服部桜とネットとの親和性

 服部桜という四股名の大相撲力士がいる。二〇一五年九州場所に番付が載って以来、一場所も勝ち越せないどころか、通算勝ち星は三勝(百九十戦)、勝率は一分六厘(ともに二〇年春場所終了時点)と、天文学的な数字を更新し続けているほど能力と運に恵まれていない。江戸時代から約四百年続く大相撲の歴史において、これほどまで弱い力士は存在しなかったはずで、その特異性から電子掲示板やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)では負け続けても土俵に上がる服部桜が嘲笑の対象になり、彼の取組見たさに早朝から本場所の会場に足を運び、声援を送る人々もいる。前代未聞のワースト記録と一六年秋場所での敗退行為は、当の本人にとって終生拭いきれない人生の汚点だと思われるが、インターネット上ではそれらの希少性の目撃者として何か表現せずにはいられなくなり、服部桜の人格や相撲に対する姿勢をとことん貶めたり、逆に励ましたりしている。貶める側は連敗記録が続くのを望み、励ます側は四勝目の通算勝ち星を期待する。

 常に勝者と敗者が生じるスポーツの世界に身を置いたことがある人々ほど、服部桜の不甲斐なさに苛立ちを覚え、相撲部屋に寄生するごくつぶしだの、素人と対戦しても負けるだのと彼を笑い者にしているのではないだろうか。入門から五年が経とうとしているのに、まったく勝てないのは明らかに本人の努力不足であり、ひいては彼が所属する式秀部屋の指導力不足に批判の矛先を向ける。弟子の不甲斐なさは師匠に責任の一端があるという道理に則れば、式秀にとっても屈辱的であるはずなのだが、弟子が二、三人しかいない小所帯ならいざ知らず、総勢十九人(番付外力士を除く)の師匠という立場においては、序ノ口下位の番付に甘んじている力士だけに特別目を配らせるわけにもいかず、結果的に服部桜の連敗記録が更新され続けている。部屋の恒例行事となっている新年の書き初めで、服部桜はかつて「年間十勝」と、幕下以下の力士養成員にあるまじき目標を掲げたこともある。

 毎場所皆勤にもかかわらず、勝ち星から遠ざかっている服部桜を励ましたり、面白がったりする気はない。ネットが普及するまでは、幕下以下の力士養成員の動向など当人たちの身内や支援者、熱心な大相撲ファンしか興味を持たなかったが、今では日本相撲協会の公式ホームページを開けばすぐに幕内から序ノ口までの勝敗結果や成績が見られるし、SNSや動画サイトには取組がアップロードされる。それらがファンの裾野を広げているのは言うまでもなく、服部桜と式秀部屋もその恩恵にあずかるように彼らから善かれ悪しかれ注目されている。しかし、関取になるのを目標に幕下や三段目の地位で一進一退を繰り返している力士養成員よりも、番付最下位に留まり続けている服部桜に注目が集まるのは、ネットのいびつさと言えよう。本人が積極的に情報発信しているわけではないのに、ネットで彼の存在を知った人々が勝手に騒いでいるだけなのだから、両者の間で信頼も対立も生じない。

 服部桜の取組動画を見ると、午前八時半過ぎにもかかわらず、観客が国技館や地方会場に足を運んで彼に声援を送っている。弱い選手やチームはファンが離れていくのが一般的なのに対して、服部桜は負け続けることによって興味を持つ人々が増えている。目の前で久々の勝ち星なるか、あるいは連敗記録を更新するか。双方のうちどちらかを見届る立会人になれることが、早朝からわざわざ服部桜の取組を観戦しに行く動機だとすると、ファンの裾野拡大というよりは面白半分の野次馬が増えているだけで、SNSや動画サイトの話題作りにすぎない。Wikipedeiaには服部桜のページがあるし、YouTubeには彼の取組映像だけでなく取組後まで追っかけて差し入れを渡す動画も公開されている。大相撲の世界で何の実績もない力士を執拗に取り上げる行為が、果たしてファンとしての善意なのかどうかとなると、いささか疑問に思わざるを得ず、ネットのいびつさが表れていることだけは間違いない。

