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心の繊細さを強化していくべきではない

noteの記事を見ていると、心の繊細さに悩んでいる人が多いと感じる。
いわゆる「繊細さん」に向けて書かれた記事を多く見かけるからだ。

そういう記事がよく書かれているという事は、そういう悩みがニーズとして存在するということだと思う。

しかし私は、繊細な人同士でそれぞれの繊細さを共有し、さらに細やかな繊細さを身に着けていくのは得策ではないという考えを表明したい。
こう書くと、まるで私が鋼のメンタルの持ち主で、無神経にもnoteという繊細さんたちの安住の地に土足でズカズカ入り込んできて、聞きたくもない説教をかましているような感じが出てしまうが、私はむしろ、学校生活などで全くうまくやれなかった「スーパー根暗うじうじ人間」だ。

でも、そんなスーパーうじうじ人間だからこそ、様々な意味での強さを持つことが大事だと思っているのだ。例えば、この世の中は様々な力学で動いているが、私の見るところ、この世を支配する力は「物理的な力→法律的な拘束力→個人の道徳を訴える力」の順番で強いと感じる。例えば、アメリカが最強の国なのは、アメリカ国民が最も道徳的な人たちだからでも、アメリカの法律が最も優れているからでもない。アメリカが最も強い軍事力を持っているからだ。その世界最強なはずのアメリカが今すぐに世界征服に乗り出さないのは、アメリカVS他の国々となった時に、他の国々の軍事力が強すぎる≒アメリカ側の被害が大きすぎるからだ。

このアメリカと他の国の関係の例でも分かるように、まずは自分自身に物理的な力がある事を示すことこそが、自分らしいあり方を追求する第一歩だと私は感じている。

では個人にとっての物理的な力とは何か。パッと思いつくのは「他人から正論でマウントを取られないような、日々の行動を通じた生き様の提示」だ。

ちなみに私は正論を使う人が嫌いだ。なぜなら、正論とは「正しさ」というナイフを相手の喉元に近づけながら、歯向かえない状態の相手を断罪するという「精神的暴行」に等しいからだ。

しかし、正論はある側面においては正しいという事も言えると思う。なので可能な限り、そういう正論による批判を受けないような日々の行動を事前に取るようにしたり、正論を言われても、「また別の側面からの、自分にとっての正論」を言い返せるような生き様を貫いていくことが望ましい。

そして、そういった行動ができるようになっていく過程で、人は「繊細さん」を抜け出せるようになり、徐々に生きやすくなっていくと思うのだ。

結局のところ、繊細さんにならざるを得ないのは、悩みがあるからであり、その悩みというのは「社会における何らかの物理的なパワーバランスを解決できない状態にあること」が原因であることが多いと個人的には思っている。そしてその物理的なパワーバランスは、場合によっては自分次第で解決可能なものだったりする。

昔、自立の定義は「自分一人だけの力で生きていくこと」ではなく「なるべく多くの依存先に、少しずつ寄りかかりながら生きていくこと」だと聞いたことがある。(その反対である依存した状態とは「少数の依存先に、自分の人生の大部分を寄りかからせながら生きていくこと」だと言える)それと似たような感じで「自分一人だけの繊細な世界で生きていくこと」ではなく「なるべく多くの依存先に対して、物理的なパワーバランスを上手く働かせていくことで、少しずつ自分らしいあり方を見つけて生きていくこと」が大事なのではないだろうか。より具体的に言うと「自分を支えてくれる可能性がある他者に、日々の行動や生き様という物理的な力を通して、自分らしさを提示していくこと」が大切だと感じる。悩んでいること自体に悩むのではなく、なぜ悩んでいるのかを少しずつでいいから把握していき、その「なぜ」がどうすれば解決できるのかを考え、実行していくようなイメージ。そうした小さな一歩が、明日の自分のメンタルを良くするのではないだろうか。

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