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雨日記 #1

雨は夕方にパラついたかと思うと、なかなか本降りにならず、夜になって一度やんだ。外は雨の匂いがするし、予報では夜半にかけて降るそうだから、わたしは部屋のシャッターを閉じずに雨が窓を打つのを待った。

 あれは寒い日だった。わたしは成田空港から戻ってきた家で、叔母から借りたオイルヒーターを一番強くしてリビングの部屋を温め、芯から温まるミルクティーを入れて飲んだ。わたしはノートパソコンに向かい、Wordを開いてまっさらな紙に向かった。
 それがわたしにとってのはじめての長い、まとまった文章を綴ることになるだろうということはわかっていた。そこに自分の想いや何もかもを表現できると信じていたかどうかは今となってはわからないが、一週間たらずの滞在の間、父と母を前にすると自分の言いたいことが一言も出せずにいた自分にとって、紙の上で吐き出すことができないとすれば、わたしは言葉を失ったも同然だった。表情にも出せず、沈黙を貫いたままではいられない思いが帰国してから溢れかえって肌に滲んでいた。
 できると思っていたのか、わたしはキーボードに手を置いて打ちはじめた。自然と言葉は出てきたのだろうか? つっかえるように文字を打ち込んだのか、わたしには両手に収まりきらない衝動があって、そのときの自分なりに言葉に変換していったに違いない。
 どんな文章だったのか覚えていない。かつて使っていたeメールのアカウントに入れば残っているのかもしれないが、アドレスもパスワードもとっくに忘れてしまった。おそらくそれは幼稚で、いま見ると取るに足らない文章なんだと思う。まだ若い、二十三歳の青年が作家になりたいと両親に打ち明けるメールだった。

わたしはその一週間ほど前、そのことを直接自分の口から伝えるために、両親の住むパリに行ったのではなかったか。
 パリには一度行っただけだった。二十歳の夏に二人が海を渡ってからほどなくして、大学の夏休みを利用して一ヶ月滞在した。
 ヨーロッパの街並みはいつ見ても、どこか誇らしげで、わたしにとっては懐かしく、親しみを覚え、妙な安心感があり、自分が異邦人であると思わせるものはどこにもなかった。
 冷たい石畳も、古い石でできた建物も、暗い路地裏も、夏なのに上着がいるほど凍えた気温も、それはいつもわたしのそばにあって、わたしの中心から発せられる熱のようなものに思えたのだ。
 だからわたしははじめて訪れるその街にいても特段感想を持たなかった。いつものような街だ。ほかのどこともちがうのはわかっているけれど、これはわたしを芯から育てた場所に根を持つ、ヨーロッパの街だった。

それからは何度母に呼ばれても決して訪れなかった。暇であまりにも暑い日本の夏も、年末年始も、兄はしばしば訪れたけれど、わたしは一人で日本にいた。今度は自分の力で行こうと決心していた。
 物心ついたときから自分の意志ではなく、手を引かれるままに、駆け抜けるようにして訪れた国々、わたしの魂を育て、わたしの魂のある部分はそこらで育っていった場所を、今度は自分の力で、つまり社会人となってそこらにいくだけの経済力を持ったあとで行ってみようと固く、静かに、勝手に決意していたのだ。

就職が近づいている頃だった。わたしは就職活動をする素振りを見せなかった。それは遠くに住む母にも知られていた。それでもたまに帰国するときも、電話のときもメールのときも、就職を促すことを強く言われた記憶がない。両親にはわたしがまだ、とてもそんなことができる状態ではないとなんとなく感じていたのだと思う。
 両親からのメールを返した覚えはほとんどない。ひどいのは電話だった。うまく会話できなかった。何を言われても、うん、ああ、などの生返事。話の途中で電話を切る。お父さんに変わるね、といったとたん電話を切る。そんなことを繰り返していた。何かこう、二人の関心をこちらに引き寄せようとする子供じみた思惑があったのかもしれないが、あまりにも強く契りを交わした孤独がわたしの心を蝕んでいたのだ。
 そんななか、わたしは母にそちらにいってもいいかと尋ねるメールを送った。すぐに返事は来た。いつでも来ていい、すぐに航空券は手配する。滞在日程を教えて欲しい。わたしは大学の授業の日程を確認し、一週間の休みの目処をつけると返事を送り返した。そうしてわたしは旅立ったのだった。

