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断片


今朝、ホステルの洗面所を流れていった風の色に、秋がゆっくりと近づいてきたのを感じました。朝食をすませて、テイクアウトした珈琲を片手に、木造のデッキに佇むベンチへ。眼前には穏やかな瀬戸内海があり、大小さまざまな船が嬉々として並んでいます。その向こうには島々が浮かび、薄い青色の空が広がっています。風上で誰かが吹いたシャボン玉と水面が、太陽の光を反射して目を細めました。遠くでは、子どもの笑い声が聞こえます。人生に幾度かある、豊さとはこのことだろうかと感じるひととき。そんな刹那に触れた気がします。


広島の尾道には独特の時間が流れていて、街ゆく人々は無条件に安らいで見えます。戦時中、捕虜の収容所が近くにあったことで戦火を免れた尾道には古い倉庫や町屋が多く残っており、その香りや佇まいが、この不思議な時の流れをつくるのに一役買っているんだと思います。とはいえ、このような古い街並みが残る地域は他にもあるので、それだけでは説明のつかないこのなんとも言えない雰囲気がどこからきているのか、非常に興味深いです。

ここでは人間だけでなく、猫も上機嫌です。東京の神保町にあるサボウルという喫茶で友人から聞いた「世界中を旅して、素敵だと思う街は決まって猫と人間の仲が良い」という台詞を、ふと思い出しました。


故郷の町から出発したこの歩き旅も、2週間がたちました。私はいま、福岡県から東京都へ向かっています。歩くという行為は、身体の疲労と引き換えに頭のもやを取り除いてくれています。一歩、また一歩と進むにつれて、少しずつ思考のゴミを振り落として進んでいるような感覚です。気づいたことといえば、足音や虫の声、雨の音が本当に美しいということ。それは時に、大好きな音楽が邪魔になるほどです。都市で生活している時間が、どれほど雑音に支配されていたのかを思い知らされました。そして、沢山のことを思い出します。忘れていたこと、忘れようとしていたこと。大切なことは現在と未来だということは理解しています。しかし、セネカがいうように、運命や不確定要素に振り回されることなく、自分の好きな時に大事に眺めたり取り出すことのできる過去とその時間があることは、私たちにとって重要なのかもしれませんね。それはひるがえって、現在と未来の捉え方を豊かにする気がするのです。例え、その過去が後悔や悲しみであろうと、その人を形成する大切なひと欠片です。今ここに立つ自分の存在をあるがまま受け入れ、その上で一歩をだすためには、ひと欠片も失くさずに観察し、溶かしていくことが必要なのです。

尾道に来る前に広島市を通ったので、原爆ドームと平和記念資料館に再訪しました。前回訪れたのは、小学校の修学旅行です。あの頃は幼かったので、形容し難い恐怖を感じただけでしたが、今回は犯した過ちと絶望の側面にしっかりと触れました。見学を終えて街に戻ると、75年後の市街は見事に立ち直り、先ほど館内で見た光景がまるで嘘だったかのように繁栄しています。そこに、一人ひとりの尊厳と全体としてのこわさを同時に感じてしまいます。

晩は美味しいご飯を食べました。貫路という名の素敵なお店で、シイラの刺身が絶品。刺身と一緒に鬼灯が出てきて、店主が「それ、初恋の味だよ」と、いたずらっぽく笑います。

初恋の子は、気が強くて小顔で、何かを語るような大きな目をしていたことを思い出します。なるほど、現在に至るまで好きなタイプは変わっていないみたいで笑えます。

その子とは、小学3年生の夏のある日、初めて遊ぶことになりました。「ピアノのお稽古があるけん、終わるまで待ってて」と、彼女は会うなり笑顔で言います。私は黙って県道沿いにあるピアノ教室についていくことにしました。防音が徹底されていてピアノの音色も聞こえないまま2時間が過ぎ、子どもながらに「これからうまくやっていけるのだろうか」と考えたのを覚えています。今思うと、純粋な好きという気持ちに初めて不純物が混ざり、大人への階段を一段登った瞬間だったかもしれません。

その後も互いに好きな気持ちはありましたが、残念ながら他の記憶はありません。彼女は5年生になる前に隣町に引っ越してしまい、初恋は幕を閉じました。


その後の私は部活三昧の日々を送りました。そのあいだ、彼女のことを思い出す時間はひと時もありませんでした。ところが、東京の大学に進学するために帰省した際に、奇跡的に彼女と再会しました。改装して綺麗になったばかりの博多駅で、向かいから歩いてくる彼女を、私はひとめで初恋の人だと気付きました。むこうもすぐにこちらに気づき、私たちは5分ほど興奮して立ち話をした後、連絡先を交換して別れました。

ここから映画のように特別な仲へと発展することはありませんでしたが、数日後、私たちは地元のカフェで空白の8年間を心おきなく語り、素敵な時間を過ごしました。彼女の、我が儘で、それも含めて愛されるような無邪気さは全く変わっていなかったのが印象的です。

そして彼女は帰り際に「同じタイミングで親友が歌手を目指して上京するけん、その子をよろしく」と、一人の女の子の連絡先を私に渡しました。


その女性とは何度かやり取りをしましたが、お互い大都会の時間の流れに追いつくのに精一杯で、会えずじまい。二年が経ち、私はやっと彼女のライブに行くことができたのでした。彼女はそれから、有線のインディーズチャートで1位を取るまでに成長します。出会った時には、まだ地方の香りが残っていた頼りない女の子が純粋で素敵な笑顔のまま力強く階段を登っていく姿は、当時の私の励みのひとつでした。

私たちは順調に友情を育み、たまに連絡を取っては会う関係になりました。ある時、帰省するタイミングが重なり、私は昔からの友人の集まりに彼女を連れてゆきました。また数年が経ち、彼女は、その友人のひとりと結婚して、ギターを置き、幸せに暮らしています。


先が分からないところに、人生の大きな不安と同じだけの面白さがあるのだと思います。不安の方に意識がいってしまう世の中ではありますが、見方を変えれば、同じだけの面白さもきっとあると信じます。

初恋が彼女じゃなければ。あの日博多駅にいなければ。友人に彼女を引き合わせなければ。

誰にもコントロールできない不思議な連鎖。ここで書いた話は、その中のごくごく小さなひとつです。しかし、同じ物語はこの世にふたつとありません。自分の初恋から始まったご縁が小さくちいさく、そして長く繋がっていき、想像もしないところである日あたたかい結び目をつくった。映画やドラマになるような特別な奇跡ではありませんが、そんな素敵な物語で世の中は溢れているのだと思います。それは、日々の行動や選択を大切にしようと思う理由には、十分な代物です。そんな物語にこれからもたくさん出会えることを願って、私は旅を続けようと思います。

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