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東京の叔母ちゃん / 最後の東京帰省日記 ⑥

 前回の続き

 翌朝、新宿は晴天だった。寝て起きるだけのホテルを後にし、駅に向かって歩く。歩いている通りをよく見ると、とんでもなく汚い。お酒の缶、タバコの吸い殻、お菓子の袋。一帯にゴミが散乱している。それらを、行政が委託しているであろう清掃員さんたちが、せっせと片付けていた。人々は素知らぬ顔で、通り過ぎていく。まるで外国の大都市みたいだ。

 新宿駅で西武池袋線に乗り、清瀬駅へ向かう。今日は、おばあちゃんに会いにいく。おばあちゃんは、御年87歳。祖父の妹なので、正確には大叔母というらしい。普段は「東京の叔母ちゃん」と呼んでいる。そんな叔母ちゃんと初めて会ったのは、というよりも、初めて叔母ちゃんの存在を知ったのは、大学生の時だった。

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 大学の夏休み、三浦半島に家族で旅行に行った。当時まだ生きていた祖父や、姉家族も一緒の大所帯で、家族旅行というよりは一族旅行という感じだったと記憶している。旅行の最中、母がぽろっと、東京の叔母ちゃんにお礼しなきゃね、と言っていた。聞くと、旅行費の一部を出してくれたらしい。この時、初めて聞く「東京の叔母ちゃん」という存在が、妙に気になった。近くにいるのに、お正月でも、家族の行事でも、会ったことがない。しかし、旅行費を出してくれるくらいだから、僕ら家族のことは、好く思ってくれているようだ。大所帯の一族旅行の最中、東京でひとり暮らすという叔母ちゃんのことを考えた。一体どんな人だろう。今の今まで、知らなかった親族。一度会ってみたい気持ちになり、旅行のお礼も兼ねて、叔母ちゃんを訪ねることにした。

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 東京の叔母ちゃんが、ハンセン病の元患者だと聞いた時、とても驚いた。かつて、学校の授業で習った「遠い過去の話」が、現在の自分にガツンと繋がった瞬間だった。叔母ちゃんは、姪孫である自分が訪ねてくることを、はじめ少し戸惑ったそうだ。というのも、ハンセン病の患者・元患者とその家族には、かつて熾烈な偏見と差別の目が向けられてきた。患者・元患者と家族の関係が悪化し断絶したことも多々ある。だから、姪孫が自分と会ったら迷惑は掛からないだろうか、姪孫は自分のことをどう思うのだろうか、少しの不安を覚えたらしい。そのことにも、自分は衝撃を受けた。ハンセン病の問題は、遠い過去の話ではなかった。元患者さんは、心に負った傷を、現在も抱えて生きている。そしてその内の一人は、自分の叔母であった。一方で同時に、教育の重要性にも気付かされた。自分は、学校教育でハンセン病とその歴史について学んだ。若い世代で、未だにハンセン病や元患者さんに対し、間違った知識や偏見を持っている人はいないだろう。

 東京の叔母ちゃんは、明るく社交的な(そして祖父と良く似て我が強い(笑))おばあちゃんだった。病の後遺症は、見える範囲では指先に少し残る程度で、見た目も普通のおばあちゃんである。大学生の時に訪ねて以降、叔母ちゃんの住む国立療養所多磨全生園に、しばしば遊びに行くこととなった。長崎に移住してからは、コロナの関係もあり、叔母ちゃんに会えていなかった。最近体の具合が悪いそうで、少し認知症気味でもあると聞いている。今回の帰省で、久しぶりに叔母ちゃんと会う。

 次回に続く

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