その滞在は一言でいうと証人尋問だった。わたしは自ら出廷したのだ。朝になって朝食を済ますとリビングにいく。父がソファに座り、わたしが斜め横のソファに座る。母は家事をしながらもあくまで関心はこちらに向けている。
 今後どうするのか? 就職についてはどう考えているのか?
 沈黙。
 そもそも大学へは行っているのか? ゼミではどんなことをしているのか?
 沈黙。
 わたしがあまりにも答えないので、質問の矛先は変わり、大学を卒業できることを心配された。さらには、もう辞めたのか? とまで。
わたしは、はい、いいえで答えられるような質問には答えられた。だが、今後、目下就職のことについてなると口を閉ざした。
 あまりにも黙っていると心配するので何か言おうとする努力はしていた。好きで何も言わないわけじゃない、両親を心配させることは本意ではなかったし、そもそもそれを取り除くためにやってきたのだから。だが何かを言おうとすると、喉に空気だけが込み上げた。それは言葉を含んでいなかった。何か言わなくてはならないと思って何も出てこないのがわかった。

わたしは長い孤独な生活の中で、自分の体内で築き上げてきた形而上学的な生活の中で、言葉にならない感情と性質を溜め込んでいたのだった。それらは世の中を構成する、あまりにも表面的な情報と物質的な経験を、とるに足らないもの、つまらないものと思わせるのに十分だった。
 生活がなんだ、仕事がなんだ、この世にはそんなことよりもずっと価値のあるものがあるじゃないか。魂が躍動するようなことが、書物に、絵画に、詩に、音楽に詰まっているじゃないか、そんな気持ちがわたしを現実に対して無感覚にさせていた。
 母が一度、わたしに向かって、病気なのか、と尋ねた。わたしは強く否定した。わたしは健全だ。少なくともわたしの魂は。わたしだけが清浄で、汚れているのはそのほかのものすべてだと思っていた。だから声を荒げた。ちがう、といって否定した。
 だったらなぜみんなと同じようにできないのだ、と二人は言った。病気ならば仕方ないし、改善されるようにしかるべき専門家のところに行くなど対処のしようはあるが、ちがうというのなら、なぜもうすぐ大学を卒業するというのに、その後のことを考えていないのだ? なぜ普通に就職するといえないのか、と父はいった。
 父の言うことは全く正論だった。ぐうの音も出ないほどで、そのときのわたしにとっては呆れるほどの一般的な意見だった。父は兄とわたしが生まれてから一度も専制的なそぶりを見せたことはなかったし、このときもそうだった。あくまでも論理的に会話を重ね、何らかの結論、それもわたしの将来がいいものになりそうな結論を導きだそうとしていた。だがそういうのもそのときのわたしにとってはあまりにも平凡な意見に思われたのだ。わたしは天を自由に飛翔するような言葉ばかりを読み、聞いていたため、父に返す言葉を持ち合わせていなかった。現実と噛み合った言葉を。

一言「作家になりたい」といえばそれでよかった。もちろんそれを言ったところで何も解決しない。むしろ混乱の始まりだ。なりたいと言ったところでとめるだろう。だが応援するもとめるも、ではこれからどうしようかの話はできる。建設的な話の開始。だがいえなかった。どうしても、口から出てこなかった。いった後の二人の反応を気にしていたのかもしれないし、ただ恥ずかしかっただけなのかもしれない。どうしても空気の塊が喉に詰まってその一言が出てこないのだ。なぜそうなのかわからなかったし、いまでもわからない。そうして時間だけが過ぎた。