 空前絶後のワースト記録に加え、三度の立合いとも自ら土俵に倒れた敗退行為は、服部桜を面白がるうえでの絶好の素材となっている。YouTubeで過去の取組の総集編や二次加工のサムネイルを目にするたびに、それらを編集、視聴する人々が服部桜の不甲斐なさを面白がり、彼の所属する式秀部屋、ひいては角界の体質まで賢しらに批評し合う。服部桜が番付上最下位の立場である以上、彼が知名度を上げるのはネットではなく自ら稽古を重ねて精進するよりほかないのに、ネット上では本人の実力や実績とは関係なしに盛り上がりを見せている。弱すぎる力士を面白がりの対象にすることで、番付下位の現状に理解が深まるのを否定するつもりはない。現に筆者もほかの部屋の力士養成員の顔と四股名について、元関取の身内やアマチュア相撲出身など前評判の高いのに限って覚えているのに、式秀部屋の所属力士は全員覚えているのも、服部桜がそのきっかけだ。本場所開催中は式秀部屋のTwitterを随時チェックし、所属力士の取組結果に一喜一憂するほど、彼らの精進を願っている。

 しかし、いつの頃からか式秀部屋の力士を応援しているとはいえ、服部桜だけは彼の通算成績を鑑みると、才能や努力はさておき、勝利への気迫と執念がすべての大相撲力士の中で劣っているのは明らかで、もどかしさが先立つ。失敗や屈辱から何かを学び、次の仕事や人生の糧にしていくのが人間の成長だとすれば、服部桜の四勝目は永遠に訪れないかもしれない。土俵に立てば相手との一対一の勝負であり、互いに勝とうという気迫がぶつかり合う。誰かが助けてくれるわけでもなく、そのために各々の力士は自己研鑽に励んでいる。普段の稽古量が足りなければ自主トレーニングをするだろうし、体重と筋肉を増やすために腹いっぱい食べる。入門直後の相撲未経験の力士にあっさり土俵を割られたら、屈辱感にまみれるはずなのに、服部桜は自分の弱点を克服することなく土俵に上がり続けている。連敗から何も学ぼうとしない力士と、それに声援を送る観客。双方に対して「かわいがり」以上に違和感を覚えるのも、ネットのいびつさと無関係ではない。

 屈辱に対して鈍感すぎる力士を応援する風潮は、善意と残酷の表裏一体で、大相撲の恥部をことさら強調するのがファンとして適切な行為なのかと、YouTubeにアップされた服部桜の動画を見ながら思う。地上波やBSで放映されない序ノ口、とりわけ話題性の高い服部桜の取組を動画サイトにアップするのは、視聴回数による広告費稼ぎが見え隠れする。負けた取組を何番も収録して視聴意欲を誘うのが、果たして服部桜への善意なのかと首を傾げる。さらに不可解なのは、コメント欄に服部桜を励ます内容も散見されていることで、大相撲の見方が多様化しているといやがうえにも感じさせる。関取を目標に幕下や三段目で星を潰し合っている力士には目もくれないのに、蝸牛の歩みで通算四勝目を目指す服部桜に注目が集まるのは、勝負にこだわらない大相撲を楽しもうとする一面の表れで、ほかの部屋の力士は彼との対戦で負けられなくなる。

 大相撲の常識を覆し、好事家を啞然とさせる服部桜が力士を名乗り、土俵に上がるたびに負け続けるのは、いったい何のためなのか。くだんの敗退行為直後に取材を受けた師匠の式秀によると、服部桜の目標は三段目昇進だそうだ。力士養成員にとっては通過点にすぎない番付が、服部桜にとっては彼らが横綱や大関を目指すほどの最難関であり、毎場所変わりばえのない相撲を取り続けている。ほかのプロスポーツの世界なら、解雇か引退を迫られて自ら身を引かざるを得ないはずなのに、大相撲は幕下以下が無給ゆえに師匠が弟子を強制的に辞めさせるのがまれなので、服部桜の兄弟子の澤勇のように序ノ口在位記録を更新し続けるのもいる。もはや彼らは自身の出世を諦め、稽古よりもちゃんこ番など部屋の裏方作業の比重が高くなっている。白星と出世のために日々稽古に励む力士と、彼らを陰で支える力士が同じ土俵で戦っていることが角界の適材適所だが、幅広い年齢層の力士養成員の存在が広く知られていないことに加え、神事や地方巡業、タニマチといった見世物的な要素が絡んでくるから、何か不祥事が起きると世間の激しい指弾に遭う。

