えられるものではなく、いっときはじまればやむことなく、果てしなくつづくものなのだと知った。

弟を忘却することへの怖れ。それが死と同じ痛みを〈わたし〉にもたらし続ける。忘却を自らに許せば、彼の死を乗り越えられるのかもしれない。でも、そんなことが可能なのか。〈わたし〉の逡巡は、死を克服することは生者の傲慢な振る舞いであることを仄めかします。死とは、その当事者に刹那的に襲いかかり命を奪うだけのものではなく、その乗り越えを生き残った者に永遠に強いる限りにおいて、生者の経験する事象でもあるのです。

死を受け止めることの困難。本書から聞こえる苛烈な喘ぎが、彼女らがその真っ只中にいることを証しています。「すばる」に執筆した書評では、そのことを中心に、併録されている著者の最初の小説「わからないままで」と並べながら読み解きました。喪失の超克だったり、死を経験することだったりといった、難儀な営為を静かに引き受ける姿を描いた本書は生きることの捉え難い意味を、二つ、別様の仕方で、感じさせる一冊です。書評とあわせてお読みください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?