毎日夕方まで話はつづき、終わると外に出かけて目についたビストロで夕食を取った。そのときは普通の家族になった。わたしも会話に参加することができた。だが翌日になってまた話し合いが始まると貝に戻った。いくらでも話すことのできる父は、ずっと話していると母が止めに入り、わたしに話をさせるよう父にいった。わたしは何か言おうとしてもダメだった。空気の塊が喉に詰まっている。三日もたつ頃には、なぜここにきてしまったのだろう、と時間が過ぎるのを待っているだけだった。

夕方の散歩ではセール河沿いに並ぶ古本の出店で何冊か本を買った。ランボーとカミュ。夕食はどの店もおいしかった。ビストロやカフェのカラフェで出てくる安いボルドーワインはわたしの赤ワインの基準だ。街はそれほど親しくはなく、冬だったけれど、ぼんやりとした温かい光に包まれていた。

成田行きの便は遅れに遅れ、およそ三時間ほど待たされた。軽食にサンドイッチとジュースが配られた。エンジンか何かのトラブルだった。母から心配するメールが届いたがわたしは無視した。シャルル・ド・ゴール空港まで見送りに来た両親に対してわたしの態度はそっけなかった。一週間のあいだしぼりにしぼられた不快感が今になって出てきていた。荷物チェックが終わり搭乗口につづくエスカレーターを上っていくわたしの後ろ姿を最後まで見届ける二人に、わたしは最後まで振り向かなかった。

到着した成田は雨だった。ずっと寒いはずのパリよりも寒く感じられた。吐く息は白く、バス乗り場で待つ乗客を整理している係員の眼鏡は曇っていた。わたしはたまプラーザ行きのリムジンバスに乗りこんだ。窓は結露し、顔を近づけると寒気が熱い頬を冷やした。
 わたしは曇る窓を手のひらでこすっては日本の夜を眺めた。出発すると車内は暗くなった。二時間ほどの小旅行だ。
 移動というのはいいものだ。わたしの幼少期は移動に次ぐ移動だった。ある国から別の国へ、またある国からまた別の国へ。それがどこなのか、これからどこへ向かうのか知らないまま移動の感覚に身をゆだねた。身をゆだねる相手はいつだって母だった。父も横にいたけれど、わたしの運命の水先人はいつだって母だった。母にすべてを任せておけばよかった。移動するときの浮遊した感じも、心許なさも、自分が何かの途上にいる感じも母がそばにいれば怖くなかった。九十年代はじめの頃のヨーロッパについてまわった顔についた泥のような暗いシミとカビ臭さも、それを吸いこんで暮らした日々も、今となっては遠い昔の異国の、もうきれいに覆われて見えなくなってしまったものをわたしは恋しく思った。

あれからだいぶ時間がたったあとで、こうして帰国してから乗ったバスの中で、わたしはまた移動の感覚を取り戻していた。懐かしい、かつていつもそばにあったこの感覚。時間と空間が交差し、座標軸に点を打つことのできない、伸びたり縮んだりする時間と空間の中にいたこの感覚を取り戻しながら、あの頃と違って一人でいることが奇妙だった。誰もまわりにいない。自分の運命と生命の手綱をこの手に握らされて途方に暮れていた。人生の海に放り出されたことをようやく知った青年にとって、この街はあまりにも広く、雨は冷たかった。自分で生きていかなければならないこと、両親は、母は、もう一緒についてきてはくれないことをようやく知ったわたしは、雨の中のうさぎのように怯え震えていた。
 わたしはリーバイスの上着のジッパーを首まで上げ、体を丸めた。雨は強く、音もなく降っている。車窓を袖で拭う。わたしは雨粒に映る街の光をぼんやり眺めながら、よそよそしい移動の感覚に身を寄せていた。

わたしはいま、またそのときの感覚を持つことはあるだろうかと、外の雨を見ながら考える。四ヶ月たってやっと自分のものらしくなった部屋で、どこかの国へ行くことはあるだろうかと。
 夜半過ぎから降り始めた音のない雨は一日中降りつづいた。翌日の夜になってもまだ降っている。あのときのバスの中から見た雨ほど冷たくはないけれど、秋の始まりを告げる雨だった。

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