 むろん、見世物になるのは関取であって、角界最弱の服部桜が巡業やタニマチにお呼びがかかるわけでもなく、ネットで彼の存在を知ったいびつなファンだけに激励され、面白がられている。純粋に応援しているのなら、弱者に寛容な好事家もいるのだと納得するしかないが、土俵に上がる服部桜は彼らの声援に何を思い、相手との対戦にどう臨んでいるのかを探ってみたくなる。ファンの支えによって上を目指そうという意欲が湧いてくるはずが、入門したばかりの力士に次々と追い越されていく。未曾有の連敗記録を更新していながらも引退の意思がないようだから、相撲が好きなのだと窺えるが、それならどうして勝つための稽古を重ね、勝負度胸を養おうとしないのか。力士にとってあたりまえの努力や我慢が、服部桜にはゼロどころかマイナスであるように思え、そんな彼に早朝の土俵で声援が飛び交うのは、近年の相撲人気が生み出した不健全な光景に見えてくる。

 努力や我慢を否定する価値観が、服部桜に寛容なファンとシンクロし、彼らはその象徴を担ぎ上げている。それもまた大相撲の多様な見方の一つなのかもしれないが、負け続けながら角界に居座る第二第三の服部桜が今後入門してくるとは到底思えない。勝負の世界に生きる以上、才能と実力がなかったら早々と見切りをつけて別の人生を歩んだほうがはるかに有益であって、その選択をしない服部桜はネット上で口汚く罵られている。匿名で他人の人生を批判するのはみっともないが、結わえた髷が力士の証というだけで、序ノ口の下位から微動だにしない服部桜は、力士の真似事で満足しきっているというか、そこから先に進めない印象さえ受ける。大相撲ファンだった少年が力士のコスプレイヤーになっているだけで、白星や出世への貪欲さも伝わってこない。そんな力士でも番付に載り、無給ながらも本場所ごとに手当が貰え、部屋で寝泊りとちゃんこが食べられるのだから、日本相撲協会と式秀部屋の度量の広さは世間からもっと評価されてもいい。

 入門条件さえ満たせば誰でも力士になれる大相撲は、ほかのプロスポーツに比べて競技者間の能力差が激しく、時にアスリートとしての体を成さない入門者も現れる。服部桜もその一人で、後輩力士に番付で追い越されても、彼の取組は極めて限定的とはいえ早朝の土俵を盛り上げている。負け続けているのにファンの声援が絶えない特異現象は、かつて高知競馬に所属していたハルウララを思い出すが、勝つために生まれてきた競走馬が愛玩動物のように見世物にされるのを、競馬関係者が忌避するのと同様、服部桜見たさに早朝からわざわざ観戦に訪れるファンに対し、その場に立ち会っている勝負審判も複雑な思いを抱いているのではないか。賞金を稼げない競走馬は馬主や調教師の意向で強制的に引退が決まるが、力士の引退は不祥事でも起こさないかぎり、辞めさせられることはない。弟子のいる部屋は協会から経費が支給され、社会保険に加入させられるので、角界全体としては力士の生活を守ろうとする立場だ。

 師匠の言うことを聞き、部屋の規則を守り、集団生活に馴染める力士であれば、関取になれなくても、本場所の土俵に上がり続けることで自らの生活が守られる。一人前とみなされず、ほかの弟子たちとの相部屋生活で、結婚が認められないことさえ我慢すれば、年齢を重ねても部屋に居続けられるわけで、相撲への愛着と往生際の悪さの狭間で逡巡しながら、引退に踏み切れない中年力士も少なくないだろう。髷を落とすことは力士としての死を意味するのであって、第二の人生への不安も相まって角界にしがみついている。関取になる目標よりも、有望な後輩の雑務を引き受け、部屋の裏方に徹するのも力士としての生き方の一つだ。角界は関取だけで成り立っているわけではなく、無名の力士養成員による挑戦と挫折が本場所で繰り返され、順調に出世を重ねていくのもいれば、一進一退の番付に焦燥感を募らせるのもいる。彼らのほとんどが関取になれず角界を去っていくのだから、年齢と体格の条件さえ満たせば入門できるとはいえ、未経験者が成り上がっていくのは厳しい。

 服部桜が土俵に上がり続けるのは、大相撲の歴史において想像だにしない出来事で、まさに「事実は小説より奇なり」だ。しかも、服部桜が取組を終えたその日の夕方に、白鵬が同じ土俵に上がる。同じ興行で天下の大横綱と勝率一パーセントの最弱力士が出場して真剣勝負するのは、ほかのプロスポーツでは絶対にあり得ず、大相撲の競技性というよりも力士社会の多様性を披露しているように思える。服部桜が連敗記録を更新し続けながらも土俵に上がり続けるのは、部屋での集団生活に何らかの存在価値を見いだしているからであって、師匠も彼に引退を迫ろうとしない。白星と出世に見放され、絶望的な成績を残しても、自己都合以外に引退の選択肢はなく、服部桜にはその意思がないようだ。土俵際で踏ん張ることは覚えたが、攻めの形が確立できていないから、毎場所変わりばえのない相撲を取り続ける。そんな力士養成員がネットユーザーの繫がりに利用されているのは、大相撲の新たな楽しみ方でありながら、一部の取組が見世物と思われかねない危うさを孕んでいる。

 国技を標榜し、大鵬や千代の富士ら国民的スターを生み出した大相撲も、モンゴル勢の台頭と前時代的なしきたりに端を発する不祥事によって、メディアからは袋叩きに遭い、電子掲示板やSNSもそれに追随するほど権威の低下が著しい。しかし、暴行事件や女人禁制は鬼の首を取ったかのように糾弾するものの、服部桜や力士養成員の高齢化という角界のひずみには触れようとしない。ハルウララはこぞって取り上げたのに、どうして服部桜やロートルの褌担ぎを見世物にしないのか。競走馬はOKで、力士はNGという線引きが、クレームを過度に恐れるメディアのずるさであり、視聴者や読者もそれを見透かしたうえでネット上での繫がりにおいて彼らを面白がっている。公共性の高いメディアがハルウララと同じ手法で彼らを担ぎ上げれば、幅広い層に問題提起できるかもしれないのに、まるで報道協定でも結んでいるかのように無視を決め込んでいる。これでは、NHKの大相撲中継しか見ないファンに知られるわけもない。

 ニュースとして取り上げる価値がないと判断されればそれまでだが、誇張も交えながら格差社会や貧困問題を報道するなら、角界の格差社会に切り込んで話題を提供するべきであり、服部桜はその象徴に十分値する。半人前の力士への個別取材は協会との軋轢を生みそうだが、角界とメディアが成績不良力士の存在を黙殺すればするほど、ネット上での騒ぎが激しくなって誹謗中傷の度合いも増していく。臭いものに蓋をするのが通用しない時代だからこそ、報道のプロであるメディアが汗をかかなければならず、角界も問題のある力士養成員に奮起を促すために外部の声に耳を傾けるべきだ。どうして勝てないのか、どうして引退しないのか、という素朴な疑問を幅広く共有し、それらの答えを導き出していく。門外漢の提言は耳障りかもしれないが、協会も公益財団法人を名乗る以上、いつまでも出世の見込めない力士を放置しておくのは大相撲としての公益を損ねるのではないか。たとえ無給の力士養成員でも、彼らには養成のための経費や場所手当が支給されており、それらの支出元が税制上の優遇措置を受けている協会なのだから、むしろ角界全体が彼らの土俵人生を延命させているように思えてくる。

 不祥事続きでメディアとネット上の袋叩きに遭っても、本場所の前売り券はほとんど完売状態で、大相撲人気は陰りを見せていない。一一年の八百長問題前後のような惨状と異なるのは、白鵬が全盛期を過ぎたのと日本人の人気力士が現れたことで、外野が八角理事長ら協会執行部を非難しても興行面では順調だ。一方、同じ興行で目下連敗中の服部桜が土俵に上がる姿には、メディアも大相撲評論家も触れたがろうとせず、相変わらずネット上で彼や師匠である式秀の人格を否定するような言葉が羅列されている。もし服部桜が通算四勝目を挙げたら、無念と歓喜の声で大騒ぎになるのが容易に想像できるが、それは彼が角界を去ろうとしない努力の賜物であって、その時点で彼より体力的に劣る力士が奇跡的に現れただけにすぎない。つまり、日々の稽古による積み重ねで同じ番付の力士を負かすのではなく、力士としての体を成さない未経験者が入門するのをひたすら待って迎え撃つ。それも一度きりで、稽古量と伸び代に勝る彼らにすぐ追い抜かれ、再び四つ葉のクローバーを見つけるまで待つ。

 服部桜に初勝利を献上した初顔の相手が、その後の対戦で一度も負けていない現実を考えると、彼が四勝目を挙げるには入門時の本人並みの力士の出現を待つしかない。番付外陥落を避けるために本場所で一番しか相撲を取らない手負いの力士との対戦ですら、見せ場を作れずに土俵を割ってしまうのだから、次の一勝への道のりは果てしなく遠い。同じ序ノ口力士との星の潰し合いでも、本場所を締めくくる頃には服部桜の皆勤全敗が確定する。それでも引退せずに部屋での共同生活を続けているのだから、服部桜にとって角界は居心地のいい場所なのかもしれないが、彼が二十一歳の若者という現実に即すると、同年代からすれば人生を決める大切な時期で、そのために学業や課外活動に費やしてきた努力や我慢と比較すると、明らかに時間の浪費だと思わざるを得ない。入門条件の緩さゆえに、角界という人生の居場所を得ているが、勝負へのこだわりが養われないまま土俵に上がり続けている。

 場の空気を読んだり、集団での和を重んじたりする社会において、既存の常識や価値観にとらわれない異端者の出現は、人々を驚かせ、攻撃的にさせる。服部桜もその一人で、勝利の女神からすっかり見放された力士の出現は、ネット上での不適切な言動なしには騒げなくなっていて、それは彼だけでなく式秀部屋や角界全体にも飛び火している。傍から見れば、服部桜は十代後半を無駄に過ごしてきたともどかしく思えるが、彼自身にとって力士になる人生を選んだのが不退転の決意だったとすれば、それを尊重しなければならない。しかし、負傷による休場もないのに、まったく番付が上げられない土俵人生を歩んでいるとなると、もはや本人や部屋だけの問題ではなく、社会全体を巻き込んでカウンセリングを施し、実のある人生の道筋を示させるべきではないだろうか。特定の力士養成員にそこまで肩入れするのは、角界全体から反感を招くかもしれないが、当の協会ですら服部桜を持て余しているわけであって、彼が知る人ぞ知る存在であるかぎり、何の解決策も見いだせず、大相撲のワースト記録が更新され続けるだけだ。

 入門条件さえ満たせば、たとえ成績不良が著しくても部屋での共同生活が続けられる。髷を結い、体重を増やすという現代社会の常識から外れた慣習が、大相撲を神事として崇めるのに役立っているとともに、世間とのずれによる角界への理解不足が生じている。しかも、ネットユーザーの増加につれて思い込みによる間違った情報も飛び交い、協会執行部が釈明してもその態度が不遜だと受け取られる。誰もが自由に意見を言えるようになったことで、角界は痛くもない腹を探られ、それに困惑する姿をワイドショーが面白おかしく責め立てる。番組制作者にすれば、口下手な元関取を遣り込めるのは赤子の手をひねるようなもので、八角理事長らを無能扱いして新たな改革者を担ぎ上げ、物事の本質を見極める努力の足りない視聴者を誘導する。協会の説明不足とメディアの先入観によって情報が正しく伝わらない中で、服部桜は本場所での皆勤全敗を繰り返し、ネット上ではそれを面白がっている。これでは弱すぎる力士養成員の問題解決にはほど遠い。

 仕事でも学業でも、誰でも結果を出して周囲から認められたいために努力しているのに対し、服部桜は本場所での勝ち越しはおろか、一勝すら挙げられない。それが五年近く続いていることは、式秀の指導力不足以前に本人が力士になれただけで満足しきっているからではないだろうか。高校へも行かず、何の目標も持てなかった少年が、自ら足を運んで式秀部屋の門を叩いたのが一大決心であって、新弟子検査を経て入門という結果を得た。新弟子にとっては入門してから関取になるための努力が求められるのに対し、服部桜は番付に載っただけで思春期の努力を使い果たしたかのように見える。関取になるためだけが土俵人生でないとすれば、毎場所皆勤の服部桜も協会の職員として決して職務怠慢ではないのだが、年金が支給されるまで力士でいられるわけもなく、角界を離れた後の人生設計も考えなければならない。大相撲のワースト記録を更新し続け、負のオーラを放ち続ける元力士を雇い入れ、給料を払う事業者が果たして存在するのだろうか。むろん、三段目昇進という所期の目標が達成できれば、一般人に比べて腕力に勝るのだから、相応の職業にありつけるはずだが、序ノ口下位の番付からまったく這い上がれないままでは、角界での経歴はないものに等しい。

 番付外の前相撲から初勝利まで四場所かかり、それから十二場所を経てようやく通算二勝目を達成した服部桜は、大相撲の常識や価値観を根底から覆し、創作の世界ですら想像の及ばないほどの人物なのだから、もはや角界の手に負えず、社会全体が彼に手を差し伸べて次の道筋を示すべきだ。その中心的役割を果たすのは、ネットではなくマスメディアなのだが、彼らは肩書きや権力のある強者の不祥事を追及するのに躍起になっても、弱者のそれに対しては取り上げ方次第によっては視聴者や読者からのクレームに繋がるのを警戒して無視を決め込む。勧善懲悪や美辞麗句を並べ立てただけの、わかりやすいコンテンツしか作れないメディアが角界の最底辺で負け続けている服部桜の生き様をクローズアップするには敷居が高く、彼は社会全体に広く知られることなく、協会も角界の恥部を荒療治できずに、不祥事のたびに世間から吊るし上げを食らう。

 弱者に社会的関心が向かないどころか、自己責任だと一蹴する風潮は、国民の懐の狭さの表れだが、それを促しているのはネットよりも影響力の大きいマスメディアではないかと、服部桜という力士養成員のこれまでの土俵人生から感じ取れる。実力と運にすっかり見放された服部桜は、もはや角界の養成体系から逸脱しており、社会問題として広く認知させるべきなのに、彼に関する話題の発信元はネット上に限られ、不適切な表現の羅列でますます人格が貶められていく。各社横並びでヒーローやヒロインを称賛するのは得意だが、不名誉を背負い続けている者にはあえて目もくれず、知っていても知らないふりをするのは報道機関としての役割を果たしておらず、その偏った姿勢が視聴者や読者にも刷り込まれ、ネットではさらに口汚い言葉へと変わっていく。あらゆる社会において弱者への攻撃性が常に潜んでいて、それが事件へと表立って発展していくのは、メディアにも責任の一端があると言えよう。

 角界という力士集団が社会と断絶しているのなら、服部桜も出家者のように世間からの干渉を免れるのだが、公益性を有する団体に所属する職員である以上、これまでの戦績を踏まえ、世間は彼にもっと興味や関心を持ってもらうべきで、それが高じて新たな人生が開けるかもしれない。関取になるために努力と苦労を重ねている力士たちからすれば、服部桜ばかりに注目が集まるのは不公平だと思われるかもしれないが、もはや彼は角界の枠に収まりきれず、放置しておけばワースト記録を更新し続けるだけなので、社会全体からの叱咤激励やカウンセリングも必要ではないだろうか。勝てないのは自己責任だと突き放すのは簡単だが、服部桜を応援するために早朝から会場に足を運ぶファンのように、社会には彼に感情移入する弱者がいるわけで、彼らを満足させるためにもメディアが彼の連敗問題を提起し、各分野の有識者からの幅広い提言が得られれば、彼に新たな道筋が示せるだろうし、力士養成員の高齢化など角界があえて触れてこなかった問題の解決の糸口も摑めるだろう。


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